特設サイト第4部 第1回 音速への挑戦

  • 天白キャンパス2号館に展示されている音速滑走体の模型
    天白キャンパス2号館に展示されている音速滑走体の模型

「音速滑走体」にあこがれて

  • 入学当時の思い出を語る山田さん
  • 入学当時の思い出を語る山田さん
  • 理工学部長、学長も務めた小澤教授
  • 理工学部長、学長も務めた小澤教授
  • 農学部のあった鷹来キャンパスでの実験を見守る学生たち(1965年8月26日)
  • 農学部のあった鷹来キャンパスでの実験を見守る学生たち(1965年8月26日)

愛知県刈谷市の自動車部品メーカー「日本テクニカ」社長の山田伸雄さん(1973年理工学部交通機械学科卒)が、名城大学受験を決めたのは、新聞、テレビ、少年雑誌などでも次々に紹介された名城大学の小澤久之亟教授が推進する「音速滑走体」へのあこがれからでした。「音速滑走体は受験雑誌の表紙でも紹介され、何としても小澤先生のいる名城大学の交通機械学科に入ろうと思いました」。山田さんは45年以上も前の受験生時代をそう振り返ります。

小澤教授は戦時中、三菱重工名古屋航空機製作所の航空技術者として重爆撃機「飛龍」を設計しました。しかし、戦後、連合軍総司令部(GHQ)の指令で日本では航空機の生産は全面的に禁止され、新しい時代での飛行機設計の夢を断たれました。
小澤教授は、1948年に名城大学教授(当時は前身である名古屋専門学校)に就任。「飛行機づくりに関われないのなら、地上の乗り物の速度を上げることで飛行機の速度を上回る乗り物を実現させたい」と取り組んだのが、ロケットを動力にした「音速滑走体」であり、さらに音速(時速1240km)を超えた「超音速滑走体」でした。

音速滑走体の滑走実験は農学部のあった春日井市の鷹来キャンパスで1959年4月29日から、1968年3月15日まで18回行われました。18回目の実験では発射点から254m地点で音速に迫る時速1140kmを記録しています。
そして、マッハの世界の挑む「超音速滑走体」の滑走実験は山田さんが入学した1969年の4月6日から1972年3月9日まで7回行われました。音速滑走体を真空チューブ内で走らせて、騒音や空気抵抗を減らすことで「超音速」の実現に挑んだのです。

「超音速マッハ2に成功」

  • 鍋田干拓地での実験で加速路管を真空にする実験班(1969年9月14日)
  • 鍋田干拓地での実験で加速路管を真空にする実験班(1969年9月14日)

「超音速滑走体」の第1回の滑走実験場所は鷹来キャンパス(滑走コース600m)でしたが、第2回からは愛知県弥富町(現在は弥富市)の鍋田干拓地(滑走コース1600m)で行われました。鷹来キャンパスでの実験打ち切りは、天白キャパスに1968年12月に5号館が完成、農学部が1969年1月に鷹来キャンパスから移転し、5号館での授業がスタートした時期とも重なります。
鍋田干拓地では最初の第2回実験は1969年9月14日に行われました。天白キャンパスからは見学希望者のためのバスも出ましたが、満席で山田さんは乗車できず、自分の車を運転して駆けつけました。鍋田堤防上のコースで最高速度2535km(マッハ2.07)を達成したこの日の実験について「名城大学新聞」(1969年10月31日)は「超音速マッハ2に成功」の見出しで報じています。(要旨)

本学理工学部交通機械学科における超音速滑走体の実験は、9月14日午後、愛知県海部郡弥富町の鍋田干拓地の新実験場で行われた。去る4月の第1回実験では、春日井市の農学部において600mのコースでマッハ1.98を記録しているが、今回からはロケットの滑走状態をよく調べるために1.6㎞と、以前より1000m延長し、新しい実験場を鍋田干拓地の堤防上に作った。
ロケットは午後2時50分に発射され、ゴウ音と炎を吹きだして真空チューブに飛び込み、3.3秒でストッパーに到着した。そのショックで締め付けボルトが2、3本飛び、減圧用の穴から水が相当吹き出すなど、突入時における衝撃の強さを示していた。
実験後、ストッパーはすぐに分解されたが、衝撃の吸収に失敗したためか、滑走体はバラバラに分解していた。また、計測器では発射後0.84秒後に音速を突破し、1.6秒後に最高速度2535㎞(マッハ2.07)を示していた。
今回の実験につき小澤教授は「スピードはこれ以上早めても意味がなく、これからはストッパーの研究をして滑走体を原型で回収したい。これが実用化されれば、物資の輸送なら東京~大阪間を12分、人を乗せた場合は15分で結び得るだろう」と語った。

