特設サイト第2部 第4回 引き返した整地作業車

  • 農学部に現れた田中学長の公用車(駒方校舎本部前で。応援団60周年記念誌より)
    農学部に現れた田中学長の公用車(駒方校舎本部前で。応援団60周年記念誌より)

公用車でやってきた田中学長

1951(昭和26)年4月、本来の開設予定地であった春日井市の鷹来校舎に移転した農学部。2年生となった1期生で、元農学部助教授の伊藤良三さん(81)(春日井市)が農学部事務長から呼び出しを受けました。伊藤さんは1951年4月23日に春日井市の第4代市長に就任したばかりの林重治氏(1955年4月15日まで就任)の親戚でした。「林市長を学長に紹介してほしい」。事務長は田中壽一学長兼理事長と林市長との橋渡し役を求めてきたのです。伊藤さんは父親に話して、林市長に、田中学長との面談の了解を取り付けました。

指定され日、農学部本館で伊藤さんが待機していると、黒塗りの車に乗った田中学長が現れました。普段は駒方校舎本部に待機している中古のアメリカ車と思われる車です。ボディ正面には校章が飾られ、駒方校舎では河合逸治教授ら著名な教授の送迎にも使われていました。田中学長と伊藤さんを乗せた車は春日井市役所に向かいました。当時の市役所は、旧陸軍名古屋造兵廠鳥居松製作所の本館跡にありました。その後まもなく苫小牧製紙春日井工場(現王子製紙)となる場所です。車の中で、伊藤さんは田中学長に「先生、どうして名城という名前をつけられたのですか」と尋ねました。

「君は地元の人間だから分かっているだろう。名古屋には立派なお城がある。城の上には何ある?キンキンのシャチが上がっているだろう。だから、先生方とも話し合った結果なのだが、名城大学の目標は、金のシャチホコのごとく輝く立派な大学になること。その目標を目指す決意が込められた名前なんだよ」。田中学長は胸を張って答えました。

医学部をつくる

林市長と田中学長との話しが終わるまで伊藤さんは市長室の外で待機していましたが、市役所から農学本館に戻る車中で、田中学長の話に伊藤さんは驚きました。「実は医学部をつくりたいんだ」。田中学長は林市長と、医学部開設について話し合ってきたというのです。春日井市ではこの年(1951年)8月、同市八田町にある現在の春日井警察署近くに市民病院が開院し、内科と外科の2科が診療を開始したばかりでした。田中学長は、この市民病院と連携して、鷹来校舎に医学部設置を計画していたのです。田中学長は「もうドイツから先生に来てもらう話もつけてある」とも語りました。伊藤さんは、突然聞かされた「医学部」構想に驚くと同時に、「これなら立派な大学になっていくに違いない」と思いました。

鷹来校舎のある名古屋造兵廠鷹来製作所跡地は、なお戦禍のあとをとどめ、荒れ果ててはいましたが、敷地面積をすべて利用できたとすると、その広さは約23万坪(75万9000平方メートル)と、現在の天白キャンパス(17万4300平方メートル)の4.4倍もありました。農学部に併設されていた医学部・歯学部進学コースは、将来は医学部、歯学部開設を目指して設置されたものでした。さらに、鷹来校舎には薬学部の設置計画も進められていました。

全学部を鷹来キャンパスに

  • 1959年(昭和34年)の鷹来校舎周辺(農学部「50年の歩み」より)
  • 1959年(昭和34年)の鷹来校舎周辺(農学部「50年の歩み」より)
  • 北部地区にあった鷹来寮(農学部「50年の歩み」より)
  • 北部地区にあった鷹来寮(農学部「50年の歩み」より)
  • 北部地区にあった体育館(農学部「三十年の歩み」より)
  • 北部地区にあった体育館(農学部「三十年の歩み」より)

「田中学長の頭の中には、鷹来キャンパスには、農学部、薬学部、医学部、歯学部だけでなく、駒方校舎にある法商学部、短期大学部、そして中村校舎の理工学部をも合流させた、文字通りの総合大学キャンパスの図面が描かれていました」。農学部「50年史」作成の実行委員でもあった伊藤さんは、「50年史」に収められた「昭和34年(1959年)の鷹来校舎周辺」の地図を広げながら語りました。

現在の鷹来校舎(附属農場)の広さは本館と周辺の農場を中心にした13万6860平方メートル。開設された当時の約75万9000平方メートルに比べれば5分の1にも足りません。昭和34年の地図には北部地区には校舎、体育館、食堂、第1、第2寮、浴室、売店がありますが、北端に集中しています。南部地区には本館、第二校舎、松林校舎、テニスコートがありますが、この一帯が現在の附属農場エリアと重なります。昭和34年当時の北部地区と南部地区の間にある中央エリアともいうべき敷地は、全体の5分の4近くを占めているようにも見えます。

