REALIZE Stories 社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語。

2024.08.09

震災での絆を挑戦する勇気に

たかはし なお

髙橋 奈央

名城大学薬学部卒

薬剤師

1994年生

大阪城見下ろすオフィスで

  • 「母校の挑戦を続ける姿勢に勇気をもらっています」と語る髙橋さん(大阪城前で)
    「母校の挑戦を続ける姿勢に勇気をもらっています」と語る髙橋さん(大阪城前で)

 髙橋さんの職場は大阪城を見下ろすビル13階オフィス。大手顧客管理会社で、クライアントである製薬会社に代わり、医療従事者や患者に対して医薬品情報を提供する仕事をしている。大学卒業後、東京で2年間の薬局薬剤師を経て2021年に転職した。
 学生時代後半は大津史子教授の医薬品情報学研究室に所属した。卒業後も母校研究室と連絡を取りながら、関西の大学の研究機構の客員研究員として、医療経済評価に関わる論文をまとめ、公益財団法人医療科学研究所機関誌「医療と社会」2024年度版に掲載予定だ。筆頭著者は髙橋さんだが、共著には母校の大津教授、田辺公一准教授らが加わる。
 薬学部では薬剤師国家試験対策もあり、研究活動は5年生までの学生が多いが6年生秋まで頑張った。2018年9月の日本薬剤師会学術大会で発表した「末期がん患者における在宅療養と病院療養の医療費に関する費用対効果」はポスター優秀賞に輝いた。
「途中で妥協するのがいやだった。6年間、学費を免除していただいたことに応えなければと思った。今回の論文は研究を続けたかったからです」。大阪弁が飛び交う職場。「その発音ちょっと違うで」。日々、〝東北なまり〟を矯正されているという。

震災で犠牲になったテイラーさん

  • 髙橋さんが見せてくれたテイラーさんからの手紙
    髙橋さんが見せてくれたテイラーさんからの手紙

 2011年3月11日の東日本大震災に遭遇したのは宮城県石巻高校1年生の3学期。自宅も被害を受け、親類や友人が何人も犠牲になった。道を歩けば両脇に死体があった。中学3年の時、英語弁論大会出場に向けて指導を受けた米国人英語指導助手テイラー・アンダーソンさんも犠牲になった。小学校で子供たちを高台に避難させた後、自分のアパートに戻る途中、津波に遭遇、10日近く経って遺体で発見された。
 髙橋さんはテイラーさんが大好きだった。高校進学後も手紙やメールの交換を続け、2011年8月に帰国するテイラーさんの実家を訪れる約束もしていた。がれきの中からテイラーさんのバッグが見つかった。両親に届けられたバッグの中には教え子からと思われる手紙が入っていた。両親は地元の教育委員会に調査を依頼、手紙の主が髙橋さんであることを突き止めた。テイラーさんの両親から届いた手紙によると、バッグの中には髙橋さんからの何通もの手紙が入っていたという。

