育て達人第117回 岸田 陽子

女子学生第1号として充実の日々   母校の発展が本音でうれしい

名古屋専門学校初の女子学生 岸田 陽子さん(1951年卒)

 ホームページで連載中の「名城大学物語~遠い記憶を追って~」の第5回「女子大生の登場」では、名古屋専門学校初の女子学生として、津市の岸田陽子さん(82)を紹介させていただきました。名城大学女子学生のルーツでもある岸田さんは、しっかりとした記憶力で、男子学生に囲まれてキャンパスを闊歩した“マドンナ”時代を語ってくれました。

――男子学生に囲まれ、紅一点での学生生活を送られたわけですね。

「母校の発展が本音でうれしい」と語る岸田さん

「母校の発展が本音でうれしい」と語る岸田さん

 皆さんに大切にしてもらいました。10人くらいで名古屋の柳橋にあった名宝劇場に映画を見にいきました。学割で95円でしたが、皆さんで私の分を払ってくれました。丸栄の近くには赤玉会館というダンスホールがありました。昼はダンスホールですが、夜は進駐軍向けの大きなアメリカンクラブ(キャバレー)になっていました。女子学生は私だけですからダンスホールにはよく誘われました。入場料は100円。経済的にはまだまだ大変な時代でした。津市の自宅からは近鉄電車で通いましたが、朝は6時には家を出て、夕方5時40分の名古屋発の急行に乗っても家に着くのは7時20分。それでは遅すぎるので、何とか早く帰ろうと毎日が大変でした。

――名古屋専門学校入学が1948(昭和28)年。在学中の3年間では名城大学も開学するなどどんどん規模が大きくなっていったのでは。

 そうです。南山大学と名城大学はほぼ同時期にできましたが、名城はどんどん大きくなっていきました。ユニバーシティーというか、総合大学の雰囲気がありました。学生生活でも名古屋専門学校と名城大学の学生が一緒になってのサークル活動が目立ちました。3年生の時に「名城大学新聞」が創刊しましたが、新聞部の部長は名古屋専門学校の学生でした。田中壽一学長は、“ワンマン”とか“強引”とかいろいろ言われましたが、それだけ経営力があったのだと思います。田中角栄さんに似たイメージもありますかね。そうして引っ張っていった時代があって、苦労はありましたが名城もだんだん良くなり、立派な大学になったのだと思います。

――学生時代は戦後の経済復興がまだまだ大変な時代だったのですね。

 みんな貧乏学生でした。学生は全国から来ていましたが、帰省のたびに質屋に通ったり、家賃を払えなくなって退学する学生もいました。広島から来た被爆者の子もいました。早く亡くなりました。かわいそうでした。名簿を見ると、入学時から途中でかなり抜けています。夏休みは津市の私の家に皆さんがよく来てくれました。父親が土建屋だったので、経済的には恵まれていたので、お腹を空かしていた男子学生たちには食事できることがありがたかったのでしょう。みんなで津の海に繰り出して遊びました。

――学生時代のアルバムは残っていますか。

 みんな伊勢湾台風で持っていかれました。名古屋専門学校を卒業して4年間、親類が県会議員をしていたこともあって、地元選出の国会議員の秘書をしました。親からすれば行儀見習いで奉公に出すようなものです。父親の姉宅に下宿しながら、衆議院の議院会館での秘書生活でしたが、選挙に弱い議員で、選挙のたびに夜行電車で東京と津を往復しました。秘書を辞めてからはずっと教員生活でした。伊勢湾台風が津市内を襲ったのは教員時代ですが、学生時代の思い出が詰まったアルバムや、父親がそろえてくれた茶道具など大切にしていた全てを流されました。

――最近はどんな生活をしていますか。

 教員時代から車道楽で、今でも車を運転するのが大好きです。朝夕は同居する息子夫婦たちが、マイカー通勤が禁止されているため送り迎えをしています。大学に通う孫を津駅まで送るのも私の役目です。海外旅行も楽しんでいます。台湾の故宮博物院も好きですし、韓国には嫁と一緒に3回行きました。昨年、ロンドンオリンピックが終わってから、孫とイギリス旅行もしました。

――名城大学の卒業生としてメッセージをお願いします。

 私は34年前、教職関係の単位が1単位足らず、天白キャンパスを訪れたことがありますが、あまりの変わりように驚きました。今はきっと、さらに驚くほど変わっていることでしょう。ぜひ一度訪ねてみたいという思いがある反面で、やはり行かないでしょうね。駒方校舎のあった付近の昭和美術館や徳川美術館には行きますが、天白には行きにくいですよ。名城大学はもう簡単に入れる大学ではなくなりました。これだけ大学が大きくなったのは皆さんの努力があったからだと思います。本音でとてもうれしいです。大学の評判を落とすような事故とか事件が起きないようにとよく祈っています。

岸田 陽子(きしだ・ようこ)

津市出身。三重県立津高等女学校(現在の県立津高校)を経て、名城大学の前身である旧制名古屋専門学校第一部商科に入学。専門学校時代も含めた名城大学の女子学生第1号。卒業後、4年間、三重県選出で改進党所属の田中久雄衆院議員の院外秘書。その後は津市に戻り三重県立高校の教員として34年間勤務。

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