REALIZE Stories 社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語。

2026.05.11

紙の力で支える伝統産業

もりかわ えみこ

森川 江美子

名城大学理工学部電気電子工学科卒
モリカワペーパー株式会社代表取締役社長
1978年生まれ

 名古屋駅周辺の高層ビル群から15分ほどの徒歩圏内ながら下町風の商店街や町工場も多い名古屋市西区菊井町界隈。この地に1922(大正11)年に創業した合紙会社の5代目社長である森川江美子さんは理工学部電気電子工学科を卒業した。就職氷河期の寒風にさらされた同世代が多い中、理工学部で身に着けた「考える力」「数字は怖くない」という自信が家業を継いでからも大きな支えとなった。卒業後25年。紙業界には「ペーパーレス」という逆風が吹くが、「デジタルの時代でも紙の魅力や存在感が失われることはない」と信じている。学生時代に出会った夫で専務の聡宏さん(農学部卒)と二人三脚での「モリカワペーパー」の挑戦に、5人の子どもたちもエールを送っている。

父の急死で継いだ5代目社長

  • 西区菊井にあるモリカワペーパー株式会社
    西区菊井にあるモリカワペーパー株式会社

 「合紙」は、紙の強度や厚みを増すために、接着剤で紙と紙を貼り合わせる加工技術だ。森川さんの曽祖父が大正11年に合紙会社を創業した西区菊井町付近は戦前から地場産業に関連する工業や商業の盛んな地域だった。木材産地にも近い愛知県では紙加工業も盛んだった。合紙会社創業翌年の1923(大正23)年には関東大震災が発生。打撃を受けた東京の菓子業界から多くの職人が名古屋に流れ込んだ。西区の明道町に日本有数の菓子問屋街が生まれ、包装資材として紙の需要も高まったという。

 合紙会社の経営は曽祖父から祖父の兄へ。戦後になってからは祖父、父へと引き継がれた。社名も「株式会社森川合紙所」を経て「株式会社モリカワ」に変わった。2010年、急死した父に代わって一人っ子だった森川さんが5代目社長を継いだ。森川さんは2001年3月に名城大学を卒業し、大手紙商社である平和紙業株式会社に入社し、紙の種類や特性を学んだ。紙の専門知識、営業や経理スキルを認定する「紙営業士」の資格も取得した。将来的には家業を継ぐことになるだろうと2005年に父親が社長の会社に入社したが、経営者としてのバトンタッチは突然にやってきた。

 長年支えてくれていた工場長夫妻の助けで、会社の経営を止まることはなかったが、「31歳の時で、長男は生まれたばかりの7ヶ月の時だった。8人ほどの社員もいた。家業をつないでいかなければという思いで精一杯。ただ必死だった」と森川さんは振り返る。

ノーベル賞受賞者に学んだ誇り

  • 森川さんが所属した理工学部電気・電子工学科 河村(英)・河村(一)・山中・鳥居グループ(卒業アルバム2001より)
    森川さんが所属した理工学部電気・電子工学科 河村(英)・河村(一)・山中・鳥居グループ(卒業アルバム2001より)

 森川さんは名古屋市立北高校から1997(平成9)年に名城大学理工学部電気電子工学科に入学した。約200人の入学者のうち女子は8人だけ。エレクトロニクスの時代がどんどん進化していく予感があった。元気だった父は、「自分の好きなことをやっていい。家を継ぐ必要もないから」と背中を押してくれた。

 理工学部で学んだ大きな誇りは、赤﨑勇、天野浩という後のノーベル賞受賞者たちの授業を受けたことだ。「赤﨑先生の授業は高度だった。助教授だった天野先生は若くて、やさしく教えてくださった。赤﨑先生は尊敬すべき先生、天野先生は親しみのある先生でした。お二人がノーベル賞を受賞された時は、思わず、〝私、授業を受けたのよ〟って、みんなに胸を張っていました」。

