特設サイト第2部 第2回 バンカラ節

  • 草創期の応援団
    草創期の応援団(水野さんの卒業アルバムから)

学部増設と応援団

名城大学では開学2年目の1950年度、中村校舎に理工学部、農学部の増設が認められるとともに、商学部が法商学部(商学科、法学科)に改組されました。第一法商学部(第一部)は駒方校舎に移りましたが、第二法商学部(第二部)は中村校舎に残ります。短期大学部(商経科第一、二部)もこの年に開設され、駒方校舎に合流していきます。3学部の収容定員(1~4年生)は3360人(1学年定員は840人)となり、学生数は一気に膨れ上がります。

1950年度3学部の学科別収容定員数(人)

学部 学科 一部 二部 合計
法商学部

法学科

320

320

640

商学科

320

320

640

理工学部

数学科

200

200

400

電気工学科

200

200

400

機械工学科

200

200

400

建設工学科

200

200

400

農学部

農学科

480

――

480

学生会、自治会もそれぞれに組織されましたが、クラブ活動は体育局のもとに合流し練習や合宿で結束を強めていました。対外試合や学外での競技も盛んに行われました。母校の名を背負い対外競技に挑む運動部。駒方校舎にはこの年、応援団も発足、法商学部2年生(1期生)の山田昭治さん(名古屋市中区)が初代応援団長に就任しました。

創部当時のフェンシング部
創部当時の空手道部
創部当時のヨット部

創部当時の運動部。左からフェンシング部、空手道部、ヨット部(いずれも水野さんの卒業アルバムから)

愛知7大学野球

名城大学を始め全国で新制大学が発足した1949年、愛知県下では名古屋地区の大学を中心に、愛知7大学野球連盟が発足していました。加盟校は名古屋大、愛知大、名城大、南山大、愛知学芸大(現・愛知教育大)、名古屋薬科大(現・名古屋市立大)、名古屋工業大の7校。名大八事、国鉄八事、日通東山、熱田、中日球場などの球場を使用してのリーグ戦が始まりました。1950年7月1日の「名城大学新聞」創刊号には「愛知七大学リーグ戦終る 本校は四位」の記事が掲載されています。

4月22日、名大グランドにおいて、愛大との1戦でリーグが開かれた。この試合で本校は5―4と惜敗したが、その後新入生の入部によって強化され、南山には16-3、名工大には18-8、19-9とそれぞれ大きく引き離して勝ったのであるが、リーグ終幕の名薬大との試合に8-6で敗れたため、惜しくも7勝7敗で4位となった。なおリーグ戦順位は①名大②愛大③名薬大④名城大⑤学芸大⑥南山大⑦名工大の順になった。

校歌、応援歌の誕生

山田さんによると、この当時の応援団は、各クラブから1、2人を出し合っての寄り合い所帯。各部からの、いわば“出向組”によって編成されていました。自分の所属する部で試合がない時は、試合のある部の応援に駆け付けるという互助会的な感じです。

応援団にとって待望されたのが校歌であり応援歌でした。1951年秋、山田さんたちの大学への熱い要望がかないました。河合逸治教授(1886~1964)作詞の校歌、柴山昇教授(1893~1981)作詞の応援歌が実現したのです。「両先生とも応援団の良き理解者でした。熱田球場などでよくご一緒に声援を送っていただきました」。山田さんは両教授を偲びます。

山田さんと同期の水野貢さん(名古屋市千種区)の卒業アルバムに、「商学部」1期生たちが入学時、中村校舎の本部前で撮った記念写真が収められていました。田中壽一学長(理事長も兼務)を中心に前列に座った商学部教員たち。「田中学長は人のいい田舎のおじいさんっていう感じかな」。水野さんは懐かしそうに語りながら田中学長に続いて、「これが学長の長男卓郎氏の奥さんです」と左端の女性について教えてくれました。さらに水野さんは、「田中学長は有名な先生たちをたくさん名城に引っ張ってきたんですよ」と語りながら、田中学長のすぐ右の柴山教授、さらに1人おいて右の河合教授の上で指を止めました。

  • 商学部第1回入学記念写真に収まった教員たち
    商学部第1回入学記念写真に収まった教員たち

柴山教授と河合教授

柴山教授は、東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒。京城高等商業学校教授を経て1949年、名城大学の開学と同時に商学部教授に就任。短期大学部長、法商学部長などを歴任しました。「経済哲学の諸問題」「経済と科学」「国民財産と国民所得」など多くの著作を残しましたが、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツに留学した時の体験談が講義の中で紹介され、学生たちは目を輝かせて聞き入りました。柴山教授は自ら創設した空手道部の初代部長にも就任しています。

河合教授は大手予備校の河合塾創始者です。英語の教授として招かれました。授業にはガリ版刷りのテキストを用意してきて1枚10円で学生たちに買わせていました。山田さんは、「アリが行列をしているような細かい字で書かれた英語のテキストでしたが、買わないことには単位が取れないのでみんなやむなく買いました」。ある日、教室に現れた河合教授が、そのテキストをそっくり自宅に忘れてきたことがありました。山田さんは級友が運転するオートバイの後ろに乗って、桜山の河合塾までその忘れ物を取りに走ったこともありました。「温厚な先生でした。河合塾もやっていたので、食うに困ることもなかったのでしょう。後に紛争の時代になっても、紛争にはタッチせず、名城を去っていきました」と山田さんは振り返ります。