娘のために行動を起こした家族

  • ありし日のテイラーさん
    ありし日のテイラーさん

 米国バージニア州リッチモンド生まれのテイラーさんは少女のころから日本語を学び、アニメなどを通じ、日本に惹かれた。日本で英語を教え、日米の架け橋になるのが夢で、2008年から日本政府のJETTプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)で石巻市に着任し英語を教えていた。巨大地震と津波が24歳の夢を奪った。
 NHKニューヨーク特派員だった榎原美樹さんは、バージニア州に、行方不明の長女の情報を求める家族がいると知り取材した。両親は不眠不休で日本の関係者や大使館と連絡を取り続けていた。両親は娘の情報を日本に届けるため榎原さんのインタビューに応じた。「米国人女性が石巻で行方不明」のニュースが日本で放送されたが、両親の祈りは叶わなかった。髙橋さんも後に榎原さんから取材を受けた。
 「日米の架け橋になりたい」という娘の遺志に応えなければと、両親は行動を開始した。母ジーンさんと妹ジュリアさんはテイラーさんの母校セント・キャサリンズ高校に、震災復興支援のための基金づくりを相談。短期間に4000万円もの資金が集められた。
 復興支援の輪を広げるため両親は2013年から東京でNPO設立準備を始め、2014年6月、「テイラー・アンダーソン記念基金」(テイラー基金)を発足させた。父アンディさんと元駐米大使の藤崎一郎さんが共同理事長に就任。専務理事に元朝日新聞アメリカ総局長で震災直前まで石巻で記者をしていた高成田亨さん、理事にはジーンさん、日本学術会議議長などを歴任した黒川清さん、国際ジャーナリストの国谷裕子さんらが名前を連ねた。
 テイラーさんの母校の協力で設けられた基金、テイラー基金による活動は、被災地学校への「テイラー文庫」設置からスタートした。2018年度から3年間に石巻市の全小学校33校に1357冊の英語の本が贈られた。
 夏休みを利用し、石巻とリッチモンドの日米高校生たちが1年おきに訪問し合う国際交換プログラムも2012年から始まり、コロナ禍前の2019年まで7回の交流プログラムが実施された。

被災を乗り越え名城大学に

  • 2019年夏、テイラーさんの母校であるバージニア州ランドルフ・メイコン大学でテイラーさんの両親と
    2019年夏、テイラーさんの母校であるバージニア州ランドルフ・メイコン大学でテイラーさんの両親と

 髙橋さんの両親がセリなどの仕事に関わっていた魚市場も壊滅した。自宅の再建もあり家計は厳しくなった。アトピー性皮膚炎と向き合ってきた髙橋さんは中学のときから薬剤師を目指していた。「塾に行くお金もない。このまま高卒で就職するのかな」とも思った。夢をあきらめかけた髙橋さんに、前に進む勇気を与えてくれたのは、石巻まで励ましに来てくれ、娘の夢のために行動を続けるアンダーソンさん家族の姿だった。塾に行けない分、始業1時間前に学校に着き、先生たちに教えてもらった。
 問題は学費だった。全国の薬学部から取り寄せた山のような入学案内パンフレットで奨学制度を調べた。見つけたのが名城大学の「大規模自然災害経済支援奨学生」。他学部より高い薬学部の学費を6年間免除するという夢のような制度だった。
 2013年3月2日、大学ホームページでの合格発表を見て高橋さん家族は歓喜した。石巻市を訪れていたアンダーソン夫妻は入学祝いに銀のブレスレットをプレゼントしてくれた。髙橋さんはブレスレットをつけて入学式に臨んだ。

テイラーさんの遺志を継いで留学生支援

  • テイラーさんの家族から贈られたブレスレットと形見ビーズの時計
    テイラーさんの家族から贈られたブレスレットと形見ビーズの時計

 髙橋さんは名城大学時代、授業のほかにSA (スチューデントアシスタント)の活動にも積極的に取り組んだ。外国人留学生の学業や学生生活などをサポートする制度だ。髙橋さんは、さらにマンツーマンで留学生生活をサポートする、「スピーキングパートナー」も引き受けた。テイラーさんの「英語指導を通して日米の駆け橋になりたい」という遺志が、大きな力になって背中を押している気がした。
 髙橋さんは1年生の夏休み、リッチモンドを訪れた。日本から訪れた娘の教え子のために、ジーンさんは、テイラーさんの形見のビーズの中から、髙橋さんが選んだ好きな色のビーズを結んでバンドにした時計を作りプレゼントしてくれた。
 髙橋さんはSAで英語力を磨き、6年生(2018年)の夏と卒業した2019年の夏、テイラー基金の高校生交流プログラムで、来日して石巻に滞在した米国人高校生、石巻から渡米した日本の高校生たちの引率役も務めた。
 卒業後の東京での薬局勤務時代は、希望して外国人の多いエリアを担当した。英語が話せる薬剤師の髙橋さんを頼って遠方から通う常連客もあった。

