特設サイト第2部 第7回 独善への道

  • スペシャルホームカミングデイに参加した薬学部の1期生たち(中央が鈴木名誉教授。右に林さん、樋口さん)
    スペシャルホームカミングデイに参加した薬学部の1期生たち(中央が鈴木名誉教授。右に林さん、樋口さん)

薬学部の船出

JR名古屋駅の上にそびえる名古屋マリオットアソシアホテル。2013年3月19日、名城大学を卒業した人たちが半世紀近くを経て集う「スペシャルホームカミングデイ」が開かれた16階「アゼリア」には、懐かしい再会を喜び合う歓声が飛び交いました。全国から駆け付けた約170人の大半が、この日、愛知県体育館で開催された現役学生たちの卒業式に参列しての合流でした。

学部ごとに設けられたテーブルを囲む卒業生たちの中に薬学部の1期生たちの姿がありました。薬学部は法商学部、理工学部、農学部、短期大学部に続いて1954年4月に誕生しました。1期生たちが卒業したのは1958年3月。55年の歳月が流れています。

「今は大阪に住んでいますが、入学する時は福岡に住んでいました。当時、薬学部は全国的に少なくて、近畿大学の薬学部も名城大学と一緒にできましたが、私は大阪には行かず名古屋に来ました。卒業式には袴をはいて出ましたよ。きょうの卒業式も着物姿がものすごくたくさんありましたね。やはりいいですねえ」。大阪府河内長野市から参加した樋口信子さんが目を細めながら語ってくれました。

「私たち1期生が入学したのは春日井の鷹来校舎。農学部と一緒でした。あまりにひどい教育環境で、1年生の暮れに駒方校舎に脱出し、3年生からは八事校舎に移りました。春日井にいた当時は、教養の授業が中心でしたが、専門科目の授業が始まる2年生になったら、交通が不便な春日井では先生も来てくれないのではないかと心配しました。それで、自分たちで何とかしなければと、駒方校舎に逃げ出したんですよ」。

樋口さんの話に「そう。大変だったよねえ」「私たちは流浪の民だったの」とうなずき合う同期生たち。入学時から卒業まで、手を携えながら苦難を乗り越えてきた級友たち。苦難の時代を共有し合った仲間同士ならではの、強い絆で結ばれていることがひしひしと伝わってきました。

流浪の民

樋口さんはさらに、「春日井校舎も駒方校舎も、冬は寒くて、ガタガタ震えていました。実験施設が全くない駒方からさらに移転の話が持ち上がった時は、理工学部がある中村校舎はどうかという話も出たんです。でも、線路が近くて、列車の振動で薬の天びんも使えないだろうということになり、今のお墓のそばの八事になったんですよ」。
やはり大阪市から参加した林清子さんも薬学部草創期の苦労を語りました。「八事校舎に移った直後は、ガスも水道も使えませんでした。下の四つ辻のところまでは来ていたんですが。卒業式は駒方校舎の講堂2階でやりました。下に機械室みたいなのがありましたが、本当にオンボロでしたよ」。

薬学部より4年早い1950年に開設された農学部も、1年目は学ぶべきはずの鷹来校舎の整備が間に合わず、中村校舎で授業が行われ、2年生からやっと鷹来校舎に移る“流浪の学生生活”を余儀なくされました。しかし、薬学部1期生たちは、3年生になるまで、“流浪の民”状態が続いたのです。地方から入学した女子学生たちにとっては、寮や下宿の確保も切実な問題でした。

林さんは田中壽一理事長についての思い出も語ってくれました。「ちっちゃいけど威張っていましたよ。信仰心があったのか、卒業式では伊勢神宮の話をしていたのを覚えています」。

すし詰めバスでの通学

  • 薬学部入試を伝える「名城大学新聞」(1954年2月18日)
  • 薬学部入試を伝える「名城大学新聞」(1954年2月18日)

薬学部の1期生とした入学したのは最終的に128人。薬学部の「20年史」によると、1954年4月1日付で設置認可されることになっていた薬学部では、同年2月から4月上旬にかけて計3回の入試を行いました。しかし、4月29日の入学式後、入学辞退者が続出したため、補欠入試を実施、6月3日に2回目の入学式が行われました。128人は、こうした入れ替えを経ての入学者数です。

スペシャルホームカミングデイ会場には、樋口さんや林さんら女性の同級生たちに囲まれたやはり1期生の鈴木良雄名誉教授の姿もありました。鈴木名誉教授は名古屋市出身で高校は県立瑞陵高校で学びました。家が薬局だったこともあり、開設されたばかりの名城大学薬学部を受験しましたが、春日井市の校舎で授業が行われるとは思わなかったそうです。
自宅が瑞穂区にあったため、市電を乗り継いで牛巻から上飯田に出て、名古屋駅からやってくる名鉄バスで鷹来に向かいました。同級生たちでぎゅうぎゅうに詰まった車内。途中乗車では割り込むことすら大変で、必死につり革にぶら下がっての通学。「えらい学校に入ったな」というのが実感でした。

