名城大学通信 46 [2013 summer] page 30/44

名城大学通信 46 [2013 summer]

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名城大学通信 46 [2013 summer]

を存続す」――。せしむ。昇格に至る迄中華交通学院の名称於て中華交通学院の交通学科も大学に昇格中華交通学院へ移轄し、陣容を整え明年度に名誉学長とす」「名城大学の工学部は直ちに力す」「呉百福氏を名誉顧問に、呉百恵氏は可及的速やかに国際大学に改称することに努学は中国との親善に努力す」「大学の名称を「中華交通学院の建学綱領に従い、名城大でした。の規模拡大を図ろうとする勢いの中での締結前の4月1日に開校したばかり。さらに大学の院仮が契名約城が大結学ばにれ合ま流す発。展名す城る大た学めは」の4週15項間目代表者の呉主恵学院長の間で「中華交通学1者の田中壽一理事長と中華交通学院949年4月28日、名城大学代表名城大学と交渉名城大学物語と記しています。することになった」名城大学が使用後、建物の全部をした。そしてその用することに成功学の校舎として使中華交通学院と名城大学が交わした仮契約書(1949年4月28日)大部分を名城大華交通学院と提携することによって、建物の『名城大学75年史』は「田中理事長は、中恵は学院長を辞任します。しての敗北宣言でした。1951年3月、主た」。回顧録に書き残された主恵の教育者と研究を立派に守っていきたいと固く心に誓っは、教育者としての活動ではなく、学者として信を失ってしまった。今後私に残された生涯「私はすっかり、〝教育者である?という自ことになります。意は難航し、学院は名城大学に引き継がれる取り交わされたものの、具体的な詰めでは合主恵の願望が強く盛り込まれた仮契約は講演のため台湾を訪れた呉主恵氏(右)と教え子として付き添った田中教授(1984年6月)という枠組上に座標化したものである。従っある。この苦悩という情念を社会科学の学理ることの苦悩の中から生まれてきたものでみました。「私の社会学は、私が日本に生き大学文学部教授となり、研究活動に打ち込主長を辞任。名古屋を去り同年、東洋恵は1951年3月、中華交通学院苦悩の社会学くられています。証人として生きているものである」と締めくがかつて日本に存在した一駒の歴史的事実の面を綴る苦しい思いを持って、中華交通学院は、「私は今でもこの誰も知らない華僑史の一回顧録の「学院の合併そして閉鎖」の章史に送ったことを紹介しています。えて同書をニューヨークに住むパールバック女たかったからである」と書き、英文の手紙を添だはけ、の中51年国間知、日識本がのあ統る治こと下をにあ認り識なしがてらも、らこいれ賭けて、大陸の中国人に見せたかった。それ主刊恵行はし、「た私のははこ1949の著作年に8台月湾出10身日の。回面顧目録をで中でも代表作ともいえる『漢民族の研究』をえることはありませんでした。数多い著作の院の経営が苦境にある中でも、執筆意欲は衰くの論文や著書を残しました。中華交通学的基礎に関する研究』『民族社会学』など多主究』『民族の海外移住研究とその民族恵は社会学者として、『漢民族の研歴史的事実の証人として呉主恵氏の思い出を語る田中教授した。ることを教えてほしい」。女性は主恵の孫で教授を訪ねてきました。「祖父につい知っていの小学生の男の子を連れて佐賀大学に田中存在をネット検索で知ったという女性が2人を書き上げました。2013年1月、論文の中国人社会学者・呉主恵の学問と生涯?』て論文『アジア社会論への社会学的視座?田中教授は1996年、恩師の研究についも語りました。能力を求めるのは無理だったと思います」とました。頭一つで生きてきた呉先生には経営がうまく行かなかったという話は何度か聞き力でした」と振り返ります。「中華交通学院ごろまでは執筆に専念していた。抜群の集中ました。朝3時か4時には起きて、8時、9時れているからと立ち向かった。私も感化されから与えられた試練ととらえ、自分が問わリスト教徒として当然であるかのように、神断るな、仕事は断るなという考えでした。キ「呉先生は多種多芸というか、求められたら豊治教授(65)(社会学)は恩師への思いをに師事した佐賀大学文化教育学部の田中東洋大学大学院博士課程で呉主恵教授ま年し2た月。16日、日本の地で87歳の生涯を終え続けた中国人社会学者・呉主恵。1994であり、私は悲劇の社会学者である」と言いて私の社会学は、一口で言えば苦悩の社会学4629