名城大学理工学部建設工学科建築分科卒
仙台市子ども会育成会連合会会長
1949年生まれ
石原 修治
2026.08.21
石原 修治
名城大学理工学部建設工学科建築分科卒
仙台市子ども会育成会連合会会長
1949年生まれ

日本初の国際博覧会である大阪万博が開催されたのは1970年。建築学科(当時は建設工学科建築分科)3年生だった石原修治さんは吹田市千里丘陵の会場に3度足を運び、一流建築家たちが手掛ける建築物に「建築とは、建物だけでなく空間を含めて街と一体なのだ」と強い衝撃を受けた。名古屋市生まれだが東京本社の組織設計事務所に就職して仙台支店勤務となる。東日本大震災(2011年)後、復興業務に追われた時期もあったが、大半は東北地方の病院や学校など公共施設の建築に関わり、2026年3月、喜寿(77歳)を迎えたのを機に退職した。設計の仕事とともに「杜の都」で過ごした54年間。石原さんは「仙台は定禅寺ストリートジャズフェスティバルなど大好きな音楽文化が似合う街。年に一度の女子駅伝部の応援では母校からエネルギーをもらっています」と語る。
学生生活をスタートさせたのは1968年4月。天白キャンパスは開設されて4年目だった。移転するまで過ごした駒方キャンパス(名古屋市昭和区駒方町)時代の思い出を語る先輩たちもいた。
石原さんたち団塊世代にとって、大学入試は狭き門の時代だった。「地元の国立大学を落ちたので」など、全国各地から学生が集まっていた。愛知県立瑞陵高校卒業の石原さんも地元国立大に挑み一浪しての入学だった。
学生生活では、好きだった漫画やデザイン関係のサークルを探したが休眠状態で、浪人時代に通った名古屋YMCA予備校との縁で、キャンプリーダー活動に打ち込んだ。YMCAの青少年向けの社会活動だ。
学生時代を過ごした1968年から1972年は、東大を始め、全国で学園紛争の嵐が吹き荒れた時代。名城大学でもキャンパスには、政府が制定を進めていた「大学の運営に関する臨時措置法」の成立を阻止しようと、「大学立法粉砕」などの立て看板が立ち並んだ。『名城大学新聞』にも「法学部一部封鎖さる!」(1969年6月5日)など、キャンパスの緊張を伝える見出しが踊っている。石原さんも、「べ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」の略)のデモに参加した。「なんでも体験してやろうという高揚感があり、栄に大勢の若者が集まった。デモ隊列は女子が真ん中、左右は男子。規制にあたる機動隊が現れた時はドキドキしました」。
大阪万博は戦後25年目にして日本で初めて開催された日本万国博覧会。建築を学ぶ学生たちにとっては、あこがれと夢のステージで、石原さんも絶対に行くと決めていた。開催中に3回足を運んだが、その迫力と存在感に圧倒された。とりわけインパクトを受けたのは、シンボルゾーンの中心に位置したイベント会場「お祭り広場」だった。巨大な大屋根。円形の穴を突き破るような岡本太郎がデザインした「太陽の塔」。建築家・丹下健三が手がけた未来的な都市計画と、芸術家・岡本太郎のエネルギーが融合した、熱気あふれる空間だった。
「建築とは、ただ物を入れるだけではなく、街と一体となったもの、空間そのものをデザインすることなんだとすごく感動した。ガラスでできたスイス館も通常ならとても考えられないような建物で衝撃だった」。友人たちと駐車場で夜を明かし、朝一番で並んで入場した万博。それは一流の建築家たちがどういうコンセプトで物を造っているのかを実感するすごい体験だった。石原さんは、改めて、「建築で生きていくんだ」と決意を固めたという。
1972年3月に名城大学を卒業した石原さんは東京が本店で全国に支店を構える岡建築設計事務所(後の岡設計)の仙台支店で仕事をスタートさせた。名古屋支店もあったが、一度は名古屋以外での生活を体験したいと思い、名古屋以外の初任地を希望したところ仙台支店への配属が決まった。
入社4年目のころ、石原さんは、「海外を歩いて建築の勉強をしたい」と、2カ月間の休職願を出してヨーロッパを一人旅した。ユースホステルに泊まり、鉄道を乗り継いで、イギリスから北欧へ陸続きのヨーロッパをほぼすべて回って建築の巨匠コルビジェやアルバー・アアルト、ガウディーのサクラダファミリアなどの建築を見て回る旅を続けた。
岡設計仙台支店はその後、分社、独立して仙台を本社とする会社となり、1996年には、「株式会社関・空間設計」となった。建築設計の全プロセス(意匠・構造・設備・都市計画など)を、それぞれ専門チームを組んで組織的に行う大規模な「組織設計事務所」としての再スタートだった。生まれ変わった社名の「空間設計」は、建築だけでなく環境も含めた空間そのものを設計するという決意を示したものだ。
