育て達人第119回 久保 全弘

整備された社会基盤は国の財産    気がつけば母校とともに50年

理工学部社会基盤デザイン工学科 久保 全弘 教授(構造力学)

 理工学部社会基盤デザイン工学科の久保全弘教授が母校となる名城大学理工学部に入学したのは1963年(昭和38年)。社会基盤建設を支える土木分野の中で、久保教授の専門は、橋梁建設などの基礎となる構造力学です。母校名城大学とともに歩んだ50年を振り返ってもらいました。

名城大学に入学した1963年当時ですと、理工学部はまだ中村校舎ですね。

 私は北関東平野の農家で育ちましたが、親の理解もあって大学に進むことができました。埼玉から名古屋の大学を選んだのは工学部の中では、東京の私大に比べて学費が安かったからです。同期で入学した約100人中、東海3県出身が4割。6割は3県以外でした。北海道からも10数人、九州からも5、6人などまさに全国から学生が集まっていました。ただ、施設はひどくお粗末で、心配して名古屋に見に来てくれた兄は「これは大学らしからぬ大学だ。高校の方がまだいい」と心配したそうです。教員も名古屋工業大学の先生たちが非常勤講師としてたくさん来ていました。名工大と同じような授業を受けることになり、さながら「名工大付属」の感じでした。

学部を卒業して大学院に進む学生はどれくらいいたのですか。

 名城大学理工学部の土木から大学院に行きたいと手を挙げたのは私が第1号でした。名城大学の大学院は商学研究科がすでに1954年(昭和29年)に誕生していますが、工学研究科の誕生は1977年(昭和52年)です。商学研究科に遅れること23年で、やっと電気、土木、建築学専攻の修士課程が開設されました。私が進んだ名古屋大学の土木工学の大学院は1959年の伊勢湾台風後に設けられましたが、旧帝大だけあってスタッフ、教授陣は充実していました。指導教官はアメリカの大学で学位を取って帰国した新進気鋭の助教授で、この先生について本当によかったと思っています。

名城大学は名古屋高等理工科講習所、名古屋高等理工科学校を前身として発足した大学でありながら、看板学部とも言える理工学部での専任教員不足や大学院の開設が遅れたのはどうしてでしょう。

 専門分野での教員不足です。その背景にあったのは、私たちが入学するまで10年近く続いた学内紛争だと思います。紛争で名城を去った教員も多く、紛争後も非常勤講師に頼らざるを得ない時期が続きました。理工学部の教員で、学位(博士号)を持っている教員は名大からきた物理など理学部系の先生が多く、技術畑出身が多い専門の先生たちに比べてそういう先生たちの発言力が強かった。私に続いて他大学大学院に進む学生も相次ぐようになり、私が名大での助手勤務を経て1972年に名城大に戻ってから、やっと大学院開設の動きが本格化しました。

東日本大震災被災地では名城大学理工学部で土木工学を学んだ卒業生たちの活躍も目立ちました。

 震災発生当時、校友会東北支部長だった野神修さん(1962年卒)は先輩ですが、気仙沼市の建設部課長だった広瀬宜則さん(1981年卒)は後輩で、震災後も復興現場の最前線で奮闘しています。さらに国交省職員などに就職した卒業生たちも入れ替わり被災地に派遣され復興を手伝っています。生活と産業を支える社会基盤は国の財産です。その土台を支えているのが土木工学であり、現在の名城大学でいうなら社会基盤デザイン工学科です。笹子トンネル天井板の落下事故に象徴されるように、これからの日本では老朽化したライフライン、社会基盤の維持管理や整備がますます重要になってくると思います。

9月1日に名城大学の研究実験棟Ⅱで開催された「橋づくりコンペ」には全国19校から200人余の学生らが参加して技術を競い、久保先生も開会のあいさつをされました。

 土木系学生たちにとっては、実践力が問われる競技大会でしたが、こうした実践的な教育や指導は大事だと思います。アメリカではコンクリート工学の実践教育として、コンクリートでカヌーを作り、湖で速さとデザインを競う大会もあります。橋づくり競技では、いくらデザインに凝っても力学的に合理的なものでないと荷重に耐えられず倒壊した橋もありましたね。私がやってきた研究はそうした力学的に合理的な構造物を作る研究です。

名城大学と50年近く関わってきての感想をお聞かせください。

 この50年、日本の社会も名古屋も大きく発展しましたが、名城大学も本当に大きく変わりました。先日、久し振りに実家に帰ったら、兄からも「入学当時の名城はすごい大学だったが驚くほど発展したな」と冷やかされました。確かによくぞここまで発展してきたと思います。紛争はありましたが、そこでの経験があったからこそみんなで頑張れた面もあると思います。私立だがオーナー大学ではない。同じ私立でも我々は国立に近いところにいるんだという思いでやってきました。私が教授になったのは1988年ですが、ゼミからは300人近くが巣立ち、20人余が名古屋大、25人近くが名城大の大学院に進みました。

「名城大学もこの50年で本当に大きく変わりました」と語る久保教授

「名城大学もこの50年で本当に大きく変わりました」と語る久保教授

久保 全弘(くぼ・まさひろ)

埼玉県出身。名城大学理工学部建設工学科土木分科卒。名古屋大学大学院工学研究科土木工学専攻修士課程修了。工学博士(名古屋大学)。名古屋大学助手、名城大学助手、講師、助教授を経て現職。学術論文に「波形鋼板ウェブ桁のせん断座屈性能」(共著)など。建設システム工学科長、学生部長、学務センター長などを歴任。2001年から硬式野球部長。

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