ブックタイトル名城大学通信 49 [2015 Spring]

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概要

名城大学通信 49 [2015 Spring]

22任。代走専門は置かない方針を取ったため私の出番はなくなりました。結局ドラゴンズには4年間お世話になり、ウエスタンリーグ盗塁王にもなりましたが、1軍では通算51試合に出場。打数0。23盗塁を試み成功16、失敗7で終わりました。中日ドラゴンズが優勝した1974年を最後にプロ野球の世界からは離れました。自衛隊のジープに乗っての優勝パレードにも参加させていただきました。プロ野球生活は短命でしたが、退団後も当時の仲間だった皆さんや球団関係者の皆さんとは長い付き合いが続いています。名古屋の栄で「ラブ・スチール」というスナックを2012年まで続けました。野球の仲間の皆さんや名城大学野球部の先輩、後輩の皆さんらに足を運んでもらいました。プロの世界からは離れましたが、地元の少年野球(硬式)の指導を22年間続けました。少年野球とはいえ、教える立場に立つことで、勉強になったこともたくさんあります。いまは家内と2人暮らしで、友人の運送業の仕事を手伝っています。盗塁一筋の短いプロ野球人生でした。投手の癖は徹底的に手帳に書き込み、自分の財産としました。自分の力で生きていくには、安易に人に頼ってはいけないという信念は今も変わりません。(聞き手・中村康生)習では、ユニフォームでは破れてしまうため、柔道着のズボンにはきかえてスライディングを繰り返しました。朝は皆さんより1時間早く出て、マシン相手にバントの特訓。朝が冷え込む2月ですので、分厚い手袋をしての特訓でした。水原監督はいろいろ考えてくれて、巨人の柴田選手の赤手袋に対抗して、ドラゴンズの盛田を黄色い手袋で売り出そうとしました。黄色の手袋にさらに夜光塗料を塗りました。1軍昇格は入団した年の5月25日でした。この日、昼の中日球場(現在のナゴヤ球場)で行われたウエスタンリーグ(2軍リーグの1つ)の南海(現在のソフトバンク)戦で5盗塁を決めたからです。1塁に代走で出て2盗、3盗、ホームスチールに成功。次の打順でもセンター前ヒットで出塁し、2盗、3盗を決めたのです。試合が終わると1軍マネージャーから、「おい盛田、きょうから夜だぞ」と声がかかりました。夜の大洋(現在の横浜ベイスターズ)戦から1軍合流が決まったのです。胸がドキン、ドキンと高鳴り、「うわー、やったぞ」と心の中で叫んでいました。その夜の試合では木俣さん(木俣達彦捕手)の代走で出番がありました。無死1塁で打者は私と同年齢ながら入団は早かった菱川(菱川章外野手)。ピッチャーはカミソリシュートの平松さん(平松政次投手)。平松さんは私の足を警戒水原監督が与那嶺コーチに特訓を指示1軍デビューに胸が高鳴りました少年野球の指導22年で自分が見えてきた選手生命奪った無念の複雑骨折して1塁に連続6球の牽制球を投げ続け、スタンドからは「平松、ホームを間違えているぞ」というヤジも飛びました。結局、菱川はセカンドゴロ併殺打に打ち取られてしまいました。初盗塁は5月27日、大洋との3戦目でした。投手は小谷さん(小谷正勝投手)でしたが、平松さんのような牽制はなく、1球目か2球目にスタート、2塁手シピン選手のタッチをかわしての初記録達成でした。その後、7盗塁までは失敗ゼロ。自分でも調子づき、「どんどん増やしてやろう」と思いました。ところが、命取りとなった日が予想以上に早くやってきました。8月11日のやはり大洋戦です。1塁ランナーだった私は、谷沢さん(谷沢健一選手)のライト前ヒットで走りました。2塁を回った時点で一瞬、ためらいましたが、3塁コーチは腕をグルグル回しています。3塁に向け加速した瞬間、ブチっという感覚が左足を走りました。骨折でした。3塁に滑り込みましたがライトからの返球でタッチアウトとなり、さらに2か所を骨折してしまいました。2塁を回った時にためらったのは、2塁で止まればもう1盗塁できると欲張ったからです。判断ミスでした。結局、24試合目となったこの試合までの15盗塁(成功11、失敗4)が入団1年目の記録でした。2年目からは水原さんに代わり与那嶺さんが監督に就5割を打っていて、首位打者を意識しすぎて最終試合が4打数ノーヒット。チームメイトの鈴木進一郎選手が私と入れ代わり、5割で首位打者に輝きました。リーグ戦優勝には届きませんでしたが、瑞穂球場は名城ブームとなり、応援席が名城大学生で埋まったシーズンでした。名城大学時代は、プロに注目してもらうには足しかないと思っていました。その足を買ってくれてドラフト7位(6人は投手)で指名してくれたのが中日監督の水原茂さん。「バッティングはやらなくていいから」と走塁専門を命じられました。水原さんの指示でウオーリー与那嶺コーチの特訓を受けました。与那嶺さんは巨人時代から、足の甲で相手野手のグラブを叩いてボールを弾き出させるなど、アメリカ仕込みの激しいスライディングで知られた方です。キャンプでは、ベース上のサンドバッグめがけてのスライディング練習を繰り返しました。居残り練ドラゴンズ時代はいたシューズを見せてくれた盛田さん大洋戦で2塁手シピンのタッチをかわし初盗塁を決めた盛田さん(1971年5月27日、中日球場で)水原監督(左奥)の見守る中で与那嶺コーチの指導を受ける盛田さん