田中学長の教員スカウト

  • 河合教授
  • 河合教授

田中学長の河合教授への勧誘が行われたのは開学前年の1948年5月でした。河合氏は静岡県引佐郡細江町気賀(現在の浜松市北区)出身。旧制七高(鹿児島)、東京帝国大学英文科を卒業し、五高(熊本)、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)の教授を歴任した後、1933年に河合塾の前身である「河合英学塾」を名古屋市昭和区下構町の自宅に創設します。

 

河合氏の三男で元河合塾学長の河合恒人氏は田中学長が河合氏を自宅にスカウトに訪れたときの様子を著書『河合塾創立八十年 汝自らを求めよ~河合塾創立者 河合逸治の生涯』に記しています。この時の田中学長の肩書きは名古屋専門学校校長。前年に名古屋高等理工科学校校長から変わったばかりでした。後に名城大学第一法商学部長となる櫻木俊一氏とともに訪れた田中氏は「鼻下の髭をぴくつかせながら」切り出しました。

「河合先生!早速お願いですが、今日お邪魔しましたのは、私ども、こんど大学をつくることになりましてねえ。名古屋にですが……。その大学の名前も、もう決まってまして、名城大学。名城ってえのは、名古屋の名に城は城。名古屋城の城の字をとって……。是非いい大学を誕生させたいと思いまして、そこで河合先生に教授として、それも幹部級の教授としてお力を得たいと存じまして参上したわけです」。田中学長の声は大きく、自宅で療養中だった恒人氏の部屋へビンビン聞こえてきたそうです。

恒人氏は著書で、「名城大学に英語の中心的教授が必要だったことは勿論だが、創設当時の名城は商学部だけの出発だった。そこで主力となる教授陣は優秀な商学、経済学、会計学のスタッフでなければならない。名古屋には名古屋高商が30年ほど前からあって経済商学のメッカである。その先生方に目をつけての一つの流れがあったと思われる」と書いています。

河合氏は河合塾経営の傍ら、田中学長の片腕としてさっそく動き出します。名城大学の創設準備では文部省にも足を運んでいます。

8人の学部長

1949年に誕生した商学部、1950年に誕生した法商学部、理工学部、農学部、短期大学部の初代学部長はいずれも田中学長が兼務しましたが、1951年度からは学部教員が学部長に就任します。1951年5月22日「名城大学新聞」(第6号)に8人の学部長たちの顔ぶれが紹介されています。

 第一教養学部長 加藤平左衛門
 第二教養学部長 河合逸治
 第一法商学部長 櫻木俊一
 第二法商学部長 加藤廉平
 第一理工学部長 伊藤萬太郎
 第二理工学部長 高坂釜三郎
 農学部長 伊藤半右衛門
 短期大学部長 柴山昇

教員人脈

  • 野本教授(会計学)と学生たち
  • 野本教授(会計学)と学生たち
  • 柴山教授(経済学)と学生たち
  • 柴山教授(経済学)と学生たち

大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)の教育学部長を辞し、やはり田中学長に請われて1950年4月に名城大学に教職課程部担当として着任した福山重一教授(1909~1992)(後に芦屋大学を創設し学長に就任)も、田中学長のブレーン役を果たしていきます。経済学者、教育学者であり職業指導学の権威でもあった福山教授は大学人脈にも明るく、「名城大学教職課程部紀要第3巻」(1970)に収録されている「教職課程20年の歩み」の中で、当時の名城人脈について触れています。

福山教授によると、商学部開設に加わったのは、名古屋経済専門学校(名古屋高商が改称)校長だった野本悌之助教授(会計監査論)を中心とする、後の名古屋大学経済学部の設立には加わらなかった教員たちと、京城経済専門学校(京城高等商業学校が改称)から引き揚げてきた柴山昇(経済原論)、加藤廉平(貿易政策論)、杉浦治七(金融論)らの教授たちでした。

理工学部は田中学長(電気工学)を主力として、小沢久之亟(おざわきゅうのじょう)(航空工学)、加藤平左衛門(和算)、名古屋工業専門学校(現在の名古屋工業学)の教授だった伊藤萬太郎(水力機械)らの諸教授。法商学部法学科は、当時ハルピン学院から引き揚げた渡辺鎮雄教授、名古屋法曹の長老である櫻木俊一教授が中心となりました。農学部についても福山教授は、東京教育大学(現在の筑波大学)農学部長だった七沢甚喜(ななざわじんき)氏が顧問格となり、岐阜大学農学部の支援を得て成立したと解説しています。

