特設サイト第5回 津波で街が消えた


  • 戦場の焼け野原を思わせる陸前高田市の市街地(7月16日)

【岩手県陸前高田市で】 勤務先の銀行から避難

宮城県気仙沼市から隣接する岩手県陸前高田市内に入ると、土台だけを残した更地が広がり、廃墟と化したコンクリートの建物が無残な姿をさらしていました。名城大学法学部を2001年に卒業し、故郷にUターンした藤井寛輝さん(33)は3月11日、同市中心部にある岩手銀行高田支店で勤務中でした。客も1人か2人だけになった閉店間際の午後2時46分、激しい地震に見舞われました。市中心部は海から1キロも離れていません。津波警報が出される中、16人の全支店員が高田小学校に避難を始めました。支店近くに住む藤井さんの妻紋子(あやこ)さん(33)、3歳の長女優花ちゃんも合流し高田小学校をめざしました。30分後、たどりついた高田小学校から見えたのは、煙をあげながら街をのみこんでいく津波の猛威でした。鉄筋2階建ての支店も、藤井さんが昨年7月に同支店に転勤して来て以来住んでいる住宅も流されました。「発生が夜だったらおそらく助からなかったかもしれません」。藤井さんは街が消えた時の恐怖を振り返ります。

新聞が伝えた惨状

  • 山の上にある高田第一中学校から望む陸前高田市内(7月16日)

陸前高田市では人口約2万3000人中1割近い犠牲者(死者・不明者)を出しました。約8000戸の住宅のうち約3000戸も流されました。震災翌日の新聞は震災から一夜明けた同市の惨状を生々しく伝えています。

「岩手県最南部にある陸前高田市の市街地。いや、市街地があるはずの場所に住宅地がほとんど見当たらない。街が消えてしまったようだ。かろうじて残るのは、鉄筋コンクリート造りとみられる中層建築物だけ。その中の一つの屋上から、救助のヘリコプターにつり上げられている被災者がいた」。読売新聞夕刊1面の「街は消えていた」という空からのルポ記事です。

岩手日報は「女性たちはがれきの山を前に泣いていた。3月11日の大津波により、陸前高田市内は壊滅状態。辺り一面粉々になった家屋や車などがあふれ、日本百景で知られる松林はなくなった。12日午前7時すぎ。一晩明かした人たちが、自分の家や行方不明者を確認しようと避難所から降りてきたが、変わり果てた街の景色にぼうぜんとしていた」と報じています。

柄谷准教授の夏

大震災の発生後から、週末を中心に陸前高田市に入っている都市情報学部の柄谷友香准教授は7月16日、猛暑のなか、避難所や仮設住宅に足を運んでいました。気仙沼市での取材に続いて、柄谷准教授の活動の様子を取材させてもらおうとこの日朝、陸前高田市に向かう柄谷准教授の車に、JR気仙沼駅前から同乗させてもらいました。柄谷准教授は気仙沼市内の旅館をベースにして、レンタカーで陸前高田市に通っていました。名古屋に戻る際は、東北新幹線の一関駅まで車を走らせます。

この日の柄谷准教授は、午前中は体育館が避難所になっていて、運動場には仮設住宅が立ち並ぶ高田第一中学校で開催される住民に対する県の復興計画説明会を傍聴したあと、別の仮設住宅を回って被災者の話に耳を傾ける予定でした。調査のまとめに取り組むのは夜、気仙沼市の旅館に戻ってから。寝るのは午前2時、3時というのがこのところの生活パターンになっているそうです。

生き延びた麦

  • 訪れた被災者宅周辺で麦の穂を見せてもらう柄谷准教授(7月16日)

柄谷准教授は途中、コンビニに立ち寄り、ペットボトルの飲み物を10本ほど買い求めました。近所の知人男性が寝込んでいるプレハブの被災者宅に立ち寄るためです。熱中症が心配でした。ペットボトルを差し入れながら連絡をもらった女性としばらく立ち話が続きました。「これを見て。これだけ収穫できたんだよ」。女性がポリ容器に集めた麦の穂を見せてくれました。

よく見るとプレハブ住宅の周囲にあちこちで麦が実っています。震災のあった日、麦を満載した2トントラックが横転して、積んであった麦が一帯の畑や空き地にばらまかれたのです。麦は、近くにある地元では200年ののれんを誇る老舗のしょうゆ醸造会社が原料として使う予定でした。寒かった春から4か月を経た夏。麦はたくましく育ち、黄金色に実ったのです。「すごいっちゃ。たくましく生き延びたのは高田の1本松だけじゃなかったんだ」。関西育ちの柄谷准教授の言葉がいつの間にか陸前高田の方言である気仙(けせん)言葉になっていました。

前に進むために調査を続けたい

柄谷准教授の専門は都市防災計画。5月13日に名城大学で開かれた震災復興支援について話し合う第2回フォーラムでは、自分がなぜ被害規模が突出して大きかった陸前高田市での調査活動にかりたてられているかを語りました。「今回の大震災ではたくさんの尊い命、財産が失われました。私は元々、土木の世界で育てていただき、土木工学を専門として、外国人にも日本人にも、東北地方の津波対策は世界一だと紹介してきました。防災の研究者だなんて言っていますが、災害から何人の命を守れたんだろうかという反省の念が心の奥にあります。しかし、現地の惨状をみますと、反省だけではいけない、前に進むためにも調査を進めていかなければと思うようになりました」。

