名城大学都市情報学部都市情報学科卒
日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)
関西支社吹田機関区区長
1978年生まれ
伊藤 大介
2025.11.06
伊藤 大介
名城大学都市情報学部都市情報学科卒
日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)
関西支社吹田機関区区長
1978年生まれ

新橋~横浜間に鉄道が開通し旅客輸送が始まったのは1872(明治5)年10月14日で、翌1873年9月15日には貨物輸送も開始された。鉄道の歴史が150年を超す中で、物流輸送はトラック輸送が主流となって久しい。名城大学都市情報学部卒業生で、JR貨物関西支社吹田機関区区長の伊藤大介さんは、「地球環境問題を考えると鉄道輸送が再び物流の主役となる時代がきっと来る」と考え貨物鉄道の世界に飛び込んだ。2025年に開設30年を迎えた都市情報学部。伊藤さんは開設間もない3期生として誕生したばかりの新学部の歴史を切り拓いた世代でもある。
都市情報学部は1995(平成7)年4月、薬学部開設以来41年ぶり、名城大学6番目の学部として岐阜県可児市虹ヶ丘に開設された。学科は都市情報学科(入学定員200人)の1学科で、経済・経営、財政・行政、地域計画、開発・環境、情報処理の5つの専門部門が置かれた。阪神・淡路大震災(1995年1月)以降、復興対策や災害に強いまちづくりが大きな課題となった。地方分権の時代を迎え、「環境にやさしいまちづくり」など特色ある都市計画に取り組む自治体も相次いだ。全国で唯一の学部として誕生した都市情報学部にも「まちづくり」や「都市計画」を学びたいと入学してくる学生が少なくなかった。伊藤さんもそうした学生の一人だった。都市情報学部は開設時には259人の学生からスタートし、翌年には474人、3年目には697人へと着実に増加。4年生までがそろった1998年度には、総学生数が925人に達した。
伊藤さんたちが通った可児キャンパスは、名鉄電車広見線西可児駅から長い坂道を登った高台にあった。駅からのバスはなく割勘でタクシーに相乗りする3、4人グループの学生たちもいた。キャンパスは、到着すれば最終講義が終わるまで簡単には抜け出せない、"陸の孤島"でもあった。時間をかけて通学し、授業が終わればただ帰る学生生活。キャンパスに賑わいはなく、学生同士のつながりも希薄だった。
「陸の孤島」状態の可児キャンパスで、伊藤さんが仲間たちと取り組んだのは新聞発行だった。同級生3人とともに天白キャンパスに通い、「名城大学新聞」を発行する新聞会に入会し、新聞づくりのノウハウを学んだ。過去の「名城大学新聞」や、交換紙として届いていた他大学新聞の紙面構成、特集記事の切り口、レイアウト、写真の扱い方などについて学んだ。大学へのサークル登録に必要な部員15人を集め、「地域めでぃあ研究会」(2000年度からは「可児キャンパス新聞会」に改称)を発足させ、2年生だった1998年4月、「可児名城新聞」を創刊した。
創刊号では「自動車通学を考える」という特集記事を組んだ。学生の車通学は禁止されており、学生たちが団地内の路上に無断駐車し、住民とのトラブルが相次いでいたからだ。団地住民からは、学生たちによって捨てられるごみ、騒音、速度の出しすぎに対する苦情も上がっていた。伊藤さんたちは虹ヶ丘自治会長への取材も行い、一部学生の駐車マナーの悪さから、住民とのトラブルが起きている現状を特集記事にまとめた。
「可児名城新聞」では、引き続き通学問題でのキャンペーンが行われ、大学側に通学バスの充実を訴えつつ、大学側と団地自治会側との話し合いの進展について紹介した。第3号(1998年10月19日)では、初めて1年生から4年生までがそろって開催される「第4回大学祭」を特集。開催のニュースが載った記事に「虹ヶ丘に集GO!!」の見出しの付いた紙面をチラシとして印刷し、西可児地区で配達される各新聞に折り込んだ。
「可児名城新聞」では、地域の問題も取り上げた。可児市に近い御嵩町で起きていた産業廃棄物処分場建設の是非をめぐっては御嵩町役場に出向いて取材、柳川喜郎町長にもインタビュー取材した。「学内外の情報を掘り起こすことで交流の場ができたらと思いました。その後、学内に駐車場が整備され、通学バスの運行も始まり、最初は険悪で煙たがられた地元自治会の方々にも通学中に声を掛けていただけるような関係になり、やって良かったと思いました」。伊藤さんは「可児名城新聞」発行に取り組んだ学生時代を懐かしそうに振り返った。
