育て達人第092回 遠藤 定治

教育が立ち止まっていては復興はない   学生たちの限りないパワーに期待

法商学部卒業生  遠藤 定治さん(宮城県女川町教育長)

 宮城県女川町は東日本大震災で人口約1万人のうち1割弱の町民を失い、家屋の流出や全壊が7割にも達しました。名城大学OBでもある遠藤定治教育長は、災害対策副本部長も務めながら、生まれ育った町の復興に取り組んでいます。震災の深い傷跡から復興に向けて歩み始めている女川町を訪ね、お話を聞きました。

――本来なら一般行政部局からは独立した組織である教育委員会の教育長が災害対策副本部長を兼務するというのは非常時だからですか。

「学生時代には積極的に社会事象と関わってほしい」と語る遠藤さん

「学生時代には積極的に社会事象と関わってほしい」と語る遠藤さん

 町の行政ですから総合的な対応が求められます。女川町は副町長と収入役をカットしており、教育長も行政に携わる一員だという立場でやってきました。もちろん、教育委員会は教育基本法に基づき、一般行政からは独立した教育行政を担っていますが、地域防災とか、役場としての行政としてお互いに関わり合う部分というのがあります。そうした部分では役割分担をしなければなりません。地方公務員法にも「可能な限り」とか「業務に差し支えなければ」とかという想定があり、その任(災害対策副本部長)を引き受けざるを得ません。

――名城大学での学生生活は1960年(昭和35年)から4年間ですが、どんな学生時代を過ごしましたか。

 駒方寮に2年間いました。男子寮で、学生は全国から集まっており、寮祭など楽しい思い出が詰まっています。一方では学園紛争も激しかった時代でしたので、学生会の役員もやらされ、4年生の時は副執行委員長でした。次第に学生の要望も聞き入れられるようになり、4年生の時にはある程度正常化されました。全国的には安保闘争とか騒然としていましたが、私はそうしたところには参加しませんでしたし、名城の学生たちは冷静だったと思います。

――学生時代から教員を目指していたのですか。

 私たちの時代は学生の3分の1は教職課程のお世話になりました。教職課程部の先生方がしっかりと指導して下さり、4年生の時の教育実習でも、私のように名古屋からは遠い女川町までもどらなくてもいいように名古屋市内の学校を割り振ってくれました。私が実習したのは千種区の今池中学校でした。指導していただいた今池中の社会科の先生は、教え方がていねいで指導技術が高く、しっかりした教育観を持った方でした。私の目指す教師像となりました。今池中学校はマンモス校で、1学年が20クラスあり、職員室も学年ごとにありました。そういう中で子供たちが健全に育っている。それがとても輝いて見えました。私が宮城県に戻り、最初に赴任したのが離島の中学校で、ハンデも大きかったですが、今池中での実習体験が役立ち、教育することの喜びを知りました。

――教育長としてどんな教育を目指してきたのでしょう。

 教員としての定年1年前の59歳の時、女川町教育長になりました。36年の教員人生で23年を学校現場で、13年を教育行政現場で過ごしました。教員としては島の僻地の中学校などを転々とし、教育行政では石巻市などの教育委員会で社会教育主事や社会教育課長もしました。私は子供たち一人ひとりが社会的に自立することが教育の目標だと思います。ですから、子供たちの思いを自己実現できる基礎学力を持っていること、どういう生き方をしたいかという志を持った人間になってほしいこと、そういうことが基礎ベースだと思います。そのためには、女川の子供は女川の先生が育てるという共通認識を持っていなければならないという考えでやってきました。

――宮城県の被災地では多くの小中学校が4月下旬から新学期をスタートさせる中、女川町では4月12日から学校を再開しました。

 子供たちが大変厳しい状況にあるからこそ、学校で日常のリズムを回復させたいと思ったからです。県教委としては教育条件やライフラインの整備、教員異動の猶予期間なども考えて学校再開を4月下旬と考えていたようです。しかし、私は「教育が立ち止まっては町の復興はおぼつかない」と考えました。電柱が立つのは4月下旬の予定でしたが、それまでは自家発電と電源車を使う、子供らが瓦礫の中を歩かないで通学できるためのスクールバスの確保、パンと牛乳の簡易給食の実施。いろいろな条件をクリアしていきましたが、問題は流されてしまった教科書でした。4月下旬でなければ手に入らない情勢でしたので4月に学習する分だけでもカラーコピー機で印刷する予定でした。ところがあきらめずに県にプッシュしていたら、国から「女川町の分だけ優先して出すから」と言ってくれました。様々な手を打ったことで4月初めには学校を再開できました。

――教育長であると同時に災害対策副本部長である立場が大きかったのでしょうか。

 それはあると思いました。全体像が見えていますから。

――今回の震災では、名城大学の学生たちの中には、「被災地の様子をテレビで見ているだけの自分がもどかしい」と、宮城県気仙沼市大島でのボランティア活動に出かけた学生たちもいます。後輩にあたる学生たちに一言お願いします。

 女川町にも全国から学生の皆さんがボランティアに来てくれています。力仕事で汗を流して下さる皆さんから子供の学びをサポートしてくれる方まで、たくさんの学生や高校生の皆さんが入ってくれ、大変ありがたく思っています。これから、学生にとっては社会と関わることが多く求められる時代です。学生のパワーは強い。ぜひ、積極的に社会事象と関わってほしいと思います。

遠藤 定治(えんどう・さだじ)

宮城県女川町出身。1964年名城大学法商学部商学科卒。宮城県内の教員となり、中学校勤務、石巻市教育委員会社会教育課長、小学校校長などを経て1999年から女川町教育長。大震災後は災害対策副本部長も兼務。名城大学在学中は第一法商学部駒方学生会の副執行委員長。71歳。 ※女川町の復興に取り組む遠藤さんについては名城大学きずな物語 「第8回 教育の再開なくしては復興はない」でも紹介しています。

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