REALIZE Stories 社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語。

2024.11.30

母校100周年のロゴ背に鈴鹿8耐を駆ける商学部卒のアラカンライダー

あらかわ まさひこ

荒川 雅彦

名城大学商学部(第二部)卒
有限会社M&Y、小牧機材社長
1965年生

名城大学開学100周年のロゴを背に「鈴鹿8耐」決勝に挑む荒川さん(2024年7月21日)
名城大学開学100周年のロゴを背に「鈴鹿8耐」決勝に挑む荒川さん(2024年7月21日)

 名城大学商学部(第二部)を1992(平成4)年に卒業した荒川雅彦さんは、2024年7月21日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開催されたオートバイの祭典「鈴鹿8時間耐久ロードレース」(8耐)の決勝レースに挑んだ。還暦を前にした59歳の最年長ライダーで、3年連続3回目の8耐だった。8時間で1周5.8㎞のコースを、チームで周回数を競う国際レース。3人編成の荒川さんチームは46チーム中36位で完走した。182周、1055.6㎞を走り抜いた車体とユニホームには名城大学開学100周年の記念ロゴが輝いていた。

5万6000人が見守るレース

 2024年の8耐はパリ五輪との兼ね合いで開催が早まり、7月19日に開幕した。日本、フランス、ドイツなど6か国から計46チームが参加し、3日間で全国から集まったファン5万6000人がレースを見守った。
 決勝レースが行われた21日。レース前にはピットが開放され、ファンと出場チームが交流する「ピットウォーク」で盛り上がった。7月1日に59歳を迎えた荒川さんは、参加ライダーでは最年長。「ピットウォーク」のチケットを手に入れたファンたちの中には、荒川さんと親交のある名城大学関係者たちの姿が見られ、本番に挑む荒川さんを激励した。
 午前11時半、荒川さんら各チームのスターティングライダーたちが一斉にマシンへ駆け寄って決勝レースが火ぶたを切った。午後7時半まで繰り広げられたレースでは、ライダーたちは高難度のコーナーが続くコースで、マシンを地面すれすれまで倒し、爆音をとどろかせながら、新幹線を上回る速度を出しながら疾走を続けた。
 優勝したトップチームは8耐最多となる220周を走破してのゴールだったが、荒川さんらのチームは182周で36位での完走だった。レース後のチーム報告書に収められた荒川さんのコメントだ。

「今回で3回目となる8耐。多分、いつもより楽に乗れるかなと思った。理由は身体に余計な力みが入らず、自分自身のラップタイムも上がってきたから。スターティングライダーは嬉しかったが、「楽」なんてとんでもない。走り出して、これはまずいな、スティント(スタートからピットインまで)の周回数をこなせるか?毎周サインボードを見るたびに疑問に思った。出番が来るたびに、自信が失われていきました。もう暑すぎですわ。でも他のライダー、メカニックさん、スタッフの皆さんも頑張っているから音を上げられません。公表するのが恥ずかしいですが、ガッツだ、根性だ、と自分自身と闘っておりました。完走したことを誇りに思っていますし、手伝ってくれた仲間に感謝。本当にありがとう。次回は来年。もうスタートを切りましたね。笑」

家業を支えながらの学生時代

  • 1986年当時の天白キャンパス。奥が1号館
    1986年当時の天白キャンパス。奥が1号館

 荒川さんは名古屋市立緑高校から名城大学商学部に進んだ。南区桜本町にある家は米店。米もスーパーで買える時代に入り、米小売業の経営も厳しい冬の時代を迎えていた。店は両親、姉3人と荒川さんの家族経営。父親と荒川さんが中心となり店を支えた。昼は店の仕事に追われ、大学は夜間の二部で学んだ。米店の仕事は薄利での重労働。「お得意さんがいるので続けざるを得ないが、いつまで続けられるのか」と思い悩む日々だった。
 荒川さんが高校生だった1980年代は「バイクブーム」と呼ばれるほど、二輪車人気が高まった。荒川さんも緑高校時代から原付を乗り回していたが、大学へは400Cバイクで通った。当時、東山動物園近くに、夜になると車好きな若者たちが集まる人気のコースがあり、授業を終えた荒川さんも繰り出した。名城大学近くで祖父が学生向けアパートを営んでおり、祖父宅の車でもよく深夜の東山での走行に夢中になった。帰宅が午前2時ごろになる時もあった。時には米屋の配達用に使っていたカローラのバンで東山を走り、人気のスポーツタイプ車と出合うとタイヤも性能も及ばないのに心の中で勝手にライバル心が高まった。「負けたくない」という気持ちが強かった。