「南、北地区の間の中央部分がかなり空いているでしょう。田中学長はこのエリアも含めた鷹来工廠(造兵廠)跡地全体を借り受けて、全学部を鷹来に集めようという大構想を立てた。しかし、土地を管理する東海財務局は認めなかったんです」。伊藤さんは、そう語りながら、昭和34年の鷹来校舎周辺で、空白部分が広がる地図中央部を指しました。

「たばこを吸うようなお金があったら大学に寄付しなさい」と学生の肩をたたき、春日井市民病院を足掛かりに医学部開設に走り回った田中学長。「自分のものは自分のもの。自分のものになりそうなものも自分のものと言う考えだった気がします。でも考えようによっては偉大な経営者だったと思います。ただ、ワンマンでしたがね」。伊藤さんは苦笑交じりに、懐かしそうに語りました。

進まぬ整備

田中学長の奔走とは裏腹に、鷹来校舎の整備は一行に進みませんでした。「農場も運動場もない。本当に恥ずかしいような状況だった」。第1回卒業の稲垣一人さん(86)(小牧市)は、遅々として進まなかったキャンパスの整備をためいきまじりで振り返りました。稲垣さんは、整備を遅らせている大きな要因は、土地が国の管理地だったことだけでなく、ブルドーザーなど機械力を使い積極的に整地作業に取り組もうとしない大学の姿勢にもあると思っていました。

1期生では最年長だったこともあり、稲垣さんの「何とかしたい」という思いはひとしおでした。本館前に、鷹来工廠当時からグラウンドだったらしい跡地がありました。「整地すれば運動場になる」。稲垣さんは大学当局の許可を得て、学生たちに呼びかけて石や、木片等を拾い集めました。しかし、少ない人力では限界がありました。

稲垣さんは伊藤さんに、ブルドーザーなど機械力が利用できないか相談しました。地元に明るい伊藤さんは、春日井市内を探し回り、愛知県の春日井土木事務所にグレーダーと呼ばれる道路整地用の重機があるのを探し当てました。

門前払いのグレーダー

「これをただで借りるのが一番」。稲垣さんは、使用について大学側の許可を得たうえ、土木事務所に日参し交渉を続けました。「道を整地する時、ついでに立ち寄ってもらえないでしょうか」。時には桃を、時にはようかんを手土産に、稲垣さんは再三再四、所長宅を訪れて頭を下げました。稲垣さんの熱意に所長が動いてくれました。「学生諸君のためなら」と、ただで整地を引き受けてくれたのです。グレーダーが到着する日時も決まりました。稲垣さんは直ちに大学事務局に伝えました。

ところが、警備門の前に姿を現したグレーダーは立ち往生してしまいました。門の出入りを管理する東海財務局の門衛が「聞いていない」の一点張りで入れてくれなかったのです。大学からの連絡は伝わっていませんでした。「グレーダーに取り付けられた大きなショベルで走り回ってくれたら、あっという間に整地ができたのに。情けない」。せっかく来てくれたグレーダーが門前払いされ、整地することもなく引き上げていく姿を、頭をさげながら見送った稲垣さん。悔しさに唇をかみしめるしかありませんでした。

学長夫人と牛乳

  • 左手に作業中の傷跡が残る伊藤さん
  • 左手に作業中の傷跡が残る伊藤さん

鷹来校舎には田中学長がコト夫人とともに時折、公用車で姿を見せるようになりました。伊藤さんによると、コト夫人は、草を引き抜いている農場で雇った人に近づき、「両方の手を使いなさい。そうすれば早く取れる」など直接指示をすることもありました。

農場には牛、ニワトリも入るようになりましたが、餌を買い入れるお金も必要になってきました。しかし予算がありません。農場次長が名古屋市昭和区五軒家町の田中学長宅に足を運び、予算関係の窓口であるコト夫人と交渉したところ、あっさり餌代の予算が認められました。ただ、それ以降、農場からは毎朝、搾乳缶にいれられた搾りたての新鮮な牛乳が、名鉄バスに乗せられ、田中家に届けられるようになりました。

学生たちは、飼料作物の栽培や刈り取りに追われました。伊藤さんの左手には、刈り取りしている最中に誤ってカマで負った切り傷跡が今も残っています。保健室があるわけでもなく、しびれた手を自分で抑え込みながら、開いた傷口を焼酎の中につけ、自分で縫い合わせるという荒っぽい“手術”の跡でした。

