ブックタイトル名城大学通信 47 [2014 Spring]

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名城大学通信 47 [2014 Spring]

27名城大学物語田中が送った文献と高柳健次郎浜松高等工業学校教授へ名古屋高等理工科講習所の創設へ陸軍軍人の目にとまった田中報告借金を抱えた自分の学生時代に比べたらインフレといえ、ドイツは豊かだ。空論を述べる社会学者は百害あって一利ない。成功に導くのは力しかない。経済は人情学。誰が何と言おうと、自分が新聞で集めた材料での結論に全く間違いはない――。田中が報告を通して主張したかったのはこうした点であるようです。後の学校経営に対する姿勢とも重なりそうです。第1回報告に登場する「鉱山王スチンネス氏」とはユダヤ人大実業家フーゴー・スチンネス(1870?1924)のことです。「国民新聞」に掲載された田中のドイツ報告は、陸軍軍人で、軍命でユダヤ人研究にあたっていた安江仙弘(1888?1950)の目にとまります。安江が「包荒子」のペンネームで書いた『世界革命之裏面』(1924年12月17日初版)という本で、田中の記事を取り上げていました。「田中氏は猶太(ユダヤ)人のことには言及せず、単に独逸には金がウナッているというが、このウナル程の金は独逸人のものではなく、猶太人のものであり、又別荘は建てられる、至る所空前の盛況を呈しているのは、独逸征服者の猶太人であることは勿論である」安江は、1918年のシベリア出兵に参戦。ロシア革命における君主制崩壊の背景を分析のため、ユダヤ人研究にあたったと言われています。ドイツ留学を終えた田中は1924年7月30日付で浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の教授に就任しました。同校「一覧」(1924?25年)の職員欄には、教授の1人として田中の名前がありました。「従六、理学士田中壽一福岡」。東北帝大理学部助教授の時は正七位でしたが、身分は従六位(正六位の下、正七位の上)に上がっています。担当科目は理論電気、電気磁気及測定、力学、無線電信電話理論、電気実験、実習です。助教授には、電気機械、無線電信電話、実習を担当する高柳健次郎の名前がありました。高柳は東京高等工業学校附設教員養成所を卒業。1924年春、自身の郷里でもある浜松市に開校したばかりの浜松高等工業学校助教授に就任していました。高柳は1926(大正15)年、世界で初めてブラウン管にイの字を映し出すことに成功し、1935(昭和10)年には全電子式テレビを完成させます。高柳の著書『テレビ事始?イの字が映った日』(1986年、有斐閣)には田中の名前が登場します。高柳がテレビ実現への最大の課題であった、レンズから入ってきた光が映像を結ぶまでの間に鏡を入れる方法に取り組んでいた時、ドイツから届いた田中が集めた文献と出合ったのです。「新しくオープンした浜松高工の図書館に、ドイツ留学中の田中先生から沢山のドイツ語の書籍や雑誌が届いた。そして、その中に、オーストリアのエル・ミハリーという人の『ダス・テレホール』という著書があった。それは、テレビジョンの実験をし、それをまとめた本である」「ミハリーは、このように、スキャンナー(走査機)として振動鏡を用いることを研究し、一番簡単な像ということで、十字架の像の送受に成功したのである。それが大正13年7月ごろ、ドイツから届いた本にあったわけである」25歳の高柳は『電気之友』(1924年10月号)に「無線遠視法」のタイトルでテレビへの思いを寄せています。「ああ、無線遠視法。これが完成されたなら、私たちの幸福はどれだけ増すであろうか……」。高柳が『電気之友』でテレビへの夢を膨らませた1924年、田中は2年後に、名城大学の前身である名古屋高等理工科講習所を開設するきっかけになる会合に出席していました。電気学会東海支部の要請で出向いた名古屋市中区の朝日会館での講演会です。「大正13年、電気学会東海支部により依頼されて、朝日会館において相対性原理について講演したことがある。それで、名古屋には高等工業学校に電気科もなく、又、名古屋大学も県立より国立に移管されたばかりの医科大学。従って我輩は、名古屋には良い学校がないから、電気学の高等知識を学ぶ夜学でもと、夜間の高等工業程度の名古屋高等理工科講習所を始めた。文部省研究員としてドイツに学ぶこと2年。各地を見分し、テキニッシュ・ホッホ・シューレ(工業大学)がほとんど無設備で、各教授は理論研究に没頭するは、吾人の考慮と符合すると覚えて創立した」(1959年発行の「名城大学校友会報」創刊号へ田中が寄稿した要旨)祖父田中壽一の思い出を語る新城健蔵名城大学前史としての田中壽一のドイツ留学東北帝国大学助教授時代に文部省在外研究員として滞在帰国命令と名古屋高等理工科講習所の開設のりひろ講義する田中壽一(名古屋専門学校1951年卒業アルバムから)