授業は旧陸軍鷹来工廠本部施設だった4階建て本館で行われました。本館には農学部と薬学部の看板がかけられていましたが、薬学部が利用できる講義室は1室だけ。本館から離れた雨漏りのする松林校舎で英語、ドイツ語の授業が2クラスに分かれ行われました。広い鷹来キャンパス北部にある寮は薬学部の学生も利用していましたが、寮から松林校舎までを歩いての往復は、うんざりするほど遠い距離でした。

消えた建設現場

  • 薬学部用教室の建設用土台があった農学部附属農場セミナー棟付近
  • 薬学部用教室の建設土台があった農学部附属農場セミナー棟付近

1期生たちは入学後まもなく、鷹来校舎には、あるべきはずの図書が全くそろっていないことに気づきました。設置条件が満たされているかのように、視察用に用意されていた書籍は農学部所有のものや、各方面から一時借用したものが大半だったのです。薬学部のために購入された書籍は皆無に近い状態でした。さらに驚くべきことが起きました。現在の農学部附属農場本館のすぐ近くにあるセミナーハウス付近には、薬学部1期生が入学した当時、生物学教室建設用の足場が組まれていました。ところが、入学して間もなく撤去されてしまったのです。

「土台があって、足場があって、いかにも工事が始まる様子だった。ところが工事は全然進まないどころか取り壊されてしまった。驚きました。本だってそうです。最初は本棚に新品の本が収まっているので、図書室があるんだと思っていました。ところが、ある時期が過ぎたらなくなっていた。後になって、名古屋の書店から借りてきたものだと聞きました。はっきり言って完全なだましです」。身内のこととはいえ、鈴木名誉教授はいまいましそうでした。

学長から総長へ

薬学部1期生たちが入学した1954年度の名城大学第5回入学式は、昭和天皇の誕生日でもある4月29日、駒方校舎講堂で行われました。これまで「学長」として壇上に上がっていた田中壽一理事長は、初めて「総長」の肩書で訓示しました。この年からは薬学部とともに大学院商学研究科も誕生。田中総長は、名実ともに総合大学の体裁を整えたことを誇示するかに、「明徳を明らかにし学道にのっとれ」と訴えています。「名城大学新聞」(1954年4月29日、入学記念特集号)には、この訓示とともに、「名城大学総長 田中壽一」として「今年の抱負」が紹介されています。

この中で田中総長は、「授業以外の言動を教室等にやってはならぬ。斯(かか)る言行はその教授が自分の学問に熱心でなく、学力不足であることを証明する。但し学生への訓話は挟んでも、勿論よろしい。また、学生は学問をして一生の礎(いしずえ)を築くために学びに来たのであって、学校の指導に絶対に服従、他日、人類の幸福となる偉業をなすために孜孜(しし)として蛍雪の効を積まねばならない」――と宣言。そのうえで、「学内教授の間にも、本学が史上類例なき発展をなしつつあり、遠からずして日本一の大学になるであろうとの私語が起こっている」と名城大学の発展ぶりを誇示しています。

身内人事

入学式の様子を伝える「名城大学新聞」の同じ紙面には「総長に田中氏 川西氏院長へ」の見出しのついた人事を紹介する記事も掲載されています。

名城大学組織(改革)にともない、昭和29年度の人事機構は次の如くである。
大学総長、理事長 田中壽一/大学院、学監、法商学部長 川西正鑑/理工学部長 伊藤万太郎/農学部長 近藤良男/薬学部長 玉虫雄蔵/短期大学部長 柴山昇/教務部長 加藤平左衛門/学生部長 浅香乗起/教職部長 竹田健一/図書館長 小山伝三/事務局長 川村南海男/事務局次長 田中卓郎

法商学部長、学監も併任して大学院長に就任した川西正鑑氏は戦時中には『東亜地政学の構想』などの著書もある工業経済学、経済地理学が専門の経済学者。川西氏は1955年4月には母校でもある東洋大学教授に復帰し、やがて学長、理事長に就任します。

また、この記事には登場しませんが、やはり1954年4月には、応援団部長に、商学部、教職課程部、大学院創設で田中理事長のブレーン役を果たした福山重一教授(教職課程部)が就任しています。福山教授もまた1964年には芦屋大学を創設し学長、理事長に就任した経済学者、教育学者です。

事務局次長に就任した田中卓郎氏は田中理事長の長男。「名城大学新聞」(1954年12月6日)によると、この当時、学園の経理面は、経理担当常任理事として、田中理事長の妻コト氏が実権を握り、会計課長も田中理事長の実弟である河野省吾氏が務めていました。記事には「学生らの授業料、学生会費その他すべてが理事会に明らかにされることなく、総長宅の金庫に収まり、また教授や教職員の給料も着任当時の約束とは相当違ったものであったようだ」とも書かれています。

