育て達人第148回 槇野 均

アメリカンフットボール部監督35年 「心の体力」強化を指導

経営学部 経営学科 槇野均 教授(健康学)

アメリカンフットボール部を率いて35年。東海学生1部リーグ優勝17回とチームを東海の雄に育て上げた功績で、中日スポーツ功労賞を受賞しました。部員にも、講義で教える学生にも「心の体力」強化を指導しています。

中日スポーツ功労賞受賞の感想から聞かせてください。

槇野監督と花形選手時代の写真=天白キャンパスの名友館で

槇野監督と花形選手時代の写真=天白キャンパスの名友館で

長年の指導が評価されたのでしょうが、オリンピック種目でもないアメリカンフットボールにスポットを当ててもらい、うれしい。

指揮を執るようになったきっかけは。

商学部の教員公募で採用され、1982年に体育の専任講師で名城大学に来ました。日本体育大学時代にアメリカンフットボールをしていたので、部員から「教えてください」と頼まれました。「厳しいよ」とくぎを刺し、「やるなら日本一になろうよ」と言って引き受けました。

大学、社会人を通してスター選手でしたね。

機動力が必要なオフェンスガードというポジションで、当時は東西学生選抜試合のライスボウルには3回出場しました。社会人のシルバースターに入団して、社会人の日本一になりました。アメリカ留学も経験しました。

アメリカンフットボールの魅力は。

止まっているボールを動かす緊張感がたまりません。センターがクオーターバックにボールを渡すとプレーヤーみんなが動く。静から動へ。野球で投手が投げる瞬間と同じです。

独自の指導法は。

気持ちで負けず、誰よりも低く速く走るといった「心のアスリート」をつくる練習をしています。基本を繰り返し教えます。テクニックだけ教えても勝てませんから。コミュニケーションも重視し、しつこいぐらい選手と話します。

チームを率いてうれしかったことと悔しかったことは。

90年に東海学生2部リーグで初優勝し、1部リーグに昇格ました。1部では打倒中京大学を目標にし、92年に2位、93年に中京大学を破って初優勝したのがうれしかったことの第一です。逆に、1988年、2部Aで夏合宿前に退部者が出て、差し入れのスイカを私や残った選手たちで泣きながら食べた「スイカ事件」もありました。残った選手たちで頑張りました。コミュニケーション重視はその反省からです。

教授としてはどのようなことを教えていますか。

健康スポーツ科学という講義を受け持ち、健康管理やたばこの害、障害者への配慮から、心臓マッサージ法、AED(自動体外式除細動器)の使い方まで教えています。社会に出るとハードな現実が待っています。理不尽なことにも耐えなければなりません。そのために心を強くし、自己管理できる社会人になれと指導しています。学生にも選手にも「困難を乗り越えることが心の体力になる」と言っています。

好きな言葉は。

「心の体力」とともに、「知行合一」と「感謝」です。頭で分かっていても実行が伴わなければ意味がありません。4年生が率先するという意味で、部では今年から、4年生も掃除を受け持っています。感謝とはあいさつをきちんとすることにも通じます。

どんな趣味を持っていますか。

ギターを弾くことです。加山雄三さんの曲が好きですが、フォークソングもよく弾きます。ゴルフはインストラクターの資格を持っています。妻と一緒にラウンドすることも。

最後に、今後の抱負を聞かせてください。

アメリカンフットボール部は1976年の創部以来40年を過ぎ、今年3月12日に名古屋観光ホテルで40周年パーティーを開きます。強化クラブとして応援していただいた大学や後援会、OB会、父母会の皆さんに感謝します。チームでは「5年以内に甲子園ボウルに行こう」と言っています。全日本選手権の決勝が甲子園ボウルですが、名城大学は過去6回選手権に出場しても、まだ決勝までは進めていません。そのためには打倒関西勢です。チーム名のゴールデンライオンズからとって、これまでのライオンズを超える「オーバー・ザ・ライオンズ」を合言葉にしています。

選手たちに時間を有効に使った生活を説く槇野監督=天白キャンパス第1グラウンド(アメフト場)で

選手たちに時間を有効に使った生活を説く槇野監督=天白キャンパス第1グラウンド(アメフト場)で

槇野 均(まきの・ひとし)

北九州市出身。1976年、日本体育大学健康学科卒業。76~78年、同大学トレーニングセンター研究員。78~79年、アメリカ・リンカーン大学留学。82年、名城大学商学部専任講師。91~92年、在外研究員としてアメリカ・アイオワ大学留学。現在、名城大学経営学部経営学科教授。

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