特設サイト第1部 第6回 北の大地から

  • 第6回 北の大地から
    JR帯広駅から札幌に向かう特急「スーパーおおぞら」。
    桑原さんや清水さんが名古屋に向った時代は蒸気機関車でした。

オホーツクの町から

  • 卓球で優勝した「村上嬢」
  • 渉外部を訪れ、名専時代を語ってくれた桑原さん

旧制名古屋専門学校(名専)は新制名城大学への移行に伴い、閉校へのカウントダウンが始まっていました。1953(昭和28)年4月の入学生を最後に名専の募集は打ち切られることになりました。

北海道斜里郡小清水町出身の桑原邦彰さん(84)(旧姓田中力雄、名古屋市昭和区)は1951年4月、名古屋専門学校別科に入学しました。小清水町は北はオホーツク海に面した町。飛来するオオハクチョウは町の鳥に選ばれています。町(当時は村)の高等小学校を卒業した桑原さんは旧制中学校ではなく青年学校に入学しました。学校とは言っても名ばかりで、軍事教練に明け暮れ、勉強どころではありませんでした。

戦争が終わり、法律系の大学に進学したかったものの、青年学校卒業では入学資格がありませんでした。学制の切り替えで、旧制中学を出た若者たちも、大学に進むには1年足りません。そういう人たちと一緒に、入学を受け入れてくれる学校を探していました。すると、名古屋専門学校別科で1年勉強すれば、大学入学資格が得られることが分かりました。高等小学校の恩師が名古屋出身で、名専の受験を勧めてくれたのです。  同様な別科は東京の法政大学や立教大学にもありましたが、名古屋の方が物価が安かったこと、母方の出身地が岐阜県であったことから名古屋行きを決めました。受験会場は仙台市の東北大学。会場には東日本各地から100人近い受験生が集まっていました。

焼け野原の名古屋

  • 焼け野原の名古屋
  • 1954年卒業アルバムに収められた中村校舎。柱には「名城大学理工学部本建築用地」と書かれています。

名専入学が決まり、名古屋に向かいました。小清水町の自宅から最寄りの国鉄駅である札弦(さっつる)までは歩いて2時間。釧路と網走を結ぶ釧網(せんもう)線で釧路に出て函館へ。夜遅くの連絡船に乗って青森から上野を経て名古屋へ向かいました。受験の時は仙台まで1日半かかりましたが、名古屋までは2日がかりでした。

途中、東京の駅周辺には、はだしの浮浪児たちがたくさんいました。名古屋も広小路かいわいを除けばまだ焼け野原が広がっていました。中村校舎の名専で1年間学んだ後、桑原さんは1952年4月、法学部の前身である第一部法商学部に入学しました。

中村校舎もおんぼろでしたが、名古屋城内の粗末な校舎の名古屋大学はもっとひどい環境に見えました。「戦争で大学も燃え、勤め口がなくなった先生たちもいたわけで、大変だったと思います」と桑原さん。

桑原さんは11人兄弟でしたが、仕送りもあって、比較的余裕のある学生時代を送ることができました。何回か北海道に帰省しました。当時はまだ小清水村の時代で人口3000人ほど。同級生で大学に進学したのは4人くらいしかいませんでした。今はジャガイモ、小麦、ビート(砂糖大根)などの収穫も順調で、地元の暮らしも豊かになりました。「当時は本当に不便な所で育ったんだなと思いました。名古屋で生活しているともう極楽です」。豊田自動織機を1990年に定年退職し、悠々自適の生活を送る桑原さんは目を細めながら、遠い日の記憶を語ってくれました。

電灯がともった帯広から

  • 電灯がともった帯広から
  • 名専時代に思い出を語った清水さん(帯広駅前で)

桑原さんが名専別科に入学した翌年の1952年7月、帯広市の清水春雄さん(80)も名専応用物理学科電気分科に入学しました。修了年限は2年。閉校間近ということもあるのか、入学は7月、卒業は8月と変則でした。

清水さんは、帯広では自動車の部品関係を扱う会社で働きながら北海道帯広柏葉高校で学びました。卒業生にはシンガーソングライターの中島みゆきさん、TBSアナウンサーの安住紳一郎さんらもいます。清水さんは定時制で学びました。新制高校に切り替わったばかりで、高卒の資格を取るため、編入試験で入ってきた予科練帰りの年上の生徒たちもいました。