伊藤さんは、都市計画、交通計画、GIS(地理情報システム)が専門の吉川耕司助教授(後に大阪産業大学学長)のゼミで学んだ。卒業論文では、4年生だった2000年9月に名古屋市とその周辺を中心に大きな被害をもたらした東海豪雨災害についてまとめた。伊藤さんの自宅も床下浸水したという集中豪雨を、GISでの地形の高低差データに着目して分析した。
卒業後は土木コンサルタント会社への就職も考えたが、ゼミで学んだ交通計画などの研究をさらに深めたいという思いもあり、吉川助教授にも相談し、名古屋工業大学大学院への進学を選んだ。博士前期課程都市循環システム工学専攻だ。研究室では、「集中豪雨時の広域的道路交通解析と帰宅行動意識および対策検討」という論文をまとめた。東海集中豪雨で鉄道が止まり、タクシーを使っての帰宅の際、同じ方面なのに、1時間で帰れたケースもあれば、2時間、3時間もかかったケースもあった。伊藤さんらはそれぞれのタクシードライバーが選択した走行ケースの分析に取り組んだ。
名古屋工業大学大学院を2003年3月に修了した伊藤さんは、日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)に入社した。旧国鉄は1987(昭和62)年の分割民営化に伴いJRグループとして地域別「旅客鉄道会社」6社と全国管轄「貨物鉄道会社」1社に分割された。その1社が日本貨物鉄道株式会社で、本社(東京都港区)のほか、北海道、東北、関東、東海、関西、九州の6支社がある。
伊藤さんは、大学や大学院時代に交通計画について学んだ際に、鉄道での貨物輸送について専門的に学ぶことはなかった。しかし、道路を主体とする分野と違った鉄道輸送は、それはそれで面白そうだなという興味もあった。今はトラック輸送が主流だが、二酸化炭素排出規制が大きな課題となっている地球環境問題を考えたとき、鉄道貨物輸送は将来きっと再び主流になるはずだし、そうすべきだと考えて入社を決めた。
総合職として入社した伊藤さんの仕事は、貨物列車の運行計画やラインナップ計画など、鉄道貨物輸送全体を見据えたものだ。そのため、まず現場での実務を経験する必要があり、東京本社での研修後、関西支社の大阪貨物ターミナル(摂津市)に配属された。
貨物駅には日本通運などの大手や地場の利用運送事業者がトラックでコンテナ貨物を持ち込み、列車はダイヤに合わせて東京や札幌方面へ出発する。伊藤さんは、積載するコンテナの大きさや数量の調整、安全な積載状態の確認、ICタグ情報と貨車位置の照合などを担当。状況に応じて別便への振り分け対応も行うなど、現場判断が求められる重要な業務だ。
大阪貨物ターミナルでの1年勤務を終えた伊藤さんは、岡山機関区で貨物列車の運転士となった。東京の全寮制養成所で法規や車両知識を学び、見習い期間を経て、愛知万博閉幕前に国家資格「動力車操縦者運転免許」を取得。正式な運転士として岡山を拠点に大阪・広島・四国方面を走った。
初めて瀬戸大橋を渡った際には強風による運転中止の可能性を告げられ、一人で仕事をする不安と責任の重さを実感したという。伊藤さんは当時を振り返って以下のように語った。「あそこは結構風が吹くんです。正式に運転士となってすぐ、運転管理を担う指令から無線が入り、強風基準値になり止まるかも知れないと言われました。不安が強まり、一人で仕事をするっていうことはこういうことなのだと思いました。学生の頃、運転士になるなんて思ったことすらなかった。眼下に広がる島々や海原をみながら、大きな責任感を背負った仕事をしているのを実感しました」
伊藤さんは関西支社管内で2年間の現業勤務を終えて、2006年から東京の本社で、「鉄道ロジスティクス本部」勤務となった。営業、車両メンテナンス、ダイヤを作る部門などを束ねた部署で、機関車、車両、運転士をいかに効率的に運用するかも重要な仕事だ。新しい車両が出来ると、実際の性能についての査定もした。北海道新幹線が本州から新函館北斗駅まで開通したのに伴い、2016年3月からは新幹線と貨物列車の共用走行が開始されたが、貨物列車を牽引するために開発中の機関車の性能測定、新幹線と同じ保安装置での新たな対応試験も行った。