おお「迷城」

稲垣さんは学生時代、あまりの大学の施設の貧困に、怒りがこみ上げてくることがしばしばあったそうです。全くの善意で駆けつけてくれた愛知県土木事務所のグレーダーが門前払いされたのは、その中でも最も苦い経験でした。仲間と酔って校歌を歌う時、“名城”を“迷城”の文字に置き換えたつもりで歌ったこともあったそうです。

ただ、稲垣さんは田中学長学個人に対する尊敬の念はずっと持ち続けてきました。「多読をするなかれ」と学生たちを戒めた田中学長の言葉は、名城大学を卒業し、農学部卒業生としては第1号の愛知県立高校教員になってからの教員生活でも忘れることがなかったそうです。「一冊の本をしっかり読んで覚えよ。あれもこれも目的なく読むのではなく、一冊の本を読んでマスターせよということですね。いつ、どんな場面で田中学長が言われたかは覚えてはいませんが、今でも大事なことだと思っています」と稲垣さんは語ります。

不平は知恵と力なき者の言

  • 退職記念に贈られた色紙を手にする稲垣さん
  • 退職記念に贈られた色紙を手にする稲垣さん

稲垣さんは1987年に、県立小牧高校定時制教頭を最後に教員生活を終えました。「名城大学出身の農業教員は私が初めてでした。口には出さなかったが、教員の世界に“名城大学あり”ということ示したい思いで教員人生を歩んできました」。稲垣さんはそう語りながら、退職にあたり、小牧高校定時制の教員一同が贈ってくれた「長い間にわたり私たちをお導きいただきありがとうございました」と書かれた色紙を見せてくれました。色紙は稲垣さんにとって、愛しい宝物のようでした。

稲垣さんは農学部30周年記念誌に「三十年前の追憶」という一文を寄せています。「在校生諸君。鷹来野に学ぶなら『我農生』を忘るなかれ。不平は知恵と力なき者の言と戒め、母校発展の一助となろう」。稲垣さんの寄稿はそう締めくくられていました。

工作班の誕生

前回の連載(第3回)でも紹介したように、「これが中部随一を誇る総合大学と言えるのか」と、学生新聞から大学設備の貧困さを糾弾された名城大学。1952年9月25日付「名城大学新聞」には「本学に工作班誕生 学生の手で学園建設」という記事が掲載されました。

  • 工作班発足を伝える「名城大学新聞」(1952年9月25日)
  • 工作班発足を伝える「名城大学新聞」(1952年9月25日)
  • 工作班によって整備された駒方校舎の棚
  • 工作班によって整備された駒方校舎の柵

「学園の建設はわれわれの手で」をモットーに、学生の力で学内の建設をやろうと、「名城大学工作班」が補導部の肝いりで今夏休暇中に誕生した。休暇中のため、登録された班員は少数であったが、8月中旬より高岡補導部長以下3名が実際の作業に着手し、県立工業指導所の好意により、同所の完備せる木工場の機械を利用し、駒方グラウンドの柵60間と、門扉、駒方寮食堂のスクリーン(金網窓)および、同金網戸棚などを整備し、同時に駒方3800坪の校舎の外壁を吹き付け改装するため、新考案の移動式足場も組み立て、9月8日より応援団、体育部もこの作業に協力し、グランドの柵をはじめ食堂の設備など続々実現し、今度の成功に期待されている。

高岡補導部長談
従来、とかく学問と勤労(労働)とが別々に遊離した傾向であったが、本質的な人間の働きとしては一本でなければならぬ。その一本の本質的な人間の活きた働きこそ、「つくる」に外ならぬ。この本質的な工作をインスパイアすることが、新しい今後の教育の核心でなければならないというのが私の信念だ。こういう哲学をも含めて、働きながら学ぶ学を実現しようという大きな抱負のささやかな発足が、工作班にほかならぬ。これによって、働きながら学ぶことができ、しかも実際的な技術と建設的精神を体得することができたら、それだけでも大きな成果ではないか。多数学生諸君の参加を期待する。

「大学設備の不十分を嘆く」の記事が掲載された「名城大学新聞」(1951年10月9日)が「学生補導部長着任」の見出しで、高岡潔教授(倫理学)の着任を伝えていました。記事では高岡教授を「東京帝国大学文科を卒業され、文化研究所に勤務されていた」と紹介しています。

(広報専門員 中村康生)

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