ブックタイトル名城大学通信 48 [2014 Summer]

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概要

名城大学通信 48 [2014 Summer]

24設計から製作まで学生の手で大空へのあこがれ飛行機設計の夢を絶たれて航空部員だった則竹佑治さん(1959年卒)です。当時の理工学部長であり、和算の大家として知られる加藤平左衛門教授が「SK式21DC型」に試乗している写真も残っていました。命名式後、「先生、ぜひ試乗してみてください」と則竹さんが勧め、シャッターを押した時の1枚です。「毎日新聞」(1958年4月21日)は、「設計から製作まで全て学生の手によるグライダーがこのほど出来上がり、29日命名式が行われる」と報じていました。(要旨)名古屋市昭和区駒方町、名城大学航空クラブ(鈴木清二部長)では、部員の則竹佑治君(23)、酒井重範君(22)、吉田誠一君(21)=いずれも4年=らが主力となり、一昨年末、「自分たちのグライダーを作ろう」と申し合わせ、小沢久之亟教授の指導で、中級機(SK式21DC型)の試作設計に取りかかった。大学から与えられた35万円の製作予算ではとても材料も十分に買えないというので、夏休み冬休みも返上して青写真と取り組む学生たちの姿に心打たれた往年のパイロット、北区報徳町16、富士滑空機株式会社社長、小泉喜久男氏(47)は「技師つきで工場、工具を無料提供しよう」と助力の手をさしのべ、同社、星野三郎技師(43)を指導にあてることを決めた。空の先輩のあたたかい援助で、とんとん拍子に製作もはかどり、運輸省航空局の性能計算検査、材料強度検査もパス、このほど設計開始以来約1年半ぶりに機体の組み立てを終わった。翼の布を張ったうえ、29日の入学式で命名式を行い、大串総長、福井理事長代行者はじめ全学生が出席して「名城大学号」(仮称)と名づけられる。同機は翼長13m、全長6.8m、重量140キロ。2人乗りで操縦席が安定しているのが特色という。製作費は約70万円で不足分は小泉社長が負担している。5月中旬、小牧空港で滞空、飛行テストを行ったうえ、正式にクラブ所有機となるが、設計から製作まで学生ばかりのグライダーは戦後わが国でも初めて。小泉富士滑空機社長の話ヘリグライダーやモーターグライダーは持っているし、名城大学も日本一機種のそろった大学といえましょう。則竹さんを埼玉県川越市の自宅に訪ねました。則竹さんは名城大学を卒業後、防衛庁(現在の防衛省)技術研究本部に勤務。定年を迎えるまでの30数年、自衛隊で運用する練習機、戦闘機、輸送機、飛行艇など多くの航空機の開発、試作機の強度試験、さらには新技術開発などに携わってきました。この間、国内留学した名古屋大学大学院では航空工学専攻修士課程を修了しました。則竹さんが大空へのあこがれを強くしたのは、小学5年生で終戦を迎えるまで、親の仕事の関係で台湾に住んでいたためです。赤とんぼと呼ばれていた複葉練習機が頻繁に街の上を飛んでいました。当時の台北市内の街並みを再現した地図を広げながら、則竹さんは、赤とんぼと呼ばれる日本軍練習機のイラストが書き込まれた飛行場を指さしました。また、5歳のころ、世界一周中のニッポン号が飛んできて、大人たちが空を見上げて「ニッポン号だ」と興奮していた記憶もかすかに残っています。戦後、日本に戻り、愛知県立一宮高校から名城大学に入学。航空部の仲間たちと、自前のグライダーづくりに夢中になりました。設計、製作を指導した小澤教授は「飛龍」の設計者として知られ、航空界ではカリスマ的存在でした。小澤教授の存在は則竹さんの人生にも大きな影響を与えました。小澤教授は1905(明治38)年、名古屋市中区に生まれました。愛知一中、八高、東京帝大工学部船舶工学科を卒業し、三菱重工名古屋航空機製作所に入社。朝鮮、満州、中国、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、アメリカで航空機開発状況の調査、研究をし、「飛龍」の設計で陸軍大臣賞、軍需大臣賞を受賞しています。名城大学では名古屋専門学校教授を経て理工学部教授となりましたが、この当時の心境を小澤教授は論文『音速滑走体と超音速滑走体』(1978年)の冒頭に書き残しています。飛行機の設計こそわが生命と、終戦までその任務に全力を捧げてきたが、終戦とともに、飛行機関係の仕事には一切関係しないようにとの指示を受けてからは、気の抜けた人生を送ることになり、過去を忘れようとしたが、少しでも速い飛行機を作りたいと願っていた身にとってはこのうえない苦悩であった。飛行機にタッチできないなら、地上乗物の速度を上げることに努力してみたい。幸いにも昭和23年末から名城大学で理工学部の講義を持つことになったので、余暇をこの目的を果たすための研究にあてることにした。戦争で敗れた日本はGHQによって航空機の研究、設計、製造を全面的に禁止されました。禁止措置が解除されたのはサンフランシスコ講和条約が発効し、航空関連法が施行された1952年になってからでした。富士木工作業所で製作に取り組む学生たち。後列中央の翼断面を左手で持ち上げているのが則竹さん各務原飛行場で小澤教授も同乗してのヘリグライダーの浮揚実験(則竹さん提供)