特設サイト第2部 第6回 工作班と伝習館の絆

  • 工作班によって駒方校舎に設置された柵
    工作班によって駒方校舎に設置された柵(商学部1期生・水野貢さんのアルバムから)

蝋山政道IDE会長の賛辞

  • 工作班主任室での高岡教授
  • IDEから発行された冊子
    (鹿児島大学附属図書館所蔵)

一雨ごとに柱は朽ち、雑草に覆われた運動場に散在する浅沼ではカエルとヘビの闘争が繰り広げられている――。施設の劣悪ぶりを「名城大学新聞」にたたかれた駒方キャンパス。そうした大学施設の補修に取り組む「工作班」の誕生を連載第4回で紹介しましたが、工作班を紹介した冊子が鹿児島大学附属図書館の地下書庫に眠っていました。工作班を指導した高岡潔教授(1898~1982)が書いた『名城大学における学生工作班 その活動と実績』です。民主教育協会(IDE)から1956年2月に発行された60ページほどの非売品の小冊子です。

冒頭には戦前は東京帝大教授、戦後は「中央公論」主幹、お茶の水女子大学学長などを務めた政治学者の蝋山政道(ろうやままさみち)氏がIDE会長として「すいせんのことば」を書いていました。

「本書は、名城大学において芽生え成長した学生工作班の活動と実績の記録でありますが、わが国における学生アルバイトの実情にかんがみて、示唆するところの多い貴重な先駆者の記録であると言えましょう。この工作班をここまで育てた著者高岡潔氏のたぐいまれな教育者としての識見と熱情と配慮とに、心からの敬意を表したいと思います。この本が広く読まれることを切望いたします」。同書や探し出した資料をもとに、工作班の軌跡を追ってみました。

セルフ・サポーティング・カレッジ

一般家庭が子供を大学に送り出すことが大変だった戦後の時代、高岡教授が願ったのは学業とアルバイトの両立でした。工作班は、学内にアルバイトの場があり、それが教育的に組織され、学内で働きながら学ぶ施設があったらという発想で生まれましたが、モデルはアメリカにありました。テネシー州のマジソン・カレッジという大学です。学内に広い農場、30に近い各種工場、病院があり、学生たちは講義を聴きながら諸施設で働き、技術を身に付けていました。実践の内容は『リーダース・ダイジェスト』1938年5月号で「セルフ・サポーティング・カレッジ」として紹介されました。

東京農業教育専門学校(筑波大学の前身)教授も務め、国立教育研究所にも籍を置いた高岡教授はマジソン・カレッジの教授とともに、同カレッジをモデルにした学校を群馬県の赤城山麓に建設しました。「赤城健生学園」というキリスト教信仰に基づく小さな学校でした。

田中学長からの申し出

「セルフ・サポーティング方式を名城大学にも取り入れて実施したい」。高岡教授に協力を申し出てきたのが田中壽一学長と、田中卓郎総務課長(田中学長の長男)でした。高岡教授の著書類には、田中学長と高岡教授をつなぐ背景は記されていませんが、高岡教授の長男基(もとい)氏の「父高岡潔について」という追悼文が収められている冊子を見つけました。それによると、高岡教授は鹿児島県生まれですが、小学校3年生だった9歳の時、福岡県柳川市の母方の伯父に預けられ中学校を終えるまで過ごしました。

柳川市は田中学長の出身地でもあり、田中学長は1906年に同市にある旧制中学伝習館(現在の福岡県立伝習館高校)を卒業しています。「高岡教授も伝習館卒ではないか」。ふと思いつき、伝習館高校の三宅清二校長にお願いして卒業生名簿を調べてもらいました。「あります。大正4年(1915年)卒の第22回卒業生です」。三宅校長はすぐに高岡教授の名前を見つけてくれました。高岡教授は第13回卒業生である田中学長の後輩でした。

高岡教授は伝習館を卒業後、海軍兵学校を中退し、旧制第七高校造士館(後の鹿児島大学教養部)を経て東京帝大法学部、文学部で学びます。「赤城健生学園」で理想としたセルフ・サポーティングの実践に取り組んでいた時、故郷の母校の先輩にあたる田中学長からアプローチがあったのです。「これは私の夢に実現の機会を与えられたものだった」。高岡教授は田中学長の申し出に応え、1951年末、名城大学教授として赴任しました。

田中学長、高岡教授の母校である旧制中学伝習館

田中学長、高岡教授の母校である旧制中学伝習館(福岡県立伝習館高校所蔵)

1903(明治36)年5月に撮影された伝習館校舎

1903(明治36)年5月に撮影された伝習館校舎(福岡県立伝習館高校所蔵)

