育て達人第063回 赤﨑 勇

未到の研究がしたかった

鉱物標本の輝きへの感動が青色LEDに

理工学研究科 赤﨑 勇 教授(半導体物性工学)

 消費電力が少なく長寿命――。エコ時代にふさわしいLED(発光ダイオード)が注目されています。窒化ガリウムの高品質単結晶を世界で初めて作り出し、これを使って光の三原色のうち最も難しいとされた青色のLEDを開発したのが理工学研究科の赤﨑勇教授です。赤﨑教授にお話を聞きました。

――生まれ育った鹿児島ではどんな少年時代を送られたのですか。

「講義に集中する習慣をつけよう」と語る赤﨑教授

「講義に集中する習慣をつけよう」と語る赤﨑教授

 野山を駆け回っていました。父は寡黙で、進路などは本人任せでしたが、小2のころ、鉱物標本を買ってくれました。遊び疲れて帰ってきてもその標本を見るのが大好きでした。なぜこんなに色が違うのか、キラキラ光る面があるのはどうしてだろと飽かずに眺めていました。

――旧制の中学時代に終戦をはさんでいますね。

 鹿児島は郷中(ごじゅう)教育の伝統に加え、島津藩が藩校造士館を創るなど教育熱心な土地柄で、名古屋の八高より先に七高を誘致しました。中学時代は第二次世界大戦の最中でしたが、学校の帰りに七高校庭のクローバの上に寝転び、中学の軍国教育にはない自由な雰囲気を感じていました。しかし、3年生の5月から学徒動員に駆り出され、4年生の時、動員先の佐世保で終戦を迎えました。旧制中学は5年制ですが、4年修了で七高に入ったこともあり、実際に授業を受けたのは3年2か月程でしょうか。七高も空襲で全焼しており、入学した年は3か月しか講義を受けていません。当時はひどい食料難、また教材などの物資難で大変な時代でしたが、七高時代は、借り物の岩波文庫本などを乱読しました。哲学書などの内容はほとんど忘れましたが、戦前・戦中の困難な時代に、いかに生きるべきかを問うた三木清の「人生論ノート」などは印象に残っています。

――京大時代はどんな学生生活でしたか。

 京大もまだ旧制で3年制でした。実験の合間に京都の人でも知らないような神社仏閣や郊外を歩き回り、夏休みに帰省しない時は、信州の山登りをしていました。こうして、京都で生活するうち、また友人を通して、京都一中、三高、京大に共通したある種の自由闊達な雰囲気というか、学風に感化されたのでしょう。将来、研究者になろうとは当時思っていませんでしたが、もし研究するなら、たとえ小さなことでも新しいことをやりたい――と心に決めました。

――大学を出てからの研究の舞台は企業、大学、企業、大学と変わりました。

 いずれの場合も、三木清流に“運命”というと大げさですが、自分の意志と言うより、巡り合わせでしょう。私が、熱を伴わない発光である“ルミネッセンス”に出合ったのは、最初の職場である神戸工業(現在の富士通)でブラウン管の蛍光面を担当した時です。その時初めてこの現象に出合い、大変興味を持ちましたが、蛍光体のような多結晶粉末ではない、“光る単結晶”をやりたいと思うようになりました。1959年、創設間もない名古屋大学電子工学科に移り、ゲルマニウムの単結晶とトランジスタの研究に取り組み、60年、今日でいうゲルマニウムの気相成長を始め、“結晶”にのめり込んで行きました。ゲルマニウムの高純度単結晶は魅力的でしたが、残念ながら光りません。しかし、この仕事が縁で、これまた新設の松下電器東京研究所に招かれることになりました。そこで、それまで温めていた“光る単結晶”の研究を開始しました。LEDで、赤、緑、青のうち未到の「青色発光」の実現こそ、学生時代に心に決めた研究だと思いました。

――1989年に青色LEDの発光に成功されました。どんな困難があったのでしょう。

 窒化ガリウムは、青色LED実現の有力候補として、世界中の研究者が取り組んで来ましたが、高品質の単結晶の作製が極めて困難であるため、多くの研究者が中止したり、他の材料の研究に転向して行きました。私たちが81年に、当時としては注目すべき成果を国際学会で発表した時も全く反応がなく、「我一人荒野を行く」心境でした。そのころ、出席者の誰一人として、窒化ガリウムに関心を持つ人がいなくなっていたのでしょう。しかし、私は、たとえ一人になっても、この研究をやめようとは思いませんでした。逆に、もう一度、この研究の原点である“結晶成長の基礎”に立ち返ることを決心しました。これは、窒化ガリウム青色LEDの研究史の上で、大きな岐路だったと思っています。そして、試行錯誤を繰り返しながら、共同研究者の多大の協力を得て、1985年に高品質単結晶の作製に成功し、それを用いて、1989年にpn接合青色LEDを実現しました。

――名城大学に赴任されて18年。名城大生の印象と学生へのアドバイスをお願いします。

 長い間ずっと学部と大学院の講義を持ち、夜9時ごろまで夜間の授業もしていました。出張などの時は補講を行い、また、定期試験のあとの補習授業もやりました。今、私のいる半導体研究室には41名の大学院生がいます。学生たちは卒業時には花束を持って研究室に来て、一緒に記念撮影を求められます。こんな経験は名大ではあまりありませんでした。卒業後も、訪ねてくれるのは嬉しいですね。素直で真面目な学生が多いと思います。自分が学生時代にあまり勉強しなかったので、本来、語る資格はないのですが、学部生の皆さんに言わせてもらうなら、講義に集中することです。先生方は経験も踏まえ、理解しやすいようしっかり吟味したうえで講義に臨んでいます。もっとも、あまりに柔らかい食べ物(講義)ばかりでは、学生さんの為になりませんが――。もちろん、自分で勉強することが一番大事ですが、全てを一人で学習する場合は講義時間の20~50倍の時間は必要でしょう。まず授業に集中する習慣をつけてほしいと思います。

赤﨑 勇(あかさき・いさむ)

鹿児島県出身。京都大学理学部卒。工学博士(名古屋大学)。神戸工業(現・富士通)、名古屋大学助教授を経て松下電器産業東京研究所基礎第四研究室長などを歴任。1981年名古屋大学工学部教授、92年名城大学理工学部教授。青色発光ダイオードの基礎技術を開発し、1989年に世界初の発光に成功。C&C賞、東レ科学技術賞、朝日賞、藤原賞、ジョン・バーディン賞、京都賞などを受賞。2004年文化功労者。81歳。

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