清水さんの家に電灯が灯ったのは高校時代ですが、60ワットの裸電球が輝いた時の光景は今でも鮮明に輝いています。「大げさかも知れませんが、その感激が忘れられず、電気屋になろうと思いました」。清水さんの家は帯広市西17条。市内中心部からはそれほど遠いわけではありませんが、農協が推進役となり周辺部から先に電化が進んでいました。

「電気屋になりたい」という清水さんの夢は、「2年間学べば電検2種の資格がもらえる」という名古屋専門学校の存在を新聞で知ったことで、実現へ大きく前進しました。「電検2種」資格とは、電気工事に従事するのに必要な国家資格である電気主任技術者(2種)資格のことです。「2種といったらなかなか取れる資格ではない。それが卒業と同時に自動的にもらえる。これはすごい魅力でした」。清水さんは電気屋になる夢をかなえるため、名専で学ぶことを決めました。

蒸気機関車での旅路

  • 蒸気機関車での旅路
  • 名専時代の清水さん(中央)。中村校舎で

帯広から函館まではまだ特急列車も走っておらず、蒸気機関車の時代。桑原さんに比べ、大きな駅である帯広からの旅立ちとはいえ、名古屋までは20時間の長旅でした。「名古屋についた時は仕立てたばかりワイシャツが黒くすすけていました」。降り立った名古屋駅。駅裏では、裸電球の下で豚足が売られていました。不安いっぱいの名古屋生活のスタートでした。

清水さんら電気分科6期生は34人。清水さん同様、電検2種の資格がほしくて全国から集まった学生がほとんどで、沖縄から来た学生もいました。しかし、電気関係の専門授業は、普通科高校を卒業したばかりの清水さんらには難解でした。「高坂釜三郎先生、石橋新太郎先生ら、そうそうたる先生たちが教壇に立たれましたが、最初は何を言っているのはさっぱり分かりませんでした」。しかし、安くはない授業料を払い全国から集まった学生たちは真剣でした。

清水さんは学校から歩いて10分ほどの名鉄東枇杷島駅近くに下宿しました。名専と名城大学が併存していたこともあり、下宿には理工学部電気工学科の学生もいました。「大学生ではないんですが、みんな角帽をかぶりました。名古屋専門学校生も名城の一員であるという思いは強かったですから」と清水さんは語ります。

美智子様のうな丼

名城大学電気会会誌(1992年7月30日)に清水さんが「電気会30周年に想う」という一文を寄せています。帯広に帰って起こした日東電気工業株式会社の代表取締の肩書です。この中で清水さんは日清製粉名古屋工場(名古屋市中川区長良町)でのアルバイト経験をつづっています。

夏休みには「立ちんぼ」日雇い労働も体験したり、学ぶことよりもまず生活費の獲得を優先しました。ある製粉工場にバイトに行ったおり、土用の丑の日の昼食どき、「うな丼」がふるまわれました。欠食児にとっては、この世でこれに勝る美味はないと本当に思ったものでした。それにも増して、工場のオーナーの気配りが一生を通じてうれしい出来事でした。現在、少数ながら社員を抱え、また数多くの人と接するとき、今もあの、「うな丼」のオーナーの心根を大切に生きてきたことが、過去30数年間の仕事に少なからず役立ったと思っています。

日清製粉は美智子皇后の実家である正田家がオーナーの会社です。美智子皇后が、民間出身の皇太子妃として成婚パレードに臨み、国民の熱い祝福を受けたのは1959年4月10日。清水さんが名専を卒業して5年後のことでした。 清水さんに専門学校時代の話を聞こうと帯広市を訪れたのは2013年2月中旬。まだ雪が残るJR帯広駅前のホテルロビーで清水さんに会いました。

「うな丼なんて、当時は全く手が届くものではありませんでした。それを、僕らアルバイトも含めて全工場員に振舞ってくれたのです。さすがは美智子様の実家の会社ですね」。清水さんには「美智子様のうな丼」が忘れがたい思い出になっていました。

清水さんは創業した会社からは2012年に引退しました。従業員たちの退職金は目いっぱい積んで、後継者に経営を託したこと、地元同業者たちの中には、「清水さんの母校なら安心」と息子を名城大学に入れた後輩が4人もいることなどを語ってくました。