卒業生資料展示室に所蔵される田中学長の写真

卒業生資料展示室に所蔵される田中学長の写真(福岡県立伝習館高校で)

工作班と農業研修生

高岡教授は名城大学での「セルフ・サポーティング方式」の全面的な展開を、駒方キャンパスでの「工作班」の実践と、春日井市の鷹来キャンパスでの「農業研修生」制度の導入に託します。高岡教授は学生補導部長に就任するとともに農学部長の事務取扱も併任しました。構想した農業研修生とは、農村の子弟で、向学心に燃える青年を学生として受け入れ、大学の農場を能率よく管理してもらう代わりに、他の学生と一緒に講義を受け、大学卒業の資格を与えようという制度でした。

しかし、研修生制度は延期を余儀なくされました。朝鮮戦争の勃発(1950年6月)に伴う半島の緊張で、1951年10月ごろから、アメリカ駐留軍の小牧飛行場拡張計画に関連して、農学部を含む旧陸軍鷹来工廠跡地が接収されるのではないかとの噂が広がったためです。名城大学は猛然と土地接収の動きに反発、田中学長は高岡教授を伴い上京、文部省に猛然と抗議します。愛知県私立大学協会も反対決議文を国に送るなど反対世論が高まりました。幸い、朝鮮戦争の休戦交渉の進展もあって、接収問題は回避されました。農学部の研修生制度が「総合農業経営研修生制度」(入学定員30人)としてスタートしたのは1954年度からで、1期生として20人近くが入学しています。

駒方のリフォーム始動

  • 工作班事務室で作業をする学生たち
  • 工作班事務室で作業をする学生たち(冊子より)

駒方キャンパスで工作班が動き出したのは1952年8月の夏休みでした。愛知県工業指導所の所長が高岡教授の東京時代の知人で、赤城健生学園に関心を寄せていた幸運もあり、工作班の学生たちは技術指導だけでなく木工加工用の機械も使うことができる体制ができました。最初に工作班に加わったのは、教養課程の授業が駒方校舎で行われていた理工学部建築学科と法商学部商学科の学生でした。

最初に取り組んだのは、本部グラウンドに長さ60間(約109メートル)に及ぶ木の柵を設置する作業でした。加工された柵がキャンパスに運び込まれる段階になると、応援団員や運動部の学生たちも合流し、穴を掘ったり柱を建てたりして全面的に協力してくれました。

グラウンドでの柵設置作業と併行して、戦時中、迷彩塗装で黒く汚れた2階建てモルタル壁の本部建物の外壁の吹き付け塗装も始まりました。延べ4800坪(1万5840平方メートル)の本部校舎の外壁化粧は、高さ30尺(9メートル)、幅2間(3.6メートル)、作業棚3段という巨大な足場を組み立てての大作業になりました。戦争で荒れ果てた校舎が目に見えてクリーム色に化粧されていきました。

保健所からしばしば警告を受けながら改善されず、名古屋市のブラックリストに載っていた駒方寮食堂も改善が図られました。衛生設備の改善、窓と出入り口の網戸、100人以上分の惣菜を皿に入れておく大網棚など、保健所の検査に耐えられる食堂が学生たちの手によって出来上がったのです。

正面玄関へ花壇ロード

  • 工作班によって取り付けられた1953年当時の本部事務室のカウンター
  • 工作班によって取り付けられた1953年当時の本部事務室のカウンター(冊子より)

1952年12月の冬休みには、臨時のアルバイト学生も加わり、正門から玄関まで約60間(109メートル)の道路改修工事も行われました。キャンパスのメーン道路にもかかわらず、中途が低く落ち込んでいて、雨の日には道の中央を通ることができない悪路に、近所の紡績会社から分けてもらった石炭殻で土盛りするなどして整備されました。両側には花壇も造られ、正月に登校した学生や教職員を驚かせました。

1953年になると、本部校舎の天井が補修され、1000枚以上の窓ガラスが入れられ、廊下、講堂、研究室、事務室等の床板が電気ブラシで洗われ、フロアオイルが塗られました。本部カウンターには長さ13メートル近いカウンターも造りつけられました。

この年8月、高岡教授は工作班のリーダー役学生5人を連れ、東大、慶応大、早稲田大、日大などを10日間にわたって訪れています。学生たちの見聞を広め、セルフ・サポーティングの性格と意義を考えさせるのが狙いで、費用は全額大学と高岡教授が負担しました。

全国紙も紹介

  • 教育面で工作班の活動を特集した朝日新聞(1956年7月13日夕刊)
  • 教育面で工作班の活動を特集した朝日新聞(1956年7月13日夕刊)