夢を叶えるために頑張れた

 髙橋さんは英語を勉強していて、「これだな」と思ったことわざがある。
 When life gives you lemons, make lemonade.
 直訳すれば、「人生でレモンが降ってきたら、それでレモネードを作ればいい」だが、髙橋さんは「日本のことわざなら、〝転んでもただでは起きない〟だと思った。似たようなことわざには〝災い転じて福となす〟があるが、震災を体験しているから〝福〟は使えない。どんな境遇でもチャンスがあるのなら生かさなければもったいない」と思った。
 髙橋さんは、名城大学が「立学の精神」で「穏健中正で実行力に富み、国家、社会の信頼に値する人材を育成する」を掲げていることからも背中を押してもらった。「実行力」が挑戦につながるからだ。
 「毎年、テレビで応援する仙台での女子駅伝、学生たちのボランティア活動など、卒業してからも挑戦を続ける母校から勇気をもらっています」。

「テイラー・アンダーソン記念基金」が東日本大震災から10年後に発行した記念誌『夢を生きる Live Your Dream』(2021年3月初版)に、トヨタ自動車の豊田章一郎名誉会長ら応援者とともに髙橋さんも寄稿している。

 現在、私は学生時代からの夢であった薬剤師として勤務しています。震災当時のテイラー先生の年齢よりも私の方が年上になってしまい、不思議な気持ちです。この10年間でたくさんのことがあり、何度もテイラー先生へ、近況を報告することができたらいいのにと思いました。10年前は英語が拙かったのですが、英語を話す今の私の姿を見たら、きっとテイラー先生はびっくりして、誇りに思ってくれると思います。
 いつか再会できた際にはこんなことを伝えたいと思います。「テイラー先生が英語を勉強したいと思えるきっかけをつくってくれたおかげで、英語が話せるようになりました。テイラー先生の姿を見て、夢を叶えるために頑張ることができました。ありがとうございます」。
 生前にいただいた日記には、私に対して、I will love her foreverと書いてくれたテイラー先生。私もあなたのことがずっと大好きです。(抜粋)

頑張る姿が励みに 挑戦を続ける大切な仲間

  • 卒業式の日の山崎さん(左)と髙橋さん(右)
    卒業式の日の山崎さん(左)と髙橋さん(右)

山崎瑞季さん

名城大学薬学部卒・薬剤師 1994年生 

 

 大学病院見学の通訳が必要な場面で、思い浮かんだのが髙橋さんでした。大学4年生の時、同じ研究室に配属されて3か月後、突拍子もないお願いにも関わらず快諾してくれました。彼女のおかげで大学病院の見学は、留学生の満足度も高く、私も英語への苦手意識を少し克服するきっかけにもなりました。(彼女の援護があれば、ジェスチャーでコミュニケーションをとることができました)
 髙橋さんの卒業研究は、研究室の中では新しい研究手法でした。東京まで研究手法を学びに行き、分からないことは学外の先生とメールでやり取りをして、県外を含む研究協力機関に通ってデータを集めていました。研究成果は、薬剤師の最も大きな学会で、優秀演題賞を受賞しました。受賞の知らせを聞いた時は、彼女の努力が日本の医療の未来を明るくしたと嬉しく思いました。
 薬学部では、卒業論文と学内の発表会で研究活動を終えることが一般的です。しかし、彼女は、卒業後も研究を続けて、自分の力で論文化まで漕ぎ着けました。研究に協力してくださった方への恩返しと、医療の未来のために、独力で論文化したことは、同期として誇らしいです。私と彼女は、卒後も研究を続けている数少ない仲間です。仕事をしながら研究を続けることは一筋縄ではいかないですが、彼女の頑張る姿勢は私にとって大きな励みです。
 学生生活を通して彼女がテイラー先生に少しでも近づくべく努力をしていたのを近くで見ていました。今ではネイティブと変わらないくらいの英語力があると思っており、卒業後も何かと彼女に頼っています。(笑)