名城大学通信 45 [2013 spring]

名城大学通信 45 [2013 spring] page 8/40

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名城大学通信 45 [2013 spring]

はまだまだ時間がかかりそう被災した漁港の風景は、復興に車窓に次々に飛び込んで来るして気仙沼市に入りましたが、――仙台からバスで沿岸を北上な復興に向けて進んでいます。気仙沼港から望む大島水産加工場が集中していた気仙沼港一帯で進む瓦礫撤去作業。対岸には大島の亀山が見えます。支援もいただきながら、本格的援職員です。マンパワーの面でもきる分に限られています。は人全ほ国どのの自水治産体課や職役員所のかうらちの応13人35せん。水揚げはまだ生で出荷ですが、水揚げしても冷凍できま産業の復興にあたっています。災前の水揚げに追いついていま気仙沼市の主力産業である水復興しません。生鮮カツオは震産業部に移り、水産課長として、と、雇用、流通が広がらず港は目の2012年4月からは私は水産加工場が復活してこない生きるための1年でした。2年になりました。冷蔵庫が復旧し、ました。市民にとってはまさに災でその8割近くが壊滅状態をよけたりの作業も延々と続きが張り付いていましたが、大震ん瓦礫をよけたり、被災した車そこに水産加工業とかの産業命な対応が続きました。もちろ地が少なく、海岸部を埋め立て、ないという中で、行政としては懸気仙沼市の海岸沿いには平べる物もない、生活物資も足り瓦礫の下が冠水状態でした。民の皆さんが、住む所がない、食りましたが、気仙沼の沿岸では、う肩書きでした。被災された市礫をどければそこに土地があ本吉バイパス整備促進課長といます。阪神淡路大震災では、瓦三陸道・大島架橋・唐桑最短道・さ上げが大きな課題になってい震災発生当時、私は建設部のから1mもだったと思います。し、市内地38の盤漁沈港の下多しく、こはのか70㎝前線で、大変なご苦労の連続距離が大きく延びました。しか気仙沼市の復興では行政の最町との合併で、リアス式海岸の2年が過ぎようとしています。気仙沼市は旧唐桑町、本吉――2011年3月11日からに見えました。漁港の復興阻む地盤沈下全国自治体からマンパワー支援沈んだ岸壁名城大学のボランティア学生たちがホタテ貝の手入れをした大島の長崎漁港では岸壁が1m20㎝も沈下。船からの水揚げのため土嚢が積まれていました。育てホタテ貝震災後初めて養殖されているホタテ貝は生育1年。まだ小ぶりで、付着したフジツボなどの貝殻をそぎ落とさなければ死んでしまいます。手入れされた貝は再び海に戻され2013年3月ごろからの出荷を待ちます。をきちんとする必要があります。復興への足かせになっています。てもいい所もあり、その区分けかさ上げ工事が進まないことが防潮堤で守るべき所と守らなく業は観光と漁業だけに、漁港の考えです。ただ、場所によってはが続いています。大島の主力産高さでの防潮堤は必要だというぱいで、公共事業は入札の不調す。市の方針は人命第一で、ある業者は民間発注の仕事で目いっまれてしまう」と憤る方もいま工事を進めたくても、請け負う全体が刑務所のように壁で囲下がひどい。物揚場のかさ上げ示す方もいます。大島では、「島がありますが、いずれも地盤沈にできるのはどうか」と、難色を長崎漁港、浦の浜漁港など6港「7mの壁が目の前の海との間に浸っている状態です。大島にはしたい」という方がいる一方で、は、水揚げする「物もの揚あげ場ば」が海中要ですが、「早く安心して生活を小さな漁港です。これらの漁港ん。計画決定には市民合意が必ホヤ、ワカメなどを水揚げするの本格的な整備も決まりませ着いて、養殖したカキやホタテ、の建設計画が決まらないと漁港管理する30以上の港は小船ができる場所は漁港との境で、こ沼港(県管理)などを除く、市が防潮堤を整備しまカツオ38漁な港どのをう水ち揚、マグロ、サンマ、げする気仙さ7?8m、所によってはす。防潮堤11mのの波から市民の命を守るため、高きず水揚げに苦労していました。牲者を出した気仙沼市では、津盤沈下が深刻で、漁船が接岸で大震災で1300人余の犠動をしている大島も岸壁の地見が分かれていると聞きました。――学生たちがボランティア活――防潮堤の建設でも市民の意防潮堤整備には市民合意が必要進まない漁港のかさ上げ工事BRT走る津波で不通となっているJR気仙沼線の気仙沼駅~柳津駅(宮城県登米市)間55.3kmを結ぶ、BRT(バス高速輸送システム)が2012年8月20日からスタートしました。一般道と線路の上に整備された専用道路を走りますが、専用道路があるのはまだ気仙沼市内の陸前階上~最知間(2.1km)だけです。校庭の仮設住宅気仙沼市は93か所に仮設住宅を建設しており、大島の仮設住宅は3か所。大島中学校校庭には35戸が立ち並んでいました。る人たちも多いと思います。設住宅暮らしに腹を立ててい続くのか見通しもつかない仮た友人もいました。建築関係とを思い出しながら、いつまでなかった」と後で明かしてくれ暮らす人たちは、いろんなこうで、「怖くて電話がかけられせん。厳寒の中で、仮設住宅で全滅」という報道もあったそ宅は着工のめども立っていました。一時、「気仙沼市最知は設から移るべきはずの公設住くさんの励ましをいただきま度目の冬を過ごしています。仮の懐かしい友人たちからはたは、厳しい寒さに震えながら2災の発生以来、名城大学時代仮設住宅に入っている人たち姪が犠牲になりました。大震復興の遅れを心配しています。無事でしたが、石巻市に住む事は後回しにする傾向があり、ました。高台にある私の家は業者は、制約の多い役所の仕地区も津波で壊滅状態になり仕事は増えました。ただ、民間自宅のある気仙沼市最知の仕事をしているので、震災後、(1964年理工学部建築学科卒)堀籠正生さん気仙沼市の建設業仮設住宅の人たちは怒っている進まぬ公共工事07