2017年、本社勤務から北海道支社の五稜郭機関区(函館市)の区長に着任した。伊藤さんは入社翌年に結婚、奥さんと子供3人の家族は都内の社宅に残して初の単身赴任だった。そして2018年9月6日午前3時7分、最大震度7の北海道胆振(いぶり)東部地震に遭遇。日本で初めてとなる北海道エリア全域におよぶ大規模停電(ブラックアウト)も発生した。伊藤さんはアパートから徒歩15分ほどの機関区に向かった。運転士を中心に100人を超す職場も停電していたが、小規模ながら発電機を使い通信を確保した。しかし、停電は予想以上に長引いた。
「テレビも見られず、携帯電話も充電できず、情報が得られない地域の住民は不安でいるに違いない」。機関区周辺の住宅地住民たちとは普段接点はあまりなかった。騒音などで迷惑をかけていないかと気にはなっていたものの、地域と交流するきっかけや機会は少なかった。
伊藤さんは機関車を利用して発電し、住民向けに充電スペースを提供することを思いついた。地震による影響で使っていない機関車があり、エンジンをかければ発電できる。それで携帯電話の充電ができるはずだ。「スマホの充電ができますよ」という機関区の呼びかけに、予想したとおり住民たちの利用が相次いだ。
大学入学前の阪神・淡路大震災、学生時代の東海集中豪雨、JR貨物入社後も東日本大震災を経験してきた伊藤さんは北海道の地でも大きな災害を体験した。
五稜郭機関区での2年半の勤務後、伊藤さんは本社で4年半勤め、2024年から関西支社・吹田機関区の区長に就いた。吹田機関区は全国最大規模で、運転士や整備担当など約230人が働いている。
区長室には、かつての機関車「EF66 1」のナンバープレートなど鉄道ファン垂涎の品が飾られており、同区が旧国鉄を代表する電気機関車EF66形の配置先だった歴史を物語る。2025年8月に名城大学より一足先に開設100周年を迎え、それを記念し、地元への感謝を込めた見学会と愛好家向けの撮影会を開いたという。
伊藤さんがJR貨物に入社して23年。「トラック輸送に比べれば貨物輸送の方が環境にもやさしい。それに、労働時間の上限が話題になった『2024年問題』もありますよね。
貨物鉄道をご利用いただくことで、そうした課題の解決にもつながります。貨物鉄道が“さまざまな社会課題を解決する手段”として選ばれるように、そういう思いを込めて日々の仕事に取り組んでいます。将来の目標は、中距離輸送をトラックから鉄道へのモーダルシフトを推進し、社会に貢献できる”総合物流”や”モーダルコンビネーション”の実現です。もちろん、トラック輸送とは競合する部分もありますが、実際にはトラックがなければ貨物鉄道の事業は成り立ちません。工場から駅まではトラックで運んでいただかないといけません。ですから、必ずしもライバルというわけではないんですね。2024年問題への対応としても、私たちは『不足するトラック輸送の受け皿として長距離・中距離を貨物鉄道が担い、駅から先をトラックが担う』という形を描いています。それぞれの強みを活かして、持続可能な物流を実現していきたいと思っています」と伊藤さんは語る。
伊藤さんは開学100周年で名城大学が掲げるスローガン「REALIZE」(実現)についての自身の実感を問われ、「まだまだ何かを成しえたという実感はありませんが、今は安全な鉄道を未来につなげることを実現したいと日々願いながら仕事に励んでいるところです。その結果、貨物鉄道が未来の日本になくてはならないものになればと考えています」と語った。
伊藤さんたちが学び、「可児名城新聞」を発行した可児キャンパスは2017年4月、名古屋市東区のナゴヤドーム前キャンパスへ移転した。可児キャンパス時代を知らない後輩学生たちへの伊藤さんのメッセージだ。
「私は大学4年間で密度の濃い時間を過ごすことができました。名城大学は東海地区で最も規模が大きく学ぶ分野も多岐にわたっていて、私はそこでいろいろな出会いを経験しました。きっと他の卒業生や在学生もそう感じていると思います。卒業してからもスポーツの分野や研究の分野で名を馳せ、特にノーベル賞受賞の知らせを遠い地で聞いたときは、自分は受賞に全く関係ないにも関わらず我がことのように嬉しくなりました。こんな〝集団〟は他にはないだろうと思います。その〝集団〟の一人として私もいられることに価値を感じています」