育て達人第091回 津田 広明

2階まで達した濁流から園児の命救う   学生時代の伊勢湾台風と重なった恐怖

理工学部卒業生 津田 広明さん(宮城県石巻市石巻みづほ幼稚園園長)

 1959年(昭和34年)9月26日、東海地方を襲い5000人を超す死者・不明者を出した伊勢湾台風から52年。今回の東日本大震災被災者の中には名城大学在学中に伊勢湾台風に遭遇し、幼稚園長として幼い命を救うため陣頭指揮をした卒業生もいました。1963年に理工学部機械工学科を卒業した宮城県石巻市の津田広明さんです。

――東日本大震災では石巻市も大きな被害に見舞われました。津田さんが石巻港に近い幼稚園の園長として、必死の思いで園児たちの命を守った様子を新聞で読みました。※

「ハングリ―精神を大事にしてほしい」と語る津田さん

「ハングリ―精神を大事にしてほしい」と語る津田さん

 名城大学の1年生の時に伊勢湾台風を体験しましたが津波は経験していません。ただ、恐怖という点では一緒です。今回は幼い園児たちを助け出すのに必死でした。地震が発生した時に2階建て園舎の2階まで水につかり、脚立を使って残っていた園児11人と私達職員が屋根の上に逃げて一夜を過ごしました。翌朝、海上保安庁のレスキュー隊に救出されましたが、すでに帰宅していた園児たち8人の幼い命が犠牲になりました。 ※2011年8月19日付河北新報。記事書き出しは「石巻市の石巻工業港に近い石巻みづほ第二幼稚園(同市新館2丁目)では、東日本大震災による津波が園舎2階まで達した。津波の襲来前、周囲の道路は避難しようとする車で渋滞し、近くに高い建物もない。児童と職員は園に残るしか、すべがなかった。園にあった一つの脚立が園児ら全員の命を救った」とあります。津田さんの園児救出の様子は「名城大学きずな物語」で紹介します。

――東日本大震災で被災し卒業生たちには理工学部出身者が目立ちます。宮城県から名古屋の私立大学を選んだのはどうしてですか。

 東北地方には工学部系の大学が少なかったからです。仙台市には東北大学がありますが、私立の東北学院大学にはまだ工学部がありませんでした。東京は生活費が大変で、名古屋なら生活費も安くつくという話を聞いたのと、せっかくだから遠くに行ってみたいという気持ちもありました。さらに大きな理由は、名城大学は仙台でも受験できたことです。入学してみると北海道、山形、福島など東日本も含め全国から学生が集まっていました。

――校舎は現在の附属高校がある中村校舎ですね。

 そうです。古い建物でした。3年生の時に機械科実習館が、4年生になって北館(鉄筋4階建て)が出来て、ようやく大学らしい施設が整い出しました。卒業して2年間、機械工学科の助手をしましたが、このころには紛争も終わり、やっと落ち着いてきました。

――名城大学は学園経営のあり方などを巡り、1954年ころから10年間、紛争が続きました。入学した1959年は国会でも取り上げられるなど紛争真っ最中だったわけですね。

 そうです。理工学部の学生たちもみんなで昭和区の駒方校舎近くにあった理事長宅まで押しかけるなど大騒ぎでした。学生にとっては払った授業料に見合う施設とか教育が充実していないのではないかという不満がありました。職員にとっては待遇ですね。私が学部卒で助手になった当時の給料が9000円ほど。今でいえば9万円くらいです。紛争が終わって倍に上がり、やっと並みの給料になりました。

――当時は、おかしいことはおかしいと主張する学生が多かったということでしょうか。

 みんな良識はあったと思います。誠実さというか、学生らしさというのはありました。紛争のことは別にして、理工学部の学生たちには、何かをやろう、何かを作ってやろうという意欲が旺盛でした。

――伊勢湾台風を体験したのは入学した年の9月26日ですね。

 私は清州のアパートに住んでいましたが、あまりの強風で瓦屋根が全部吹っ飛びました。2階の部屋のガラスはみんな割れ、部屋中に散らばりました。どんどん風が入ってくるので、アパートの学生6人で、畳を上げて立てようとしては吹き飛ばされました。天井が持ち上がる瞬間、周囲にあったものが浮き上がる真空状態もおきました。屋根がなくなったわけですから身の危険を感じました。

――どのようにして避難したのですか。

 入居している学生の友人が頑張ってくれ、救助を求めて外に飛び出しました。外はとても立っては歩けない状態で、ロープを持って救助に来てくれた消防団の人たちと地面をはって進みました。避難先の清州小学校までは100メートルもありませんでしたが、風に飛ばされないよう、ロープにしがみついて進みました。校庭を横切る時はまっすぐには歩けない状態で、消防団の人たちに何度も励ましていただきました。

――名城大学の学生たちの被害状況はどうだったのでしょう。

 全体はわかりませんが、水害にあった教授が屋根の上に出て、ロウソクをつけたら引火して屋根が燃えてしまったという話は聞きました。愛知県下の大半の学生たちがそうだったように、名城大学の学生たちも勤労奉仕をしました。今でいうボランティアですね。私も1週間、名古屋大学の医学部の連中と一緒に八事にある火葬場に送られました。5、6段に重ねられた棺桶を次々に運び出して火葬炉に入れていく作業です。それを朝から晩までです。まさか、大学でそんな体験をするとは思いませんでした。

――先輩として学生たちに一言お願いします。

 今は恵まれた時代ですから、自分の課題を見つけるのが難しいかもしれませんが、ハングリー精神を大事にしてほしいと思います。伊勢湾台風では強烈な体験をしましたが、私は自動車部で全国ラリーに参加し、自動車部の連盟役員として全国の大学にも多くの友人を得ました。大学で助手をした後、2年間だけでしたが愛知県の鉄工所に勤務した現場経験も工業高校教員として大きな強みになりました。いろんな経験が大事だと思います。

津田 広明(つだ・ひろあき)

宮城県石巻市出身。1963年名城大学理工学部機械校学科卒。同学部助手などを経て宮城県立高校の教員に。1999年に県立白石工業高校長を定年退職し、現在、石巻市の石巻みづほ幼稚園園長。学生時代は全日本学生自動車連盟の副委員長を務めた。71歳。 ※津田さんについては名城大学きずな物語 「第6回 命を救った決断」「第7回 自動車部がつないだ絆」でも紹介しています。

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