ブックタイトル名城大学通信 48 [2014 Summer]

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概要

名城大学通信 48 [2014 Summer]

25名城大学物語設計・製作する航空部から飛ぶ航空部へ民間パイロットの飛行機屋小泉喜久男氏航空技術者の再就職先だった大学毎日新聞の記事に登場する名城大学航空クラブ(航空部)の鈴木清二部長も陸軍航空工廠の出身者でした。八高、東京帝大工学部船舶工学科卒で小澤教授の9年後輩です。なかなか見つからない航空関係の仕事を求めていた1954年6月、新聞で名城大学の小澤教授が低翼単葉のグライダーを中村校舎に近い庄内川の河原で飛ばしたという記事を見つけます。先輩である小澤教授を訪ねたのがきっかけで名城大学教員になりました。この「低翼単葉のグライダー」とは「ブルーバード号」(SK式31型)と呼ばれた練習機です。設計したのはやはり毎日新聞の記事に登場する星野三郎氏で小澤教授が監修し、小澤教授からの要請を受けた富士木工が製作しています。記事中の富士滑空機社は実際には富士木工社に社名を変えていました。この当時の機械工学科の今里隆次教授も東京帝大工学部航空学科卒で、陸軍航空本部監督官を務めた陸軍少将でした。在英大使館武官の経歴もあります。則竹さんとは機械工学科同期生でもある杉下潤二名誉教授(1959年卒)は「私たちが学生だったころの理工学部は、航空技術者だった人、軍関係の仕事に就いていた人たちの再就職先でした。機械工学科の実習工場の先生たちの多くも工廠(軍事工場)の出身者でした」と語ります。時代的には少しあとになりますが、名城大学には「飛龍」とともに名機とされる戦闘機「飛燕」の設計者で、戦後初の国産機「YS-11」の設計にも加わった土井武夫氏(1904?1996)も教授として赴任、1973年7月から1977年3月まで学生部長を務めています。杉下名誉教授が小澤教授の指導で卒業設計として取り組んだのは今なら水上スクーターと呼ばれる「ウオータージェット」。審査では小澤教授から「動くのかね」と聞かれましたが、「先生から指導いただいた水力学の計算通りにしました。動きますと」と答えると、小澤教授は「そうか」と認めてくれたそうです。やはり毎日新聞記事に登場する小泉喜久男氏(1911?1978)の会社は、現在は二男の康史さん(69)が社長を務める富士製作所(名古屋市北区)に引き継がれています。康史さんによると、小泉氏は明倫中学(現在の愛知県立明和高校)出身。東京にあった田中飛行学校で飛行機整備の仕事に従事しながら2等飛行操縦士となりました。1936(昭和11)年に名古屋に戻り、名古屋の飛行学校教官をしながら、挙母町(現在の豊田市)の町有機「拳母号」のパイロットを務めます。「給料は出せないが好きなだけ飛行機に乗れるから」と誘われたからでした。小泉氏は1942(昭和17)年、名古屋市北区に富士滑空機株式会社を創業、グライダー製作を始めました。戦時下の学校ではグライダー搭乗訓練が行われ、富士滑空機は文部省、軍需省の指定工場にもなりました。しかし、空襲で工場は焼失。3機ほど残った複葉機は戦後、米軍兵士の目の前で燃やされてしまいました。しかし、小泉氏と飛行機仲間との関わりは続きました。中部航空連盟に出入りし、小澤教授や名城大学の航空部の学生たちとの付き合いが始まります。そして、少ない予算ながら自前のグライダーを作ろうとしていた則竹さんら学生たちを全面的に支援していきます。富士木工の作業場の一角で学生たちの作業が続きました。康史さんも小学生だったころ、小澤教授や則竹さんら学生たちの作業を見守っていた日々を記憶していました。駒方校舎に登場した、機体に校章が書き込まれ、「スカイラーク」と命名されたプロペラのついたグライダーも富士木工の星野三郎技師が設計。中日新聞社が中部航空連盟を後援していた関係で、中日新聞社の発注により富士木工で製作され、名城大学所有機になりました。しかし、エンジンの不調で本格的な試験飛行を行う前に、則竹さんが卒業後の1959年9月、駒方校舎で起きた火災で焼失してしまいました。SK式21DC型機が「名城大学号」と呼ばれたのは命名式の時だけだったようです。命名式後も試験飛行が続けられたため、則竹さんたち4年生は実際にこの練習機に乗ることはありませんでした。航空部は日本学生航空連盟に加盟する東海支部と関西支部の各大学航空部合同で、香川県高松市のお寺で合宿をしました。飛来機の少ない高松空港で、入門機に乗り込み、ゴムのロープをメンバーたちがV字型に引っ張ったところで杭につながれた機体が離されます。パチンコと呼ばれた練習です。機体は10mほど滑走して浮上。「高度10mほどですが、すごく高く飛んだ感じだった」と則竹さんは振り返ります。SK式21DC型グライダーが練習機として活躍するのは則竹さんたちが卒業後で、1968(昭和43)年ごろまで航空部唯一の練習機として学生たちを空に誘いました。航空部OBで、現在の航空部部長でもある理工学部機械工学科の前田隼准教授(1967年卒)も岐阜県の各務原空港で、SK式21DC型での初フライトを経験して学生たちが「名城大学号」を設計・製作した時代「飛龍」設計の小澤教授や飛行機屋たちに導かれ名城大学の航空部を支えた小泉氏(富士木工で)学生たちに大空への夢を与え続けた小澤教授(退職記念論文集『音速滑走体』より)こうしょういまざとりゅうじころもいざなはやと