 理工学部は成績判定も厳しく、4年で卒業できない留年者も多かったが、森川さんは2001年3月、4年間の学びを終えた。就職氷河期の真っただ中ではあったが、21世紀初の新卒社会人として新たなスタートを切った。入社した平和紙業時代、家業を継いでからも、理工学部での学びは大きな支えになった。計算や設計など、数字を扱う場面が多いモノづくり現場。学生時代に培った「数字は怖くない」という自信と、「分からなかったら分かるまで聞く」という姿勢が、大きな強みになったという。

二人三脚で模索した経営戦略

  • 森川さんらが参加した大学祭の様子
    森川さんらが参加した大学祭の様子

 社長である森川さんを専務として支えている夫の聡宏(あきひろ)さんは愛知県立蒲郡東高校出身で、2000年に名城大学農学部農学科を卒業した。森川さんより1学年上だが、大学祭実行委員会の活動を通して、国際文化交流サークルのメンバーとして大学祭に参加した森川さんと知り合った。卒業後は豊川市の実家の造園業を手伝っていたが2006年、森川さんとの結婚を機に、株式会社モリカワに入社した。

 聡宏さんにとって、紙業界も経営の世界も未知の分野だった。「最初の2年くらいは、何も分からないまま、日々の業務をこなす毎日でした」と暗中模索が続いた。そして、突然やってきた森川さんの父親の死去に伴う経営のバトンタッチ。森川さんも育児や家事に追われていた。聡宏さんは入会したばかりの愛知中小企業家同友会を頼り、森川さんとともに経営の方向性を模索した。

 父親から経営を引き継いだ当時、受注の主力だったパチンコ台の仕事の注文が急激に落ち込んでいた。パチンコ産業が盛んな愛知県はパチンコ台メーカーが多い。パチンコ台には人気キャラクターが印刷されたフィルムを張り付けるための合紙を使った台紙が必要だ。フィルムが透けないよう台紙を貼り付ける仕事が、株式会社モリカワの仕事だった。パチンコ台の仕事は祖父の代から受注の主力で、森川さんは社長になってからも子どもを背負って納期に追われながら作業を手伝っていた。

 しかし、パチンコ産業の衰退は2008年のリーマンショックの影響もあり急激に進み、受注は落ち込んでいた。最盛期には売り上げの半分以上を占める時期もあったパチンコ台に代わる仕事の発掘が急務だった。印刷会社や紙卸商からの発注を待つ受け身の仕事からの脱皮も迫られていた。

 森川さんと聡宏さんが、愛知中小企業家同友会からのアドバイスを得て取り組んだのは、会社を紹介するホームページを開設して始めた営業アピールだった。大きな会社ならともかく、自社ホームページを持つ町工場はまだ少ない時代だった。

 ホームページの効果は着実に表れた。ホームページで知ったという人気デザイン専門誌の記者が取材に訪れ、株式会社モリカワの技術力を紹介する記事を掲載してくれ、新たな注文が舞い込むようになった。パチンコ台に代わる商品群は、やはり東濃や瀬戸などの地場産業でもあるタイルの見本を貼り付ける台紙、お灸を使用する際に使う台紙、さらには自分らのアイデアも盛り込んだボードゲームの製造やデザインなど多彩だ。

「紙と加工でごきげんな生活をつくる」

  • モリカワペーパー製造のCN2050 〜脱炭素ボードゲーム〜ver2.0
    モリカワペーパー製造のCN2050 〜脱炭素ボードゲーム〜ver2.0

 2023年10月1日、「株式会社モリカワ」は「モリカワペーパー株式会社」に社名を変えた。「紙」を軸にした会社であることを、より分かりやすく伝えたいという思いからだが、同時に、単なる加工会社ではなく、自分たちの価値を発信していく会社へと進んでいきたいという意思も込めての社名変更だった。

 時代とともに移り変わってきた受注内容について森川さんは、「高級和菓子の箱材の一部、お灸の台紙、回覧板、高級ホテルの紙メニューなどの仕事は今でもやっていますが、喫茶店ではQRコードから注文する時代になった。電車内に掲示される広告の注文も少なくなりました。祖母の時代には紙でサンバイザーのような帽子を作ったこともあったそうですよ」と振り返る。

