元名城大学学長
1905年生~1988年没
小澤 久之亟
2024.07.29
小澤 久之亟
元名城大学学長
1905年生~1988年没
第二次世界大戦後の混乱期。日本はどう立ち上がるべきか。未来を憂う小澤が復興のシンボルとして夢を託したものこそ、超音速滑走体だった。
東京帝国大学(現東京大学)工学部船舶工学科を卒業後、三菱重工に入社した小澤。開発を担当した四式重爆撃機『飛龍』は、当時最速の時速540kmを実現し、大きな成果を収めた。しかし、敗戦国となった日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により全戦闘機を処分、さらに新たな航空機の生産も禁止。小澤の飛行機設計の道は断たれた。
しかし小澤は諦めなかった。1953年、名城大学理工学部の教授に就任した小澤は、「飛行機づくりができないのなら、地上で飛行機の速度を上回る乗り物を実現させよう。そして、人と物の流れを加速させ、日本を復興させたい」と考えた。そうして新たに取り組んだものが「音速滑走体」であり、さらに音速(時速1240km)を超えた「超音速滑走体」である。
小澤は生前、研究室の学生に「地下資源の乏しい日本は、技術力を世界に知らしめていかなければならない」と語っていた。単なる目新しさではない。世界を、時代を、振り向かせるためには、人々を驚かせる圧倒的なものでなければ意味がなかった。「超音速滑走体」は、小澤の夢と日本の希望を乗せた特別な乗り物だったのだ。
小澤が「音速滑走体」の開発を発表した当時は、特急電車でさえ最高時速80km。多くの人にとって、飛行機よりも速く地上を走る乗り物など、想像することすら困難だったに違いない。しかし、小澤は型破りな構想で、その研究に実現性をもたらした。動力にロケットエンジンを採用したのだ。
小澤の信条は「理論上可能であれば、必ず実現できる」。その鉄のような意志と強い推進力で、6年間の研究を経て、はじめての実験が行われた。そこで記録した最高速度はなんと時速50km。目も当てられない結果だった。小澤はこの結果の原因を機体の重さだと分析し、機体を軽量なアルミに変更。さらにロケットエンジンを2つ搭載した。改良を加えた滑走体は最高速度840kmをレコード。その後も、ロケットエンジンのガスで機体が湾曲したり、滑走体がバランスを保てずコースアウトしたりと多くの失敗を重ね、エンジンの位置や搭載数を変更するなど改良に次ぐ改良を加えた。
構想発表から15年。ついに音速に肉薄する時速1140kmを記録した。歓喜の瞬間だった。だが、研究はここで終わらなかった。ソ連の旅客機『ツポレフ』が音速を超えたという報告が小澤の耳に入ったのだ。「圧倒的なもので世界を驚かす」、そのために、失速の原因となる空気の摩擦抵抗を減らす仕組みを考案。滑走コースをチューブで覆い、真空状態をつくった。最終的に、滑走体は最高時速2430km記録。東京と大阪を約14分でつなぐ、まさに圧倒的なスピードであった。実現に際して、莫大な総工費が想定された「超音速滑走体」は、東京・大阪間を走ることはなかったが、日本の技術力を世界に知らしめた。
小澤が研究した「超音速滑走体」は、実際に日本の地を走ることは叶わなかった。しかしその発想、その技術は、世界に波及している。最大時速4000kmを目指す中国の高速飛行列車や、世界各国で研究が進められている「ハイパーループ」などの開発には、「超音速滑走体」の実験で用いられた真空チューブや、同技術の理論を取り入れた低気圧チューブが利用されている。さらに技術面だけでなく、現在、超高速列車の研究が行われていることも小澤の彗眼を証明するものだが、それを約70年も前から取り組んでいたというのは、もはや驚きだ。
小澤の功績はそれだけではない。構想を発表した当時、「音速滑走体」は、SF的な空想の域を脱しない乗り物だと誰もが思っていた。しかし「音速滑走体」の開発は、愛知県の支持も得て一大プロジェクトへと成長していったのだ。それは、小澤が誰よりも「音速滑走体」の実現を信じており、周囲を巻き込む求心力があったからだ。「音速滑走体」が走る未来のロマンを語り、その話を聞いた人たちの多くは魅了されていった。技術の研究・開発には多くの時間や費用がかかるため、賛同者が不可欠。そのために、研究の必要性を信じ、その魅力を理想とともに、具体性を持って人に伝えていくことが大切だ。小澤は研究者としての執念も、ある種実業家としての強かさも背中で教えていたのだった。