工作班の試みは新聞でも取り上げらました。1952年秋、本部校舎の吹き付け工事が始まった様子が「中部日本新聞」(現在の中日新聞)で報道されると、文部省内の「日刊教育情報」が、「学内で学徒就職、名城大学工作班」(1953年6月4日)、日本育英会機関紙「育英」も「校内補修は自分たちで――名城大学工作班の試み」として写真入りで紹介しました。全国紙も取り上げました。毎日新聞は1955年2月12日、工作班がまとめた2年余の報告書を取り上げ、教育欄に「成績のよい学内自立――注目される名城大の工作班」としいてその実績を紹介しました。

朝日新聞は1956年7月13日夕刊の教育欄で「はたらく大学 名城大の学校工場」として特集。高岡教授の「学生の頭と手と汗をもって、自分のものは自分でつくる」というセルフ・サポーティングの教育方式の狙いを紹介しながら、工作班の使命として3点を挙げています。(1)学内にアルバイトの場を設け、学資に恵まれない者にも大学教育の機会を与えるという厚生施設としての使命(2)働きながら学ぶ行学一体の教育的使命(3)私立大学は経営が苦しいため建設設備も乏しい。学校整備を建築業者に請負わせると少なくとも何百万かのまとまった資金を必要とする。これを工作班でやれば、毎月わずかな材料費とアルバイト手当で学校が整備できる。

工作班の収支

冊子「名城大学における学生工作班 その活動と実績」で高岡教授は、1952(昭和27)年8月から1955(昭和30)年3月まで2年余の工作班の収支を、「支出一覧」と、「プラス勘定表」をもとに、「166万905円の黒字となった」と振り返っています。

工作班の支出一覧

昭和27年度
27.8~29.3
昭和28年度
28.4~29.3
昭和29年度
29.4~30.3
合計

設備・道具・工具

28,765円

486,112円

174,845円

689,722円

材料費

329,113円

727,013円

2,177,018円

3,233,144円

雑費(事務費含む)

59,620円

93,241円

199,713円

352,574円

業者への支払い

--

--

163,150円

163,150円

人件費

(学生アルバイト)
(指導員謝礼)

185,610円

684,215円

1,248,200円

2,118,025円
(1,124,400円)
(123,800円)

総計

603,108円

1,990,581円

3,962,926円

6,556,615円

工作班のプラス勘定(昭和27.8~30.3)

1 生産高

(イ)屋外整備関係

1,194,600円

(ロ)屋内整備関係

1,119,820円

(ハ)建築関係

2,100,900円

(ニ)家具関係

2,287,600円

(ホ)その他工事

542,000円

合計

7,244,920円

2 在庫品および設備

在庫品

木材

246,500円

292,600円

その他

46,100円

設備

機械・工具
刃物・道具

530,000円
150,000円

680,000円

合計

972,600円

総計 8,217,520円(1+2)
総計から支出合計6,556,615円を差し引いたプラス額 1,660,905円

厳しかった父高岡潔

  • 工作班主任室での高岡教授
  • 工作班主任室での高岡教授(冊子より)

高岡教授は名城大学でその後、教職課程部(現在の教職センター)で倫理学を担当し、1956年~1963年、1966年~1970年の2回、教職課程部部長を務めました。1968年10月に刊行された「名城大学教職課程部紀要第1巻」に収められた論文の中で、高岡教授は、学生工作班が1952年から数年間実施されたこと、IDEの好意により冊子が印刷され、各方面に配布されたことを紹介。ただ、反響については「国内ではまだあまり反響がなかったようであるが、かえってアメリカでは関心を持った向きもあったようである」と記しています。

高岡教授は2回目の教職部長を務めあげ、72歳で定年退職しました。教壇に立ち続けた晩年の講義については、「声が小さくてよく聞こえなかった」という学生の声もありました。

高岡教授は名誉教授として83歳の生涯を終えました。キリスト教伝道師の家庭で育ったこともあり、葬儀は1982年2月21日、名古屋市昭和区の名古屋ハリストス正教会で営まれました。名城大学附属高校を卒業し名城大学職員となり、1999年3月に定年退職した二男の直(なおし)さん(79)(岡崎市)は「厳しい人でした。これが教育者なのだろうという顔つきをしていました」と父親の思い出を語っています。

高岡教授を名城大学に迎え入れたころの田中学長は、膨張を続ける学園の規模に施設の充実が追いつかず、学生たちからは施設のあまりの貧困さを突き上げられていた時期でもありました。しかし、田中学長は、「わしは学校を大きくすることが夢なんだ。だから一生懸命にやっているんだ」とエネルギッシュに奔走を続けました。設備改修費の負担を、高岡教授の純粋な情熱に託すかのように。

(広報専門員 中村康生)

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