名城大学通信 45 [2013 spring]

名城大学通信 45 [2013 spring] page 21/40

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名城大学通信 45 [2013 spring]

せいせいこう3・11後の光景に絶句由緒ある名城大学Dayに講演の機会を与えていただいてありがとうございます。先ほど中根学長から説明がありましたが、昨年3月11日の東日本大震災で、大学がこういう大きなイベントを中止し、大学ぐるみでさまざまなサポートをしたというのは、おそらく全国の大学でも例がないのではないでしょうか。私は3月11日の後、レポーター的な役割で福島県南相馬市に入りました。3月21日でしたから、被ばく状態がどうなっているかよくわかりませんでしたが、ガイガーカウンターというか線量計を持ち、飯舘村を横切り、相馬市から南相馬市に入りました。そのあと飯舘村に2回ほど入りました。中根学長は未曾有の震災とおっしゃいました。私も戦後生まれですから戦争を知りませんが、戦争とは違った意味で、私の60年ちょっとの歴史でも体験したことのない光景を見て絶句しました。吊り橋の上に立つ日本夏目漱石は熊本県の旧制高校、今の熊本大学で英語を教えていました。私の高校はその隣にある熊本県立済々黌高校です。今年の夏の甲子園大会では何とか頑張ったのですが、大阪桐蔭高校に負けてしまいました。私も野球部におりまして、勉強がきらいで野球ばかりやっていました。漱石の弟子に、寺田寅彦という有名な物理学者がいます。この人が「天災と国防」という本を書いていますが、この中で、日本の国は、ちょうど吊り橋の上に、立っているようなものだと書いています。社会が複雑になり、巨大な有機体になると、どこかで一つ事故や何かが起きると社会全体がゆらいでくる。むしろ単純な社会ほど、つまり、あまり発達していない社会ほど震災に強い。寺田寅彦は今のリスク社会をしっかりと見ていた人です。いうまでもなく、関東大震災の経験がありました。あれから89年。この名城大学は86年と聞きましたが、関東大震災から数年たってこの大学が創立された。そういう中で3月11日という、大変な事態が起きた。名城大学がこれに対して、大学ぐるみで対応したというのは本当に称賛すべきことだと思います。この名城大学の歴史の中に、きっと、10年後、20年後、あの大震災で大学がどう動いたのかということは、きっと明記されると思います。名城大学が人間学部を創った洞察力また、名城大学は理科系から始まったとお聞きしました。今日、人間学部が10周年ということです。ご案内のとおり、東京大学も、もともとは工学部から始まりました。大学の歴史というものは大体がエンジニアリングが中心です。近代において、国家の基礎、インフラストラクチャー、それから同時に、国家が戦争や防衛にあたる時に、いろんな意味でエンジニアリングということが、どうしても必要とならざるを得えないからです。東京大学もそうですが、人間学部にあたるのはいわゆる教養学部。ヒューマンサイエンス、あるいはヒューマニズムといいましょうか、人間、あるいは人文科学です。おそらく、この人間学部を作られた経緯、背景は、やはり、テクノロジーというその技術をしっかりと、この大学の根幹に据えながら、一方で、人間について深い洞察をし、テクノロジーと人間性の調和ということを、恐らくは大学で考えられて、人間学部というものをおつくりになったのではないかと思います。今回の3月11日を見て、私はまさしくそれが一番大切なことだと思いました。漱石の『三四郎』の中の野々宮先生は、寺田寅彦をモデルにしたと言われています。地下に入って、光の研究を穴ぐらでやった人です。今日の言葉でいうと、非常にオタク的な先生です。世の中の動きから隔絶されて、ほこらの中でせっせと自分の専門的な研究をやった。漱石はご案内の通り、帝大の文学部英文学科でいわゆる人文科学です。でも、かなりの程度、彼はその当時の自然科学について深い知識を持っていた。野々宮先生のようなそういう人と、一方で、漱石のように文学とか、人間を知るという、そういう側面を、何とか一人の人間の中で完成させることが、やはり、大学を卒業した人材として最も必要なことではないかと普通は考えます。20