REALIZE Stories 社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語。

2025.07.04

ハンドボール部は私の原点

おとがわ しんたろう

音川 真多郎

名城大学法学部応用実務法学科卒
アジレント・テクノロジー株式会社代表取締役社長
アジレント・テクノロジー・インターナショナル株式会社代表取締役社長
1982年生まれ

 「名城大学は私の青春そのもの。再び目にすることができて涙が出そうです」。2025年4月、化学分析機器の開発・販売、サービスなどを手掛ける「Agilent Technologies, Inc.」(本社・米国)の日本法人社長に43歳の若さで就任した音川真多郎さん(2004年法学部卒)は、母校のハンドボール部に長年保管されていた、自身の選手時代のユニフォームを手に声を弾ませた。キャリアアップを積み重ねて業界大手企業の日本法人トップへと上り詰めた音川さん。「常に挑戦を後押ししてくれた名城大学で学んだことが、その後の人生に大きな影響を与えてくれました」と学生時代に思いをはせた。

中学から始めたハンドボール

  • 名城大学ハンドボール部時代の音川さん(中央)
    名城大学ハンドボール部時代の音川さん(中央)

 奈良県に近い京都府精華町出身の音川さんがハンドボールと出合ったのは中学生の時。少年時代は野球少年だったが、進学した奈良教育大学附属中学校には野球部がなく、熱心な顧問の教員がいたハンドボール部に入部し、夢中になっていった。奈良県立北大和高校(現・県立奈良北高校)に進学すると、ハンドボール選手として大きく成長。インターハイや国体にも出場したが、全国の強豪校の壁は厚く、全国大会では1勝もあげることはできなかった。

 高校での活躍で、いくつかの大学から声がかかったが、その中でも熱心に誘ってくれたのが名城大学だった。現在の本山慶樹監督がコーチ時代に北大和高校を訪れ、音川さんの才能を見出した。「体が大きく力強さを感じさせるが、動きも柔らかい。するすると間に入って、ボールを投げるタイミングもすごく良くて、教えてみたいと思いました」と本山監督は振り返る。

 音川さんがハンドボールにのめり込み始めた頃、名城大学ハンドボール部は創部30年目の1995年11月、「第38回全日本学生選手権大会(インカレ)」で悲願の初優勝を果たした。長い歴史の中で積み重ねてきた部員や関係者の努力が実を結んだ瞬間だった。3年後の1998年11月には、名古屋で開催された第41回インカレで名城大学は準優勝。高校2年生だった音川さんは自ら名古屋まで足を運び、大阪体育大学との決勝戦を観戦。その体験が人生を大きく変えることになった。「自分もこの赤いストライプのユニフォームを着てプレーしたい」。そんな強い憧れが芽生えた。

 ハンドボールの魅力について、音川さんは「駆け引きですね。あれだけのスピードで試合が進む中、ボールのないところでも実に様々な駆け引きが展開される。チームワークの力を学んだことが、今の私の人生にも多大な影響を与えてくれています」。試合中の戦術的思考やチームメイトとの連携から学んだ経験は、競技から離れた後の人生においても重要な礎になっているようだ。

 2000年4月、音川さんはスポーツ推薦で名城大学法学部応用実務法学科に入学。当時のハンドボール部は佐藤和彦監督、本山コーチのもとで2度目のインカレ優勝を目指し、練習は一段と熱を帯びていた。入学前、和歌山県串本町で行われた合宿に参加した音川さんは、あまりの練習のきつさに「入学を辞退しようか」と真剣に考えたほどだったという。

 本山監督は当時の練習環境をこう振り返る。「今よりもっと厳しくて、朝練もやっていました。午前6時半から2時間の朝練、授業、夜練。夜練が終わってからもウエイトトレーニングをしたりして、帰るのが深夜になることも。私も若かったこともあり付き合っていましたが、学生たちには学業があり、アルバイトはやりにくい状況でした」。今では部員数は40人近くに増えたため、2グループに分かれて練習しており、全体の活動時間帯は同じでも、個々の練習時間は1時間半。これは音川さんの時代のほぼ半分という。

父の急死を乗り越えて

  • 名城大学ハンドボール部のチームメイトたち
    名城大学ハンドボール部のチームメイトたち

 音川さんは1年生の年明けに突然の試練に直面した。家族の経済的支柱であった父親が急死し、生活は一変した。スポーツ推薦での入学は授業料免除を意味するものではなく、入試科目に配慮があるだけ。家計は厳しい状況に陥り、音川さんは母親との話し合いの末、大学生活を継続するため、一時的に休部してアルバイトに専念することを決断した。相談を受けた佐藤監督と本山コーチはその決断を理解し、休部を認めた。本山コーチにとって、部員の父親が急逝した事例は初めて。特に自らがスカウトした1年生だけに、ハンドボールの継続以上に音川さんの大学生活そのものを心配しながら送り出したという。

 休部から約1年3カ月後、3年生に進級した4月のこと。本山コーチのもとに音川さんから「めどがついたから戻りたいです」と連絡が入った。経済的な問題に一定の解決策を見出し、ついにハンドボール部への復帰を果たした。佐藤監督や本山コーチ、そして部員たちから温かく迎え入れられた。「本山さんは意識的にそうしてくださったと思いますが、前と全く変わらず、久しぶりという感じもなく、戻ったその日から普通に、いい意味で厳しく接してくれました」。