 新社名の名刺には「紙と加工でごきげんな生活をつくる」のキャッチコピーも書き込んだ。自分たちの仕事が単なる製造ではなく、紙の持つやさしさや温かさを通じて、日常の中に、少しでも「ごきげん」な瞬間を増やしたいという思いが込められている。

 最近の人気商品の一つが脱炭素をテーマにした自社商品でもあるオリジナルのボードゲームだ。2022年に最初に初版をつくり、バージョン2も出している。環境問題のようなやや硬いテーマも、遊びながら自然と考えられる形にできないかという思いから生まれた。電子ゲームと違って、顔と顔を突き合わせて遊ぶ楽しさもある。大学の研究者とも連携しながら開発を進め、教育現場などでも活用の輪が広がり、ヒット商品となった。大学生たちにも人気だ。

 森川さんは「紙という素材を通して、社会的なテーマにも関われることは、私たちにとって新しい可能性だと感じています。今後も、遊び心のある紙加工会社として、モノづくりの幅を広げていきたい」と語る。

 二人とも、ペーパーレス、デジタル化が進む時代だからこそ、紙の持つ質感や存在感の価値は高まっていると感じている。ボードゲームなど自社商品を通して、紙の新しい可能性を形にしていきたいというのが二人の思いだ。

「楽しく働く姿」見せたかった子育て

 森川さんは「モリカワペーパー」の今後について、「もちろん続けます。5人の子どもたちは他にやりたいことがあればやってもらって構いませんが、だれかしらが関わってくれればうれしい。紙がなくなることはないと思いますし、子どものアイデアって面白いですから」と語る。

 子どもたちは小さい頃から紙の中で育ってきた。端材を使って工作をするなど、自然と紙に親しんできた。高2の長男、中3で双子の長女、二女、中1の二男、小5の三女。母親と祖母に助けられながらも基本的には保育園で育ってきた子どもたち。これから受験期を迎えるが、長男も部活がない日は家事を手伝ってくれるし、双子姉妹も夕食を作ってくれる。家事の時間帯には仕事から抜ける森川さんだが、聡宏さんは会社の実務をしっかり守ってくれ、子どもたちの勉強の面倒も見てくれる。「私は一人っ子で、愛情をたくさん受けて育ったという自覚があります。だからこそ、子どもが5人いても、それぞれに寂しい思いをさせないこと、楽しそうに働く姿を見せることが役割だと考えてやってきました」。

 従業員は11人。森川さんの名城大学理工学部時代の同級生である友人も事務職としてずっと一緒に働いてもらっており会社にとってなくてはならない存在だ。森川さんは、職場に自由に水が飲めるペットボトルを用意するなど従業員たちの健康を「母の目線」で気遣う。若い従業員たちには風通しのいいコミュニケーション作りを心がけている。

時代を読み時代に乗る力

 「私たちのような仕事は、時代を読んで、時代に乗っていかないと回っていきません。車とか建築の仕事が1年のスタンスだとしたら、私たちは2週間先の仕事がわからない。急に仕事が入ってきて、〝あさってまでに〟と言われたりする。それの積み重ねなんです。ほかの経営者からすると、〝よくそんな仕事を引き受けるな〟と思われるかも知れない。でも、それでずっとやってきた」。森川さん、聡宏さんは二人三脚での日々をこう語る。

 森川さんにとって、日々の仕事を支えているのは、学生時代に学び、鍛えられた「考える力」でもあるという。「理工学部での勉強は難しかったが、頑張って単位をとって、乗り越えようとする力がついた。分からないことは直ぐに聞く姿勢も。赤﨑先生には聞けませんでしたが天野先生には親切に教えてもらいました」と笑顔が弾けた。

 開学100周年を迎えた母校。森川さんから後輩学生たちへのメッセージだ。

 「学んだことは、職種が違っても必ずどこかで役に立ちます。大切なのは、何を学んだかよりも、どのように考える力を身につけたかだと思います。最初から正解を選ぼうとしなくても大丈夫です。興味を持ったことに一歩踏み出してみることで、そこから道が広がっていくこともあります。学生時代に得た経験や人とのつながりは、あとになって大きな力になります。ぜひ今を大切に過ごしてほしいと思います」