名城大学通信 46 [2013 summer] page 29/44

名城大学通信 46 [2013 summer]

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名城大学通信 46 [2013 summer]

華交通学院の経営についても百福は製塩事業と同様な発想でした。新しい中国の建設を担う有為な若者を集めて、食を与え、技術を身につけさせたいと思ったのです。設立の契機について自伝では、交流のあった運輸省鉄道総局長官だった佐藤栄作(後の総理大臣)の助言を挙げています。「これまでの日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには鉄道、自動車などの交通整備が必要になる。将来、技術協力できる人材を養成してはどうですか」。中華交通学院の開校には社会からも関心が寄せられました。1947年1月11日付の朝日新聞(大阪本社発行)は「交通学院へ志願者殺到」という記事を掲載。「日華両国の学生が寝食をともにし、両国人の心からなる理解を深めつつ、大陸建設に最も要求されている交通技術を専攻」と学院の狙いを紹介したうえ、「将来大陸に雄飛しようとする青年の志願者、とくに復員引揚者が殺到。4月1日開校に向け、学院は衣食の完全給与、日華同居の宿舎整備を急いでいる」と書いています。呉主恵の著書によると、志願者は1万5000人に及びました。恵も中華交通学院に、国父である孫文が描いた「交通による建国」実現の夢を託しました。建設資金一千万円を出し、理事長に就任した百福に対し、主恵は教育運営の責任者である院長として名古屋に乗り込みました。名古屋は全く不案内の土地でしたが、名古屋駅付近の旅館に陣取り、学校建設の仕事に取り掛かります。名古屋に進駐していた米国第五空軍将校エリオット少佐に会い、学校建設の狙いを語り、昭和区駒方町3丁目1番地の兵舎(土地4万2900平方メートル、校舎1万2540平方メートル)の使用許可を得ます。学院は当時の中華民国教育部の学制をもとに、中華民国の専科学校と日本の旧制専門学校のような形が構想されました。3年制で、①交通管理科②交通機械科③交通土木科の3コースを設けることになり、教員は20数人。名古屋大学から11人の教授を教授待遇で招くことができました。947年4月1日、開校式が挙行されました。第1期生は日本人50人、中国人10人で計60人。自著『教育と研究?教壇生活四十年回顧録』に主恵はその時の感動を記しています。「当日、多数の来賓、華僑、及び学生を前にして、中日両国語で力強く開校を宣言した。日本において中国人が最初に設立した専門学校はこうして、ここに誕生したのである。私は心の中では、この中日関係史の一頁となる出来事を孫文先生の墓前で報告したかった。機会があれば、もう一度、南京郊外にある紫金山の中山陵に行きたいと思っていた」。敷地外に病院も併設され、広い駒方校舎の敷地には、土地が耕され、野菜や芋が植えられました。こうした中華交通学院の教育実践を「新たな世界主義」として注目している文学者がいました。大正から昭和にかけて活躍した豊島与志雄( 1890?1955)です。豊島は一高から東大に進みフランス文学を専攻。多数の小説や童話を発表したほか、「レ・ミゼラブル」「ジャン・クリストフ」などの翻訳を手がけ、川端康成や太宰治らとも親交がありました。豊島は中華交通学院に、「嬉しい一例を茲に挙ぐれば、中国人呉主恵氏の経営する中華交通学院というのが名古屋にある。この学校は、学内で一社会を形成するような特殊の組織を持ち、将来中国の鉄道技師として働き得るだけの能力を、多数の日本青年が習得しつつある」(『豊島与志雄著作集第6巻』)と賛辞を送っています。主恵の回顧録によると1期生は1949年3月に卒業していますが何人かは不明です。かし、中華交通学院は開校からほどなくして挫折します。学院の経費一切を百福個人に頼っていた経営構造からすれば当然の帰結とも言えました。百福は中華交通学院(中交学院)開校翌年の1948年9月、泉大津市に、日清食品の前身となる「中交総社」を設立していました。しかし、GHQから脱税の嫌疑がかけられます。製塩事業で若者たちに支給していた奨学金が所得とみなされ、源泉徴収して納めるべき税金を納めていないという摘発でしたが、当時の反税運動を抑えるための見せしめ的な逮捕とも言えます。自伝によると、百福は1948年クリスマスの夜、連行されました。大阪の軍政部で裁判が開かれ、たった1週間で「4年の重労働」いう判決が下され、大阪財務局から財産が差し押さえられ、身柄を巣鴨プリズン(東京拘置所)に移されてしまったのです。無実の罪ながら、2年間の服役を余議なくされました。百福からの資金が途絶えたうえ、中国では内戦で中華人民共和国が成立。中国の将来も見通せなくなり、中華交通学院は開校2年目にして暗礁に乗り上げてしまったのです。百福は理事長を辞職。学院再建はすべて学院長である主恵に負わされました。そして、名古屋大学の仲介で合併を提案してきたのが名城大学理事長の田中壽一( 1886?1960 )でした。Story of Meijo University1万5000人の志願者「交通による建国」孫文の夢に挑む新たな世界主義への賛辞経営の不振と名城大学との合併nextpage中主し1ここ呉主恵著『教育と研究~教壇生活四十年回顧録』に収められた中華交通学院の炊事部(上)、工作室(中)、事務室(下)28 46