「関・空間設計」が手掛ける事業は、「岡設計」時代と同様に受注の7割を公共事業が占める。「技術力とデザイン力」を掲げ、東北地方の学校、病院、庁舎、中央卸売市場、火葬場などの設計を受注し続けた。石原さんの担当は設計中心の部署から企画部署に移り、77歳で退職するまで企画本部長を務めた。定年の60歳で退職金が支給されるが、希望すれば再雇用され、給料もポストも変わることなく働き続けることができた。石原さんのように、1級建築士、設備設計1級建築士といった国家資格を持つ社員は会社にとって欠かせないからだ。石原さんは、東北地方の市長や町長、それぞれの部署の役職者たちと人脈を広げ、交流を深めながら、各自治体の新たな公共施設の実現をサポートしてきた。
東日本大震災が発生した2011年3月11日午後2時46分、石原さんは、仕事の打ち合わせのため、福島県寄りの宮城県角田市役所に向かって車を走らせていた。突然車がガクンガクンと揺れ出した。とても真っすぐに走っていられない状態だった。携帯電話の警報が鳴り出した。車を止めると、道路沿いの家々から次々に人が飛び出してきた。たどり着いた角田市教育委員会では、「亀裂が入って危ないから全員庁舎から出て」と避難の真っ最中で打ち合わせどころではなかった。
仙台市に帰る道も信号は全て止まっていた。家族の安否を確かめるにも携帯は全くつながらない。やっと神奈川県に住む兄(北里大学医学部教授だった石原和彦氏)と携帯が通じ、仙台の家族に自分が無事であることを伝えてもらうよう頼んだ。家族と直接連絡が取れたのはそれから3時間後だった。
仙台駅近くのビル9階にある会社は、オフィスのキャビネットは全部倒れ、けが人はいなかったが崩れ落ちたファイルや書類で足の踏み場もない状態だった。その日のうちに何とか自宅にたどり着き、やっと家族全員の無事を確かめることができた。翌日、会社では対策本部が立ち上げられた。社員たちの安否確認作業を行いながら、遂行中の業務をどうするか、それぞれの担当ごとに連絡を取り合った。通常業務はいったん取りやめることを決めた。
「関・空間設計」には同業他社と同様に、宮城県建築士事務所協会経由で宮城県と仙台市からの「被災建築物応急危険度判定」の仕事が飛び込んできた。被災した建物の安全性を判定する調査で、赤(立ち入りが危険)、黄(使用に注意が必要)、緑(当面は安全に使用できる)の3段階で色分けしたステッカーを建物や敷地に張り付ける作業だ。担当地域ごとにチームが編成され、宮城県内の被災地に出向いての判定作業が始まった。
石原さんは仙台市と女川町を回った。石巻市に隣接する女川町に押し寄せた津波の高さは19メートル近くに達し、港周辺の商業施設や公共施設のあったエリアは瓦礫の町と化していた。鉄筋3階建て町役場庁舎も濁流に襲われ、無惨な残骸をさらしていた。津波が来なかった所の建物は残っていたが、敷地が崩れるのを防ぐ擁壁が壊れていた場合、建物に影響が出るケースも多く、赤紙を張らざるを得なかった。ガソリンが被災地に届かず不足している中、宮城県からガソリンスタンドを優先的に利用できる許可証が配られ、車で移動しながらのステッカー張り作業は3カ月続いた。
判定作業の次の仕事は学校、役所関係など公共施設の震災補修設計調査のクラック(ひび割れ)調査だった。クラックの長さが何メートルあるか、一カ所ずつ写真を撮り、工事用図面に落としていく。補助金にも影響するため、「写真が足りない」と追加を求められ、現場に再度足を運んで撮影を仕直したケースもあった。
毎日、毎日、スケールとカメラを持っての仕事が続いた。「これが建築家の仕事か」と気が滅入るときもあった。そのたびに、前に向かわせたのは「やらなければという建築士としての使命感だった」と石原さんは当時の日々を振り返る。会社の業務が通常に戻るまで1年はかかった。もとの仕事に戻ってからも、クラック調査などの依頼があれば、引き受けなければならず、プラスアルファでの残業を強いられた。
名城大学校友会東北支部には東北6県で506人(2010年度)の会員が登録されていた。支部長の野神修さん(故人)が作成した東日本大震災での安否確認表によると、岩手、宮城、福島3県の沿岸地区で安否が心配される卒業生が70人近くいた。野神さんの呼びかけで支援活動が繰り広げられた。石原さんも野神さんの要請で、気仙沼市に出向き、被災した卒業生たちに校友会本部からの義援金を届けた。
気仙沼市大島の復興支援では、名城大学の学生たちが名古屋から夜行バスで乗り込み、瓦礫撤去を行なったのを皮切りに、何度も支援活動に取り組んだ。震災後初めて迎えた師走の12月3日には、避難場所にもなった大島小学校で、名城大学管弦楽団の激励演奏会が開かれ、野神さん、石原さんたちも駆けつけた。石原さんは奥さんの俊子さんらと子ども会活動の一環として続けている和太鼓演奏で被災者たちを励ました。