母親の病気で中断した学生生活

  • 1986年当時の1号館ロビー(大学案内より)
    1986年当時の1号館ロビー(大学案内より)

 大学生活が4年目を迎えようとしていたころ、母親が病に倒れた。米店で母親が担っていた仕事も荒川さんが負った。介護も加わり、荒川さんは大学休学に追い込まれた。「目先のことで精一杯だった。仕事をどうやって続けていくか、それしか見えず、学業を考える余裕は全くありませんでした」と荒川さんは振り返る。
 休学して3年目に入ったころ、大学生活をどうすべきか、荒川さんは大学事務室に相談に訪れた。応対してくれた男性職員は心配してくれ、「今から頑張れば何とか卒業できるから」と励ましてくれた。「その職員の方は、南区の店まで様子を見にきてくれ、ついでに米まで買っていってくれ、励ましてくれました」と荒川さんは振り返る。
 必要単位を満たすための悪戦苦闘はあったが、荒川さんは1992年3月に卒業した。『名城大学75年史』資料編によると、1991年度の商学部学生数は3448人で、荒川さんら第二部生は991人。同年度卒業生は811人で第二部は175人だった。
 「大学案内」(1986年度版)には商学部の授業が行われた1号館のロビーや学生食堂の写真が掲載されている。「そうそうこの風景です。本来なら夕方5時半くらいから授業が始まったが、僕もそうだったけど、1限目から来られる学生は少なかった。授業が終わるのは8時半とか9時ごろ」。店の手伝いに追われ、同期入学の友たちの卒業からは大幅に遅れてしまった学生時代を振り返る荒川さんは懐かしそうだった。

賃貸管理業と建設機材現場と

  • 学生時代やオートバイ人生について語る荒川さん(名城大学内で)
    学生時代やオートバイ人生について語る荒川さん(名城大学内で)

 荒川さんは卒業後も米店の仕事を続けた。父親は薄利の米屋に見切りをつけるように、名城大学東門近くでワンルームマンション賃貸業始めていた。荒川さんは32歳で結婚。1998年2月の結婚記念日に合わせて「有限会社M&Y」を設立した。社名は雅彦さんのMと2歳下の妻容子さんのYをもじった。夫婦での米店再建への決意を込めた社名だった。
 「M&Y」になってからの米店の営業には容子さんのアイデアも生かされた。パチンコ店の景品に米を置いてもらったり、産地農家から直接仕入れる方法も取り入れた。「農薬を使っていない富山県立山町の〇〇さん栽培のコシヒカリ」などと売り出した。新聞折込や口コミでの販売拡張にも力を入れた。景品で米を扱ってくれるパチンコ店も増えた。
 一方で荒川さんは、容子さんの父親が手掛けていた小牧機材という有限会社の仕事にも関わっていった。建設現場で組まれる足場機材(仮設機材)のメンテナンスを行う仕事だ。広い敷地に集められた足場機材が壊れていないか点検し、付着したコンクリートを取り除くなどの作業だ。「毎日、ヘルメットをかぶって汗水たらしての現場作業は今でも続いています。日焼けで真っ黒になってしまいました」と荒川さんは笑顔交じりで語る。
 父親が賃貸業として手掛けたのは学生や単身社会人向けに247室あるワンルームマンション。現在は天白区塩釜口1丁目だが、1991年の竣工当時の地名は萱野(かやの)で、「萱野ノ杜之館」としてオープンした。塩釜駅から歩いてすぐという利便性も受けて、学生のほか会社の寮としても利用された。名城大学のすぐそばということで、現在では60室ほどが名城大学の留学生たちが借りている。M&Yは2001年から米店を閉めて、このワンルームマンションの管理を専業にするようになっていた。父親が他界し10年余。荒川さんの現在の仕事は小牧機材での建設機材現場とM&Yの賃貸管理業の2本立てだ。