陸前高田市民を協力者に

柄谷准教授は学生時代に阪神淡路大震災を体験。京都大学の防災研究所では被災者の生活再建について調査研究に取り組みました。未曽有と言われる今回の大震災の被災を阪神淡路の時と同様にとらえていいのか。ハンドルを握りながら柄谷准教授は「今回はこれまでとは違う、というのが私の最初の仮説でした。その違いと新しさを見つけて今後の都市防災計画に生かすのが一番重要だと思っています。だから、ここにいる間は、なめるようにして全てを見て、関わっているキーパーソンにはできるだけ会おうと思っています」と話してくれました。

陸前高田市で柄谷准教授は、研究者としてではなくボランティアとして、被災した人たちの間に入ったそうです。避難所や消防分団での会合、夏祭りの準備、そしてお年寄りらの話し相手に。「『ユカちゃん、きょうご飯食べていくよね』と声をかけてもらえる関係になってきました」と語る柄谷准教授。携帯電話も良く鳴ります。「最近は、『先生、こういう人に会ったらどう』って言ってもらえるようになりました」。電話の相手に何度もお礼を言う柄谷准教授は嬉しそうでした。研究協力者になってくれる陸前高田市民との絆は着実に深まっているようです。

ゾウさんタオル

  • 石川さんが作ったゾウさんタオル

県立高田高校の第2グラウンドに建てられた仮設住宅で、名城大学の学生たちが「3万枚の奇跡」作戦で集めたタオルと再会しました。「イシ子さん元気だった」。柄谷准教授が訪れた仮設住宅では81歳の石川イシ子さんがごろりと横になっていました。飲みなれない乳酸飲料を飲んでお腹の調子が良くないそうです。部屋には石川さんが作りあげたゾウさんタオルが積み上げられていました。このうち50本分は、柄谷准教授が名城大学のボランティア協議会に頼んで送ってもらった新品タオルで作られたものでした。目に使った小さなボタンは柄谷教授が名古屋で買って持ってきました。

色とりどりのタオルをゾウの形に縫い、ボタンの目をつけたゾウさんタオルは阪神大震災の被災地・神戸で生まれました。家庭に眠る新品タオルを寄贈してもらい、仮設住宅のお年寄りたちが仕立てて販売し、被災者の生活再建やボランティア活動に役立てる試みとして始まり、東日本大震災の被災地でも各地でゾウさんタオルが誕生しています。石川さんが作るゾウさんタオルも小さな目が愛らしく、手をふくのがもったいないくらいです。

阪神大震災の時はゾウさんタオルは1本400円で販売され、経費や郵送料を差し引いた100円が製作した被災者の手元に渡りました。しかし、陸前高田市では石川さんのように、「お金はいらない」と言って、ボランティア活動に来てくれた人たちやお世話になったお礼に配ったりしている人がほとんどです。いくら柄谷准教授が「売ったらいいっちゃ」と水を向けても、石川さんは「作っているだけで十分楽しいから」とのってきません。コンビニで買ってきた遅い昼食をとる柄谷准教授を石川さんは目を細めながら見守っていました。

母校との絆

  • 「陸前高田復興祭」で久しぶりに陸前高田市を訪れた藤井さん一家(8月27日)

岩手銀行高田支店は陸前高田市から一時撤退し、岩手県気仙郡住田町にある同銀行世田米(せたまい)支店に同居中です。藤井さんは陸前高田市の隣の大船渡市にアパートを見つけて家族3人で入居。車で40分近くかけて世田米支店に出勤しています。陸前高田市にも月1回は様子を見に訪れてはいますが、新たな高田支店をいつ、どこに開店できるのか、めどが立たない状況です。

藤井さんのもとにも校友会東北支部長の野神修さん(72)からの安否確認の手紙、電話が届き、校友会からの支援金が寄せられました。8月末には野神さんと同支部理事の谷口正成さん(1964年理工学部卒)が激励に訪れてくれました。もちろん学生時代の同級生たちからも激励の電話やメールが相次ぎました。その中の1人が10月1日、福井県で結婚式を挙げることになりました。「久しぶりに同級生たちに会いたい」。岩手からは遠い福井ですが、藤井さんは自分を心配してくれていた校友会の先輩たちや同級生ら、母校とつながる絆のうれしさをかみしめながら、結婚式への出席を決めました。

人と人との絆ができてこそ復興

  • 全国からの救援物資が提供される青空市(7月16日)

柄谷准教授には講演やパネルリストの依頼も増えています。国土交通省、全国各地の自治体、市民団体、教育関係機関などからです。9月29日には名城大学都市情報学部が開催する公開講座「東日本大震災を考える」(第1回)のトップバッターとして、「被災地区コミュニティとの協働関係を通じた被災者生活再建の実態と課題」のテーマで、陸前高田市の現状をもとに講演します。
公開講座の詳細はこちらから

名城大学附属高校でも6月21日に高大連携講座の講師として招かれ、高校生たちに講演しました。柄谷准教授は、陸前高田市の壊滅的な被害の現状を報告しながら、被災地の復興、自立再建について高校生たちに語りました。「仕事があって、街の経済が活性化して、住まいがあって、街づくりがあって、そして人と人との絆ができて、ようやく復興したことになるのです」。

柄谷准教授の夏は慌ただしく過ぎましたが、週末を利用しての陸前高田通いはまだまだ続きます。

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。

「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。

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