翼を取ったジェット機

  • 「小澤教授に初めて声をかけてもらった時は感激した」と語る伊藤さん
  • 「小澤教授に初めて声をかけてもらった時は感激した」と語る伊藤さん

山田さんより1学年下で、卒業後は豊和工業(愛知県清須市)に就職した名古屋市西区、伊藤俊司さん(1974年理工学部交通機械学科卒)も、小澤教授の音速滑走体にあこがれて名城大学に入学しました。やはり、高校時代、テレビや新聞で連日報道される実験の様子を伝えるニュースに大きく心を揺さぶれた1人です。通っていた愛知県立中村高校では国立大進学コースでしたが、小澤教授のいる名城大学理工学部交通機械学科への入学をめざすことに迷いはありませんでした。交通機械学科は1965年にできたばかりの新しい学科でしたが、父親や親類が国鉄(現在のJR)勤務という鉄道一家だったこともあり、将来は鉄道関係の仕事ができるのではという期待もあったそうです。
伊藤さんは名城大学に入学して、鉄道研究会がなかったことに驚き、さっそく仲間7人と鉄道研究会を結成。名古屋周辺から次々に姿を消していく蒸気機関車や未来の交通について熱く語り合いました。専門科目の授業はまだなく、小澤教授に直接指導を受ける機会はありませんでした。そんな伊藤さんたちに、小澤教授から「超音速滑走体の実験をやるから手伝ってほしい」と声がかかりました。2年生の時です。
「小澤先生から、直接、声をかけてもらい、説明を受けた時は舞い上がるような感激でした」。伊藤さんはその時の、感動を語りました。
「車輪方式は摩擦抵抗が推進力になるため、時速350㎞程度が限界。これ以上のスピードを得るには、浮上式が必要です。これが超音速滑走体なのです。ジェット旅客機の翼をなくせば、揚力が発生しないので飛び上がらず、高速で走ることができます。この原理から滑走体の形状は、ジェット機から翼を取ったものとなっています」。鉄道研究会のメンバーたちに語った小澤教授の説明は簡潔明瞭でした。

カエルとカメを無事回収

  • 記録係として最後の実験に参加し、新聞記者から取材を受ける伊藤さん(1972年3月9日、鍋田干拓地で)
  • 記録係として最後の実験に参加し、新聞記者から取材を受ける伊藤さん(1972年3月9日、鍋田干拓地で)
  • 初めてカメ、カエル、ゴキブリを搭乗させた実験を指導する小澤教授(1970年12月26日)
  • 初めてカメ、カエル、ゴキブリを搭乗させた実験を指導する小澤教授(1970年12月26日)

伊藤さんら鉄道研究会のメンバーたち7人が体験した「超音速滑走体」の滑走実験は1972年3月9日に行われた第7回でした。第5回、第6回の実験ではカエル、カメを乗せ、超音速に耐えられるかが試されました。いかに、東京~大阪間15分という超音速での滑走が実現できたとはいえ、人間が過酷な重力や衝撃に耐えられるのか。新聞やテレビの放送も興味津々の様子で報道に力をいれました。しかし、第5回、第6回の実験ではいずれもブレーキ熱で焼死してしまうなど、生き物たちを無事回収することはできませんでした。
第7回実験では、全長1m、直径8cmのジェットエンジンを搭載した超音速滑走体を、真空状態のパイプの中をマッハ1の速度で走らせ、積み込んだカメやカエル、ゴキブリの生き物たちを無事に回収する実験です。実験場に到着すると、専門スタッフたちはすでに配置されていました。伊藤さんたちが担当させられたのはいわば補助業務で、伊藤さんは記録係を命じられました。「これが最後の実験になるので、どんどん写真を撮ってくれ」とカメラを渡されました。積み込まれた生き物たちの回収を命ぜられたメンバーもいました。
第7回実験は3月9日の午後行われました。滑走体の先端と、本体の間に長さ30㎝の生物専用カプセルが取り付けられ、内部をドライアイスで冷房、ブレーキも前回までは軌道にオガクズを詰めていたのが水に変えられました。カプセルに乗せられたのは、甲羅に覆われて衝撃に強いカメ、冬眠中を掘り起こされたカエル、そして生命力が強いと言われるゴキブリでした。それぞれガラス繊維の綿にくるまれてカプセルへ。
午後1時45分、点火と同時に、滑走体は猛烈な発射音、炎をあげ、煙を残して時速1500キロの超音速で一瞬のうちにコースを突っ走りました。そして、カメとカエルは生きたまま回収されました。伊藤さんはカメが歩き出している瞬間をカメラに収めました。カエルはぐったりした様子でしたが、小澤教授が「生きている」と宣言するように叫んだのを鮮明に覚えています。ただ、ゴキブリは黒こげになって死んでいました。
当時は学長(1971年4月~72年3月)でもあった小澤教授は、報道陣から感想を求められ「早く止まりすぎ、計画通りにはいかなかった。しかし、カメとカエルが生きていたのは大成功」と胸を張りました。
実験の模様を「朝日新聞」(1972年3月10日)は、「カメとカエル生存 名城大 時速1500キロの滑走実験」の見出しで伝えました。