「お前が戻ってきてくれてよかったよ」

  • 音川さんとの思い出を語った本山監督
    音川さんとの思い出を語った本山監督

 2003年度、学生生活最後の年、佐藤監督から本山監督へと引き継がれていたハンドボール部は、青森県で開催された第46回インカレに出場。名城大学は1回戦で東北福祉大学に31-19で勝利を収めたものの、2回戦では日本大学に18-30で敗退した。試合後、音川さんは「日大に負けて泣き崩れていた私のところに本山監督が来て、『お前が戻ってきてくれてよかったよ』と言ってくれました。すべてが救われたと思いました。今でも大切な人生最高の思い出です」。

社会人生活のスタートもハンドボールが縁に

  • インタビューで語る音川さん
    インタビューで語る音川さん

 2004年3月、名城大学を卒業した音川さんは京都の実家に戻り、アルバイトをしながらクラブチームでハンドボールを続け、2005年には奈良県選手団に選ばれて第60回国体に出場。チームには地元の工務店で働くメンバーが多く、「うちのチームで働きながらハンドボールをやれよ」と声を掛けられ、ハンドボールが取り持つ縁で工務店に入社し、社会人生活が始まった。

 そして、次第に営業の仕事に興味を持つようになった音川さんは、2007年12月、25歳で人材業界のベンチャー企業に転職。大阪支社で営業力を磨く中、1歳下の上司から指導を受けることに。工務店では70歳、80歳代のベテラン建築士が相手だった環境から、20代前半の上司が指示を出す職場へと移ったことで、これまでにない刺激を受けたという。

 

 音川さんの視線は次に外資系企業へと向けられた。「外資とはいえ、日本で働くのだから特段、英語が話せなくても」という軽い気持ちで2009年、産業機械を扱うホルビガー日本に入社。神戸営業所に配属され、初めてのグローバル企業で今度はマネジメント職に興味を抱くようになる。上司は中国・上海を拠点とするオーストリア人で、年齢はわずか1歳しか違わないにもかかわらず、アジア地域のビジネスを管轄し、4カ国語を操る人物だった。

 その上司は、毎朝電話をかけてきた。最初は何を言っているのか全く理解できず、じっと聞き続けるものの1ミリも理解できない日々。しかし彼は話した内容をメールで送り、「だいたいこういう概要のことを話した。明日までにこれを理解してくるように」と指示した。これが音川さんの英語学習の始まりとなった。毎日メールをプリントアウトして家に持ち帰り、辞書を引いて内容を理解し、翌朝また電話で話を聞くという繰り返し。スマホで簡単に調べることができる今とは異なり、地道な努力の積み重ねだった。

 2013年に日本ジョン・クレーン株式会社に入社した音川さんは、機械製品製造業界での新たなキャリアをスタートさせた。東京を拠点に勤務を始めたが、入社からわずか2カ月後、予期せぬインド出張を命じられた。音川さんが担当していた大手企業の役員と自社のエンジニアリングセンターとの間で行われる重要なプロジェクト会議への同席が目的だったが、技術的な知識がまだ十分でなく、業界用語にも慣れていない状況での大役。さらに、会議の議事録作成という重要な任務も任された。

 言語の壁や技術的知識の不足という障害に直面しながらも、音川さんは創意工夫でこの難題に立ち向かった。会議の全容を漏らさず記録するため、ボイスレコーダーを購入してすべての会話を録音。帰国便の機内で膨大な量のデータと格闘しながら、辞書を駆使して専門用語を理解し、議事録を完成させた。この経験は音川さんにとって忘れられない初めての海外出張となった。

ゴールへの階段の一つとしての転職

  • 卒業以来、久々にユニホームに腕をとおす音川さん
    卒業以来、久々にユニホームに腕をとおす音川さん
  • アジレント・テクノロジー(東京都八王子市)にて
    アジレント・テクノロジー(東京都八王子市)にて

 アジレント・テクノロジーは、食品、医薬品、化学など様々な分野のラボで使用される化学分析ソリューション等のリーディング・カンパニー。日本では東京都八王子市のJR北八王子駅前に本社を構え、社員約550人を擁する。音川さんは2024年8月に営業本部長として入社し、その後、日本法人の社長に就任。実はまだ社歴は1年に満たないが、グローバル企業での豊富な経験を持っている。「外資系企業を何社か渡り歩いていると、様々な人材エージェントとつながりができます。長くお付き合いしているエージェントから紹介されたのが入社のきっかけ」。海外の人事担当者とのオンライン面接や八王子本社での面接を経て採用が決定。その後、アジアパシフィック地域のトップの指名で、日本法人の社長に就任した。

 音川さんは「アジレント・テクノロジーはすでに日本国内で60年以上もビジネスを展開している歴史ある企業です。長年勤務している社員も多く、それは非常に大きな財産だと考えています。こうした強みを生かせるような組織運営を目指し、一歩ずつ着実に前進していきたいと思います」と今後を見据えている。

 自身のキャリアパスを振り返り、音川さんは「転職というステップが常に明確な目標に向かう手段だった」と語る。「私は転職することは悪いとは思いません。大切なのは自分に軸を持つこと」と強調する。「キャリアにおいて最も重要なのは、その選択が自分の設定した目標に近づくかどうかという点です。目標が明確にあって、転職によってそこに近づけるかどうか、そこを大きな判断基準にしています」。そして、これから社会に出ていく学生たちに次のアドバイスを送る。「学生の皆さんも、転職することで何を実現したいのかを考え、自分のゴールへの階段の一つとして転職が捉えられるのであれば、チャレンジしてほしいと思います」。

 社会人生活のスタート後、着実にキャリアを構築してきた音川さん。その仕事に対する姿勢や成功の裏側には、学生時代のハンドボール部での経験が少なからず影響しているようだ。チームプレーの重要性、困難に立ち向かう精神力、目標に向かって粘り強く取り組む姿勢。これらすべてが、今の音川さんのビジネスアプローチに息づいている。