石原さんは震災翌年の2012年から2019年まで、野神さんのあとを継いで校友会東北支部長を務めた。名城大学校友会の理事、東北・北海道ブロック理事も2025年度まで歴任し、東北支部では現在も監査、事務局長として活動を支え続けている。
東北支部の活動で大きな柱となっているのは、2005年から「杜の都駅伝」として仙台市で開催されている全日本大学女子駅伝対校選手権大会での母校応援だ。名城大学は2005年の第23回大会で初優勝。2017年の第35回大会から2023年の第41回大会まで大会史上初の7連覇達成の偉業を成し遂げた。秋の「杜の都駅伝」のたびに、応援のために大学関係者、校友会関係者たちが仙台を訪れるようになった。東日本大震災のあった年の10月に開催された第29回大会では、選手たちは「特別な年だからこそ仙台を走り、被災された皆さんにエールを送りたい」と走り抜いた。
東北支部主催の選手激励会では、石原さんも2003年に仲間たちと結成した中南米音楽バンド「ロス・ノンベダス」を率い、参加者たちにフォルクローレの演奏を楽しんでもらっている。「杜の都駅伝のおかげで東北各地の校友たちが仙台に来てくれ、つながりが生まれた。卒業生たちが一つになれる機会が年に一度、必ずあるというのは素晴らしいことです」と石原さんは語る。
石原さんは、長年にわたり建築の仕事を続けてこられた原動力を、「多くの人と関わって完成を目指す建築、モノづくりが好きだったからかな。出来たものが地域や街並みに美しく馴染んでもらえたら最高ですから」と語る。これまで手掛けた仕事の中で、設計面で特に印象に残る仕事の一つが、設計担当としては最後の仕事となった宮城県栗原市からプロポーザル(提案)を受けて取り組んだ栗原中央病院新築プロジェクト(2002年完成)だという。病院という冷たいイメージではなく、「公園の中の病院」というコンセプトを提案し、応募10社によるプレゼンを経て石原さんの提案が採用された。
企画担当に移ってからの仕事で胸を張れるのは仙台市のプロポーザルで受注した仙台市の泉ヶ岳という山に造った「泉ヶ岳自然ふれあい館」(2014年7月開館)だ。小学5年生が野外活動に使う山の家で、「地域に育まれた文化、人情、自然や環境を生かして、そこにしかできない建物にしたかった」。
「関・空間設計」では、東日本大震災を体験した2011年以降、社員が希望すれば仕事を離れて好きな旅行ができる「研修制度」を実施している。1週間、2週間、10日間と自分なりに仕事をコントロールし、行きたい所に行ける制度だ。15万~20万円の補助金が出る。自分で企画して報告書を出すだけでいい。東日本大震災後、仕事がひっきりなしで、十分に休みが取れなかった社員たちに、収益を還元する狙いもあった。
石原さんも、ペルーの山岳都市マチュピチュに行ったし、スペインのサグラダ・ファミリア、アンコールワット、北欧にも行った。社員として最後の研修先に石原さんが選んだのは海外ではなく、2025年の大阪・関西万博と広島だった。研修報告書の書き出しだ。
「1970年(昭和45年、大阪万博が日本で初めて開催されました。当時21歳の建築学科の学生だった私にとって、夢のような、刺激的でワクワク・ドキドキする体験でした。あれから55年。日本が、世界がどんな変化を遂げて、これからどうなっていくのかを考えて、今後の企画業務に役立てるために、大阪・関西万博を研修先としました。仙台の個性を生かした発展に寄与すべく研修としました」
石原さんが奥さんの俊子さんとともに万博会場に出向いたのは6月。学生時代に体験した感動とは違い、55年の歳月を経た年齢相応の印象だったという。「55年間にいろいろな建築を見てきたし、経験してきたこともあり、衝撃、刺激というほどではなかった。それより、暑かったとか、全部スマホでないと入るのも、空いているところを探すのも大変で、年寄りにやさしくない万博だと思いました」。石原さんは苦笑交じりに語る。
長男、次男の小学、中学時代にPTA会長などを経験し、地域の子ども会育成会の会長をした縁もあり、現在は仙台市子ども会育成会連合会会長を務める。子ども会は今、少子化と夫婦共働き、習いごと、塾等の価値観の多様化で全国的にも会員の減少という課題を抱えているという。
100周年を迎えた母校への石原さんからの注文と学生たちへのメッセージだ。「地方の校友会はどこも若い会員が減っています。私たちが学生時代には、全国各地からいろんな学生が集まり、そこから湧き上がるエネルギーがありました。今後とも全国に根を張る母校であってほしいと思います。学生の皆さんは、いろんなことにどんどんチャレンジしてほしい。だめならやり直しができるのですから」。