1959年から紛争の時代もはさんで13年間に及んだ「音速滑走体」「超音速滑走体」の滑走実験は伊藤さんたちが参加した1972年3月の実験で終了しました。愛知県の都市計画で鍋田干拓地が実験場として使えなくなったこと、場所を変えたとしても滑走体を走らせる実験施設が老朽化していたこがとが大きな原因ですが、大学の限られた予算では継続がすでに限界にきていたこともありました。

SF作家は「カミカゼトレーン」

  • 名城大学に超音速滑走体の模型を見学に訪れた国際SFシンポジウム参加者一行(1970年9月1日)
  • 名城大学に超音速滑走体の模型を見学に訪れた国際SFシンポジウム参加者一行(1970年9月1日)

小澤教授は1970年9月2日、名古屋の都ホテルを会場に開催された「国際SFシンポジウム」という、世界の著名なSF作家たちが参加したシンポジウムの討論会に出席しました。シンポジウムには、アメリカ、イギリス、カナダ、当時のソ連などからSF作家が招かれ、日本からは小松左京、星新一らの作家のほか、漫画家の手塚治虫、石ノ森章太郎らが参加しています。東京、名古屋、大津と会場を移して行われ、空想的科学小説(サイエンスフィクション)と科学の進歩、その先にある社会の姿などについて、自由な発想で意見を述べ合うのが狙いで、名古屋では「空想的交通論」を主題にした公開討論が行われました。
名古屋では戦後の都市計画で、広い道路が縦横につくられましたが、それが裏目に出て、交通事故発生も全国有数となっているました。そして一方で自動車産業の中心ともなっていました。討論会を前に、名古屋入りした参加者たちはトヨタ自動車と名城大学を訪れました。トヨタの工場では、何十秒に1台の割で車が生産されていく壮観な様子を見学。名城大学では、小澤教授の進める「超音速滑走体」についての知識を得るためでした。SFを中心に生涯1000編を超える作品を執筆した星新一さん(1926~1997)が『学士会報』第709号(1970年10月号)に書き残した文章です。

これを一口で言えばロケット列車。実際の映画を見る。まさに驚異のスピード。真空のチューブ内を通過させれば、空気内の抵抗がないため速力はさらに高まり、ハワイまで40分ほどで行けるという。ソ連からのSF作家たちは「これでモスクワ~シベリア間を結べばどんなに便利になることか」と非常に興味を示した。イギリスのSF作家ブライアン・オールディスは肩をすくめ「カミカゼトレーン」と一言。空想小説の中では盛んに登場させていても、現実に実験をやっているのだと知ると、やはり驚きなのである。

都ホテルでの公開討論会のテーマとなった交通問題の解決策について小澤教授は発言し、音速滑走体の意義を強調しました。「だからこそ、地上及び空中を人間に取り戻さなければならない。地中、あるいは海面下に真空チューブをつくり、飛行機の速度を持つ乗り物を走らせる必要がある」。
『学士会会報』第709号でこうしたやりとりを紹介した星さんは、小澤教授の主張に理解を示しています。
「外国のSF作家は、その経済性をいやに気にしている。真空チューブを維持するのに大変な費用がかかるのではないかと。SF作家が費用を気にするなど、なんとなくおかしな気もした。私としては、この乗り物が開発されたらいいと思う。飛行機と比べたら、少なくとも墜落することはないはずだ。また、衝突もハイジャックも起こらないだろう」「聴衆は中学生、高校生数百人。現在の交通問題への速効的な役にはあまり立つとは思えないが、この若い人たちの頭のどこかに残り、未来思考に必要な頭の柔軟性を保つ役には立つのではないかと思う。結論としては、はなはだ楽しい集いであった」。

「学生に夢を与えるのが大学」

  • 「朝日新聞」に「未来の新幹線に取り組む交通機械学科の学生たち」として紹介された4年生当時の山田さん(右から2人目、1972年)
  • 「朝日新聞」に「未来の新幹線に取り組む交通機械学科の学生たち」として紹介された4年生当時の山田さん(右から2人目、1972年)