オートバイとともに

 荒川さんとオートバイとの付き合いは、休学を余儀なくされた名城大学時代から現在までずっと続いている。大学休学中もふさぎ込んでいたわけではなかった。「負けていられない。やれることはやろうという思いがあった」という。
 学生時代の東山での夜の走行を、友達から「ただの暴走族では」と言われたことがきっかけで、荒川さんは鈴鹿サーキットでの公式レース出場を目指した。休学中の1986年ころだ。ただ、昼は米店の仕事に追われているうえ、バイクブームもあり、鈴鹿サーキットでオートバイの予約走行枠を取るのは難しく、1年間に30分位しか走れなかった。
 バイク人口に比べ四輪人口は少なかった。鈴鹿サーキットでも四輪なら走行枠が容易に確保できたこともあり、荒川さんは四輪でサーキットを走りだした。ただ、お金はかかり、借財が増えた。いろいろあったが、仕事がない日曜日に開催されるレースにお金を工面して年1回は出た。
 鈴鹿での「四輪スーパー耐久レース」にも出場した荒川さんだが30歳台半ばに四輪時代を終えた。そして53歳になった2018年からはオートバイレースに転向した。同年の「鈴鹿選手権シリーズ国内JSB1000クラス」ではランキング3位となった。2019年には「国際ライセンス」に昇格し、2022年から3年連続で8耐に出場している。
 荒川さんは、「四輪の世界には次々に若いレーサーたちが入ってくる。年齢とともに僕らは雇ってもらえなくなった。二輪の練習を始めたら、すっかりまた二輪にはまってしまった」と振り返る。
 53歳での鈴鹿での最初のレースでは1000Cのマシンで走った。「普通なら小型の250CCから始め、積み上げていくが、僕には時間がないことが分かっていたので一番上のクラスである1000CCからのスタートになった」と荒川さんは語る。

「母校100周年」の誇り

  • 100周年ラッピングバス前にて(名城大学内)
    100周年ラッピングバス前にて(名城大学内)

 仕事とオートバイの2本立てとも言える人生だが、荒川さんはきっぱり言う。「基本的には仕事が何をおいても一番です。僕はプロではない。仕事がなくては生活もできない。仕事ができないようなものならやめます。やれる範囲でしかレース活動はしない。そこは決めています」。好きなオートバイだが、仕事に追われて練習不足は否めないという。
 オートバイレースへ挑戦のモチベーション維持のため、荒川さんが続けているのがトライアスロンだ。46歳の時からアイアンマンレースなど大会に出場している。「日々の体力を維持するのが目的。何よりモチベーションを保つためです」と語る。
 荒川さんが母校後輩たちに特に伝えたいのは、「希望を捨てず、立ち止まらないこと」だという。「昔とは違うと思いますが、希望を持たないと前には進めない。走らなくてもいいから、一歩足を前に出して、とにかく前進を止めないことだと思います。トライアスロンの最後はランニングで、すごくしんどいが、止まるとゴールには近づかない。一歩一歩、しんどくてもとにかく進むことが大事なんです」。
家業を手伝いながらも好きな二輪、四輪に夢中だった学生時代からの荒川さんの人生。荒川さんは「できないと思われていたことに向かっていくようになった。何もかもはできないが、少しでも光が見えたらそれに向かい続けた。8耐も57歳での最高齢初挑戦だった」と語る。
 8耐では名城大学開学100周年のロゴを掲げて参加した荒川さん。「もう少しで退学になりそうだったとき、職員の方に親身になって支えてもらった。それが一番、嬉しかった。祖父の経営していた学生アパート時代は子供だったが、名城大の学生さんたちに遊んでもらった楽しい思い出もある。名城大学にはずっと世話になっている気がするし、僕にとっては誇りでもあるんです」。