小澤教授から学んだREALIZE
日本テクニカ株式会社
(愛知県刈谷市:自動車部品メーカー)社長
わたしの入学のきっかけは、「音速滑走体」そのものです。音速を超えるスピード、地上の乗り物にロケットエンジンを採用する発想、その破格のスケールに圧倒されたのはいまでも覚えています。きっかけが「音速滑走体」だっただけに、小澤教授に学ぶことはもはや自明。入学してすぐに、直接本人にお会いしに行きました。三菱重工で『飛龍』を開発した権威に、一回生の学生が会いに行くとは我ながら型破りでしたが、小澤教授はそんな私を気に入ってくれたようでした。熱意を評価してくれたのだと思います。教授は研究室では毎日忙しくされていました。「超音速滑走体」だけでなく、並行してほかの研究にも携わっており、研究室には企業の研究員をはじめたくさんの人が出入りしていました。多忙な方ですから、わたしたち研究室生もしっかり役割を全うしなければなりません。そんな慌ただしい研究室でわたしが任されたのは、「超音速滑走体」のブレーキシステムの開発です。提案したのは、安価でブレーキ時に高温にならない「水中フラップ」。小澤教授はそのアイデアを採用してくれました。小澤教授のなかにその案はすでにあったと思います。あえて学生に考えさせたのは、後進を育てるため。小澤教授は私に「この研究を引き継いでくれないか」と折々おっしゃっていましたが、研究者の育成も自分の務めだと思っておられたのでしょう。
小澤教授から多くを学ばせてもらいましたが、最も影響を受けたのは研究に取り組む姿勢。それは技術者の魂で、しぶとく、決して諦めないことです。地上で飛行機の速度を超えるために滑走体に辿り着き、実験を繰り返し、24年間もの時間を要することとなった「超音速滑走体」の研究。平たんな道程ではありませんでしたが、小澤教授は、研究が世の中に役立つことを信じて疑わず突き進み続けました。それが、いま中国や米国で研究が進んでいる超高速列車として実現しつつあります。わたしも一人の技術者として、さまざまな開発に取り組んできました。現在は車の安全に関わるもののほか、地下資源に乏しく地震大国でもある日本に欠かせない、一軒一軒の家それぞれで発電可能な風力発電装置や、建物の免震技術などの開発も行っておりますが、壁にぶつかることは少なくありません。そんな時に小澤教授の研究に対する姿勢を思い起こし、魂を奮い起こすのです。
技術研究に限らず、何かに挑戦するには、興味を持つことが大切です。そして興味を持つためには「よく見る」こと。対象となるものの動き、デザイン、仕組み、考えなどを穴が空くほど観察することで理解が進み、興味が生まれるのです。ただ「眺める」のではなく、解析する目で「見る」。それが、スタートです。夢と情熱も欠かせません。わたしたち日本テクニカ株式会社のモットーは「夢と情熱と人間性」。常に独自の考えや技術でオンリーワンを目指しています。現在研究している家庭用の風力発電装置や、家庭用免震技術もそうです。これらの開発に成功すれば、電気自動車の充電や、燃料電池車の水素生産も可能になります。いつ発生するか分からない大地震にも備えられます。世界一の技術開発力で地球規模の仕事ができるのが当社の魅力。どうぞ、志ある学生さんに、当社の門を叩いていただきたいと思います。
小学生のころから農業機械に興味を持ち、不調のエンジンを修理することもあった。新聞記事のレポートや受験情報雑誌(旺文社・螢雪時代)の表紙で「音速滑走体」を目にしたのがきっかけで、1969年に名城大学理工学部・交通機械学科に入学。小澤教授の研究室の門をたたき研究室の一員となる。研究室では「超音速滑走体」を停止させる技術の開発を任され、ここで得られた経験と知識がいまの自分の基礎となっている。卒業後は自動車部品メーカーに入社し、その後日本テクニカ株式会社を立ち上げる。 小澤教授の研究がクローズアップされた、日本が戦後20年でアメリカに次ぐ大国に至った経緯に迫るNHKの特集番組では、証言者として山田氏と日本テクニカ株式会社が紹介される。
発明研究奨励金などの事業を通じ発明の振興と育成を図る日本発明振興協会の発明大賞にて考案功労賞の受賞経験を持つ。