ブックタイトル名城大学通信 47 [2014 Spring]

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概要

名城大学通信 47 [2014 Spring]

大健学蔵ベ(ルリ72)はベルリンン(旧ベルリン大学)の前に立って市街地にあるフンボルト2013年5月8日。田中の孫である新し城んじょう田中壽一の孫ベルリンを訪れた高等理工科講習所を開設しました。臨時校舎に、名城大学のルーツである名古屋田3丁目)の私立尾張商業学校内に置いた区御器所町古市場20番地(現在の中区千代1926年5月1日、田中は名古屋市中裏切られた帰国命令だったのです。のことでありました」。田中にとって、期待をて、名古屋高等理工科講習所を設立したとつけて退官し、その時得た退職金を基にしなかった。憤激して文部大臣に辞表をたたきどういう都合であったのか、校長に任命されとして、途中に帰国を命じられた。ところが、イツ留学中、浜松高等工業学校の校長候補て次のように述べています。「田中先生はド福山は「田中先生から直接聞いた話」としが、芦屋大学学長として行った記念講演です。迎えられた福山重一(1909?1992)阪府立大学教育学部長から名城大学教授に課程20年の歩み」として、田中に請われて大紀要」第3巻に掲載されていました。「教職45)年に発行された「名城大学教職課程部この推察を裏付ける話が1970(昭和はなかったのではないかとも推察されます。から浜松高等工業学校の教壇に立つもりで述べている通りだとすると、田中には最初授に就任した年です。「名城大学校友会報」から帰国し、7月から浜松高等工業学校教「大正13年」(1924年)は田中がドイツ期待裏切られた帰国命令した。となった新城は写真で見る田中にそっくりで小さくなっていました」。祖父の晩年の年齢後でした。小柄だったおじいちゃんがさらにいました。「人目を忍んでというか、寂しい最屋大学医学部生ということで臨終に立ち会面会禁止でしたが、新城は孫であり、名古ひっそりと74歳の生涯を終えました。していた名古屋大学していました。田中は附属11月病院11日6、階仮の名病で室入で院経営への反発が引き金となった紛争が激化しかし、この年の名城大学は、田中の大学れました。村校舎、春日井市の鷹来校舎を案内してく乗せ、名古屋市内の駒方校舎、八事校舎、中どうれしかったようで、大学公用車に新城を大学医学部に入学。田中は孫の入学がよほ新城は1960(昭和35)年4月、名古屋しました。身地、沖縄県宮古島市で高校時代まで過ご外孫で、両親とともに医師である父親の出た仙台に由来するそうです。初孫とはいえです。名前は、田中が東北帝大時代を過ごしツと田中の間に生まれたのが新城の母千城は田中壽一の初孫でした。病死した先ち妻代マよ愛知県豊田市で病院を経営する医師の新使だと思いました」。省から派遣されたわけですから。一種の遣唐思いました。お国のために学んで来いと文部が、90年前はもっともっと大変だっただろうと「今の時代でも簡単に行けるわけではないは「おじいちゃん来たよ」とつぶやきました。学名が掲げられた建物を見上げながら新城「HUMBOLDT UNIVERSITAET」。大みたいという思いにかられての訪問でした。婦での欧州ツアーの際、祖父の足跡をたどってたと書かれた資料を読んだことがあり、夫いました。田中がベルリン大学に留学してい「名城大学物語」はウェブサイトで連載中です名城大学物語第1部●遠い記憶を追って第2部●草創の門第7回少年軍属と駒方キャンパス第8回駒方校舎と中華交通学院第9回中華交通学院の思い出を語る第1回駒方の春風第2回バンカラ節名城大学が大学拡張のため白羽の矢が立ったのが昭和区駒方町にあった名古屋陸軍造兵廠の寮舎でした。駒方町の八事生徒舎には、名城大学にとって先客がいました。中華交通学院です。中華交通学院関係者の話を聞くことができました。愛知華僑総会会長の丁秀山さん(87)です。新制大学として発足した名城大学。水野貢さん(82)は、新入生代表としてあいさつしました。1950年度、理工学部、農学部の増設が認められ学生数は一気に膨れ上がります。第3回流浪の学生たち第4回引き返した整地作業車第5回名城祭に現れた農学部1期生第6回工作班と伝習館の絆総合大学への基礎固めを図った名城大学には、若者たちが続々と集まってきました。農学部2年生となった伊藤さんは春日井市の鷹来校舎で田中学長を待ちました。農学部1期生の中川斌さん(84)から「大学祭には内緒で参加する予定です」と手紙が届きました。「名城大学新聞」は雑草の茂る駒方キャンパスの劣悪ぶりを訴えていました。第7回独善への道第8回「東海駅伝」で初優勝第9回沖縄からの入学生第10回波路の果てに学部ごとに設けられたテーブルを囲む卒業生たちの中に薬学部の1期生たちの姿がありました。会場では古いスクラップブックを手に、懐かしい顔ぶれを探し求めている卒業生がいました。名城大学が沖縄で入学試験を始めたのは1959年。まだアメリカ統治下の時代でした。沖縄から、屋久島から、名城大学には波路を越えての入学が続きました。28