帰路、北海道土産として知名度が高い「マルセイバターサンド」を販売する六花亭製菓の本社も帯広市にあることを知りました。「マルセイ」とは、帯広開拓に挑み挫折した依田勉三の率いる「晩成社」の○成に由来しています。清水さんの「うな丼」の話と重なり、名古屋に帰るなりさっそく依田勉三と晩成社について書かれた本を一気に読みました。

全国から最後の入学生たち

足利工業大学名誉教授の沖允人(まさと)さん(78)は名古屋専門学校の最後の入学者として1953年4月、清水さんと同じ応用物理学科電気分科に入学しました。2年後の1955年3月に卒業し、名城大学理工学部電気工学科3年生に編入、1957年に卒業しました。名城大学理工学部助教授を経て栃木県足利市にある足利大学教授となり、2006年に定年退職。名城大学の学生時代は空手部でしたが、教員時代は中京山岳会に所属。日本山岳会東海支部設立メンバーにも加わり、日本ヒマラヤ協会も創立するなど国内外で長い登山歴があります。

沖さんは、栃木県に生活の拠点を移すため名城大学を去るにあたり、1990年3月、妻道子さんと共著で『奥三河の山脈~愛知の山と峠~』を自費出版しました。「あとがきにかえて」の中でに名専入学の経緯をつづっています。

広島市に生まれ、そこで高等学校卒業までを過ごした私にとって、それまで名古屋は全く縁のないところであったが、大学受験のため上京したその頃の広島発東京行きの夜行列車はたいてい真夜中に名古屋駅を通った。東京の大学の入試に失敗し、家庭の事情で浪人もできなかった当時、どうするか困った。受験雑誌で見た、「今からでも間に合う」という広告をたよりに、名古屋専門学校に編入することになった。

当時、教育制度が旧制度から新制度へ移行する最後の頃で、旧専門学校は東京の早稲田と名古屋のこの学校しか残っていなかった。その卒業生には教員免許や電気主任技術者資格取得のための国家試験免除といった特典があったのが魅力で、この学校の応用物理科電気分科に入学した。そんなことで、通過するのではなく、住むために名古屋に来たのは昭和28年(1958年)4月であった。そして、旧制専門学校の最後の卒業生として昭和30年(1955年)3月に卒業した。

23年ぶりの母校

  • 23年ぶりの母校
  • 久し振りに天白キャンパスを訪れた沖さん夫妻

2013年4月11日、沖さんが道子さとともに、名城大学を訪れてくれました。この連載企画「名城大学物語~遠い記憶を追って~」のために、渉外部広報課が話を聞かせてもらえる卒業生を探していることを同期の卒業生を通して知り、足を運んでくれたのです。沖さんは足利工業大学は定年となったものの、大学の総合研究センターで自然エネルギーや太陽エネルギーについて、地元の企業や留学生たちのアドバイザー役として、週のうち3、4日は研究室に足を運んでいるそうです。

名専最後の卒業生となった同期生たちについて沖さんは「80人くらいのクラスメイトがいたと思いますが、名古屋市内出身は3人だけ。北海道、東京、広島、九州と本当に全国から学生が集まっていました。電検2種の資格が取れるのはやはり魅力だったのでしょう。田中壽一理事長は電気の出身なので、電気の分野で全国の大学をリードしたかったのだと思います。その勢いでどんどん手を広げていったことが、今の名城大学につながっているわけですから、やはり成功だったのでしょう」と語ります。

「娘たちも名古屋におり、そろそろ足利を引き上げて戻ってこようかなと思っています」。道子さんも、沖さんが名城大学に勤務時代に、附属図書館で働いたことがあるそうです。名専入学から60年の沖さん。道子さんと訪れた新緑の天白キャンパスが懐かしそうでした。

「名城大学75年史」にまとめられている「卒業者数の推移」によると、名古屋専門学校の卒業者総数(1947年度~1954年度)は2029人となっています。

名古屋専門学校卒業生の推移(「名城大学75年史」より)

卒業年度 1947
(S22)
1948
(S23)
1949
(S24)
1950
(S25)
1951
(S26)
1952
(S27)
1953
(S28)
1954
(S29)
卒業生数 85 133 187 714 85 186 275 364 2029

(広報専門員 中村康生)

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