水野さんが卒業後60年間、大切に保管してきたアルバムは、1枚1枚のページが崩れないようセロテープで何か所も補強されていました。柴山教授、野本教授、河合教授ら教員たちのページの終わりの方に、「小栗義美先生」の名前がありました。連載第1部第8回「駒方校舎と中華交通学院」で「駒方学生寮の旭丘高校生」として紹介した名古屋市昭和区川名町の医師小栗剛さん(78)の父親で、駒方寮の寮監であり、体育教員でもあった義美氏でした。

「自由の学府」「文化のエスプリ」

「朝日に匂う 鈴鹿嶺 希望に燃ゆる若人が 学理の泉汲む所 次代に築く 栄になふ 名城 名城 自由の学府」――。河合教授が作詞した校歌のキーワードは「自由の学府」でした。河合教授は校歌だけでなく、同時に第二応援歌「真澄の空に」、カレッジソング「暁の東海」、記念祭歌「緑風薫る」の歌詞も書き上げました。

柴山教授が作詞した第一応援歌も格調高い内容です。「星霜久し五百年 金鯱の誉絶ゆるとも 永久に伝えん名城の 香る文化のエスプリを」――。柴山教授が顧問を務めた雄弁会に所属した卒業生の鈴木彰二さん(静岡県磐田市、1969年法学部卒)は、柴山教授がよく学生たちに語っていた「平均的世論から離れ、高い立場から社会を眺める訓練をしろ。外書を読むことで哲学的思考を培え」と言う言葉を卒業後も処世訓としたと恩師の追悼集で偲んでいます。

幻の古関裕而作曲校歌

1951年10月9日「名城大学新聞」(第8号)には「“校歌応援歌” 誕生す 合唱団練習に入る」という大きな記事が掲載されました。「われわれの校歌、応援歌が大学祭を前に誕生し、校歌は古関裕而(こせきゆうじ)氏に作曲を依頼することになった。なお応援歌は東京芸術大学教授下総皖一(しもふさかんいち)氏の手により作曲されレコード吹き込みも考えられている」という記事です。しかし、校歌の作曲者は最終的には古関裕而氏ではなく信時潔(のぶとききよし)氏でした。

河合恒人氏の著書では、河合教授が、教授会に校歌や応援歌計4編の歌詞を清書した4枚のB紙を持ち込み、拍手で承認されたこと、校歌の作曲は古関裕而氏を推薦したことが記されています。結果的には信時潔氏に決まったことについて恒人氏は、「その後、田中理事長の奥さんが東京音楽学校(現在の東京芸術大学)のご出身で、恩師の信時潔さんに校歌をお願いし、応援歌などは古関裕而さんに頼んだということだった」と書いています。

田中家もうで

山田さんら学生たちは、学園における田中コト学長夫人の影響力がじわりじわりと大きくなっていくのを感じていました。山田さんによると、入学時は年間1500円だった授業料が2年時には5000円、3年時には1万円に値上げされました。一方、授業料とは別に学生会費も集められ、部費などに配分されました。各部代表者が集まるキャプテン会議で予算配分が決められましたが、大学側にお金を要求しても、「出金は奥さんがやっているので、そちらへ行ってくれ」とたらい回しにされるようになったのです。

昭和区五軒屋町にあった田中家に出向いた山田さんら体育局役員に対してコト夫人は「何に使うんです」「稟議書が必要です」などと出費を渋るようになりました。「野球など特定の部にはすんなり出す。大学経理というより私塾のどんぶり勘定でした」。「自由の学府」「文化のエスプリ」が香るはずのキャンパスに、学生たちの不満が徐々にくすぶり始めていました。

「やる気、本気が名城気質」

学生たちは駒方校舎での大学祭前夜、たき火を囲みながら肩を組み夜空に吠えました。山田さんの話から4年生だった1952年9月ごろと推測されます。校舎修理など出た廃材を燃やし、農学部特製のドブロクを酌み交わしながら歌ったのは「バンカラ節」でした。NHKラジオで放送されていた人気番組「日曜娯楽版」で流されていた「僕は特急の機関士で」の替え歌です。「僕は特急の機関士で」はレコードも発売されるほどの人気でしたが、山田さんら学生たちは即興で作った歌詞をつけ、何度も修正を重ねながら「バンカラ節」の歌詞を定着させていきました。「やる気、本気が名城気質」と繰り返されるフレーズからは、周囲から何と言われようと、前に向かって突き進んでやろうという学生たちの意気込みが伝わってきます。

バンカラ節

一、 名城大学七不思議 私立新制大学で 何故か一流の教授陣 学者も失業時代かな
  ソレ やる気 本気が 名城気質

二、 柴山教授の教室は リベラルアーツで始まって ついついウトウト昼寝しや
  アリストテレスに起こされる ソレ やる気 本気が 名城気質

三、 加藤先生の数学は 算木並べてグレタザン 関の孝和に見限られ 単位落として大あわて
  ソレ やる気 本気が 名城気質

四、 今日は休講でパチンコ屋 二十の扉で儲かって 溜めた月謝を払ったら ハゲの学長がエビス顔
  ソレ やる気 本気が 名城気質

五、 スクールバスは有るけれど 買った時からボロ車 今じゃ一つも動かない 馬車に改造すれば良い
  ソレ やる気 本気が 名城気質

(広報専門員 中村康生)

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