総合大学としての飛躍を図る田中理事長は、大学運営面では行政力もあり、一般教員への影響力もある招へい教員を配置し、事務局はしっかりと身内で固めていました。

独善への道

法商学部商学科3期生として1951年4月に入学した桂川澈三さんは、商学部30周年記念『碑』に寄せた駒方校舎時代を回顧した「草創の門」で、田中理事長が「総長」として、「名城大学新聞」で述べた「今年の抱負」に対する失望感を次のようにつづっています。

1年が過ぎ、2年、3年が過ぎ、やがて4年目を迎えようとしていた頃、大切にし、よりよいものにしたいという純真な願いとは裏目に、創立者の「熱烈な意気」も、次第に独善的な経営におちいり、公教育のあり方の理解が問われる結果となっていった。(中略)ここに至り、声を限りに叫んでも、もう止めることはできない。名優壽一節の功も薄れ、駒方の学生はついに、昭和29年6月15日から8日間の同盟休校に入ってしまったのである。

3032会

  • 「3032」会に集まった理工学部電気工学科の卒業生たち(2013年10月3日)
  • 「3032」会に集まった理工学部電気工学科の卒業生たち(2013年10月3日)

2013年10月3日、名古屋市千種区のメルパルク名古屋で、理工学部電気工学科の同期会「3032会」が集いました。「3032」は、昭和30(1955)年3月に旧制名古屋専門学校最後の卒業生として卒業、同年4月、理工学部3年生に編入した学生たちと、1年生から名城大学理工学部で学んできた学生たちが昭和32(1957)年3月まで共に学んだことに由来します。1年生から理工学部に入学した学生たちは2年生までの教養部時代は駒方校舎で過ごし、3、4年生の学部時代は中村校舎で学びました。名古屋専門学校入学組は1年生から4年間、中村校舎ですごしています。

3年ぶりの3032会は傘寿(80歳)の祝いも兼ねて開催されました。参加卒業生は18人。地元の愛知だけでなく栃木、東京、大阪、兵庫、広島、徳島などからの参加者もあり、恩師の縄田正人名誉教授とともに久しぶりの再会を喜び合いました。「私もそろそろ男性の平均年齢ですが、家内からは2020年の東京オリンピックまでは絶対に生きてもらわなければ困ると叱られました」「幹事は今回が最後の集いかも知れないと言ったが、長嶋茂雄にあやかり、3032は永久不滅といきましょう」。入学時からだと60年。同期生ならでの、気の置けないあいさつに、会場が何度も沸きました。

笑顔の駒方時代

  • 学年末試験の後、駒方校舎中庭の学生たち(1954年3月19日)
  • 学年末試験の後、駒方校舎中庭の学生たち(1954年3月19日)
  • 1956年当時のCBCラジオ公開録音「大学選抜紅白バイバイゲーム」に出演した名城大学放送部の学生
  • 1956年当時のCBCラジオ公開録音「大学選抜紅白バイバイゲーム」に出演した名城大学放送部の学生

幹事役の1人、織田繁雄さん(名古屋市瑞穂区)が会場に学生時代のアルバムを持ち込んでいました。織田さんは卒業後、中部電力系列の設備会社トーエネックに前身会社時代から勤務。65歳に理事として退職しました。

「これが私たちの学生時代です」と織田さんがアルバムを広げてくれました。2年生の3月(1954年)、学年末試験を終えて、仲間6人でくつろぐ駒方校舎中庭でのショット。2年生の2月(1955年)、暖房のない駒方校舎で、分厚いコートを着て授業を受けている織田さんの笑顔も映っていました。愛知大学野球が行われたで鳴海球場での名城×愛知学院戦での名城大学の応戦席風景。織田さんの放送部だった級友が、CBC公開録音で、他大学生たちとともに、「大学選抜紅白バイバイゲーム」というコーナーに出演中の写真もありました。

1953~1957年(昭和28~32)年、駒方、中村校舎で学生時代を過ごした3032会の卒業生たち。理工学部ということもあってか、この日の集いに参加した人たちが語る田中理事長への印象では、「技術者をつくろう、匠をつくろうという精神はすごかったと思う」「あの強烈なリーダーシップがあったからこそ、この大学の今日までの発展があった」と肯定的な声が目立ちました。企業戦士としても清濁併せ呑みながら生きてきた入学以来60年という長い歳月が、田中理事長についての負のイメージはすでに流し去っているかのようでした。

駒方校舎でコートを着たまま授業を受ける織田さん

駒方校舎でコートを着たまま授業を受ける織田さん

愛知学院大学と対戦した名城大学の応援席(1955年6月9日)

愛知学院大学と対戦した名城大学の応援席
(1955年6月9日)

(広報専門員 中村康生)

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