最後の実験が終わった後、小澤教授は伊藤さんらに語りました。「学生に夢やロマンを与えるのが我々大学教員の仕事。それをどう実用化するかは大学では限界がある。あとは企業や国がやることだ」。
伊藤さんと小澤教授との直接の関わりはこの最後の実験の時だけでしたが、伊藤さんは卒業後、この小澤教授の言葉を忘れずにエンジニアとしての道を歩み続けました。技術者にとっても、ロマンを追い続けることは何よりも大切なことなのだと。
山田さんは小澤ゼミ生として、卒業研究でも小澤教授の指導を受け、水のエネルギーを使った滑走体の静止方法についてまとめました。小澤教授の定年退職記念として1979年に教え子たちが中心になって刊行した記念誌『音速滑走体』に、山田さんも「先生の素顔と思い出」という一文を寄せました。「小澤研究室での研究内容は工学の真髄を突いたものでした。とにかく、当たり前の研究では気に入らず、先生自ら考え出されたテーマ、内容に添わないと気にいっていただけず、その向きの参考文献がなかなか見当たらず、苦労したというのが本音であります」。
山田さんは卒業後も小澤教授を師として仰ぎ続け、同じ名城大学卒業生の妻洋子さん(1972年短期大学部商経科卒)との結婚式では仲人も務めてもらいました。山田さんは、超音速滑走体が紹介された新聞広告の切り抜きを宝物のように保存していました。この三菱製紙の広告が掲載された日付や掲載紙名は不明ですが、「マッハ3のロケット推進列車……未来の超高速鉄道、いま開発中」のキャッチコピーとともに、その完成予想図が掲載され、その説明には「名城大学<名古屋>で実験開発中」と紹介されています。

  • 小澤教授の実験を支え続けた奥出名誉教授
  • 小澤教授の実験を支え続けた奥出名誉教授

1966年に名城大学理工学部機械工学科を卒業。岐阜大学大学院を修了して1969年から母校に戻った奥出宗重名誉教授は、教員として小澤教授の実験を最後まで支え続けました。衝撃波、重力、安全な停止方法など、実用化へはあまりに多くの課題を残したまま、音速滑走体は、1988年、小澤教授が亡くなったことで、人々の記憶から遠ざかっていきました。奥出名誉教授は、多くの課題があることは認めつつも、「私は今でも、原理的には全く不可能ではないと思っているんですよ」と語りました。

メディアにぎわした音速滑走体

  • 「名城大学で実験開発中の高速滑走体完成予想図」として紹介された三菱製紙の新聞広告(山田さん提供)
  • 「名城大学で実験開発中の高速滑走体完成予想図」として紹介された三菱製紙の新聞広告(山田さん提供)

小澤教授の定年退職記念誌『音速滑走体』には、「学術研究日誌」として1953(昭和28)年から1978(昭和53)年まで25年間に、小澤教授の新聞や雑誌などへの寄稿記録、講演記録、メディアによる紹介記録などが14ページにわたり収録されています。山田さん、伊藤さんが受験生時代だった1967、68年当時の掲載分65件から抜粋した一部です。

1967(昭和42)年

1月25日 読売新聞、名城大学の音速特急、時速1000キロへ挑戦:3月めざし準備OK
4月8日 TBSテレビ、滑走体について夢のジェット特急の放送行う
8月23日 朝日、中日、毎日、読売、サンケイ等、「音速滑走体」時速920キロ出す
9月11日 週刊文春、旺文社小学生新聞、時速920キロ出す。名城大で実験成功
9月14日 中日新聞、(中日ビル6階で)入試コーナー人気。音速滑走体も展示
10月1日 航空技術10月号、音速滑走体の構想について小澤久之亟執筆
12月8日 小説現代12月特大号、時速920キロの実験

1968(昭和43)年

1月5日 CBCテレビ、ニュース後に滑走体の放送行う
3月14日 朝日新聞、時速1000キロに挑む、あす実験:名城大学の音速滑走体
5月1日 大阪読売新聞主催、広島市での「のりもの明治百年展」に音速滑走体模型を出品
5月23日 河合塾新聞、音速滑走体に取り組む
9月21日 名城大学、音速滑走体の英文パンフレット完成
11月2日 可児工業高校にて超音速に挑む地上乗り物についての講演を行う
12月2日 今週の日本、東京~大阪僅か12分、20年後の交通ビジョン

(広報専門員 中村康生)

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