ブックタイトル名城大学通信 48 [2014 Summer]

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概要

名城大学通信 48 [2014 Summer]

14増水時には川に沈んでしまう欄干のない「沈下橋」と呼ばれる橋がかかる四万十川の風景(愛媛県と高知県を結ぶJR予土線の車窓から)人気漫画「美味しんぼ87」にも登場した澤田さん(c雁屋哲・花咲アキラ/小学館・週刊ビックコミックスピリッツ連載中)新聞社)に記事を持ち込み組んでもらいました。日刊紙の制作工程が終わってからですので、夜中の作業です。校正まで済ませ、始発電車で名古屋に戻ってきました。緊張が続く紛争の渦中では、「これでこの大学も終わりになるのではないか」という悲壮感もありました。でも、紛争の記事ばかり書いたわけではありません。農学部で行われた音速滑走体の実験も取材しましたし、春日井市民との交流の話題も取り上げました。映評もよく書きました。「ベンハー」「風と共に去りぬ」「はだかっ子」とか。映評を書けば映画館の入場料が無料というのも魅力でした。記事は「名城大学新聞」だけでなく名古屋市内の学生新聞に掲載してもらったこともありました。大学を卒業後は新聞社に就職するつもりでした。しかし、どうしても実家に帰らざるを得ない事情ができ、戻って高校の教員になりました。最初の赴任校が四万十川上流にある中村高校の西土佐分校。臨時採用でしたが2年目からは正規教員として母校でもある宿毛高校に勤務しました。結局中村、宿毛の2校に、入れ替えはありましたが60歳の定年まで勤めました。生物を担当したこともあり、野生生物の宝庫である四万十川流域の自然、風土に魅了され、調査に夢中になりました。私が高知に戻った1964年ごろから高度経済成長が始まっていました。四万十川流域でも森林伐採が進みました。樹齢100年、200年のヒノキなどがどんどん切られていきました。道路を広げるため河川も埋められたりしました。ニホンカワウソが住んだ川、ヤイロチョウが住む深山幽谷の自然がどんどん破壊されていく。このままでは貴重な生物がどんどん姿を消していくのではないかと思いました。何とか保護しなければと、営林署や国、県の関係機関に働きかけました。もちろん授業はちゃんとやってです。孤軍奮闘でした。1983(昭和58)年9月放送のNHK特集「土佐・四万十川?清流と魚と人と?」では、「最後の清流四万十川」と紹介されました。取材スタッフが、私が語った、「四万十川を最後の清流にしたくない」という思いをくみ取って使ってくれたようです。「全長196キロメートル、四国で最も長い四万十川は、日本最後の清流と呼ばれます。蛇行を繰り返し、自然の姿を多くとどめる川には90種を超える魚類がすみ、流域には川の恵みで暮らす川漁師の歴史があります―」という紹介でした。この全国放送で四万十川は一気に全国区になりました。私にも全国の出版社から原稿の依頼が相次ぎ、書きためていた論文や報告書もあったので、何冊か本も出させていただきました。岩波書店から1993年に出した「四万十川物語」は、寺田寅彦が高知県出身ということで地元で設けられている「寺田寅彦記念賞」をいただきました。自分を育ててくれた母校への感謝もこめ、名城大学の図書館にも献本させていただきましたので、機会があったら読んでみてください。マナヅルやナベヅルなど四万十川流域への渡り鳥の調査・保護活動も続けています。42年前の1972年に旧中村市で越冬したマナヅル2羽が、翌冬、子ども2羽を連れて帰ったことに感激したのがきっかけです。「四万十つるの里づくりの会」も発足しています。四万十市は旧中村市と旧西土佐村が2005年に合併して誕生しました。市名に「四万十」を使ったのは「四万十川」が全国に知れわたったこともあるかも知れません。私はこれかも命ある限り、四万十川を見守り、そこから生まれる物語を伝え続けていきたいと思います。母校を卒業してちょうど50年。郷里に帰って、今日まで、自分の力でやり切れば何かの役に立つという思いで生きてきたというのが実感です。(聞き手・中村康生)「まぼろし城」と呼ばれた農学部本館NHK特集で「最後の清流」と紹介自分の力でやり切ることの大切さ四万十川は野生生物の宝庫て撮影しました。足を運んだキャンパスは理工学部がある中村校舎、薬学部がある八事校舎、さらに法学科2部があった菊井校舎とまさにタコ足配線みたいで苦労しました。農学部本館は「まぼろし城」と言われていました。地下にある実験室で、徹夜で実験を済ませたこともありました。夜、駒方校舎の新聞会部員からの電話で、翌日は駒方に駆けつけることもありました。新聞制作は、料金が安いということで岐阜市の岐阜日日新聞社(現在の岐阜