ナノサイエンスの先駆者・飯島澄男終身教授
ナノサイエンスの先駆者・飯島澄男終身教授
ナノサイエンスの先駆者・飯島澄男終身教授
プロフィル・略歴
1963年 | 電気通信大学電気通信学部電波通信学科卒業 |
1965年 | 東北大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程修了 |
1968年 | 東北大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了 |
1968年~1974年 | 東北大学科学計測研究所助手 |
1970年~1982年 | 米国アリゾナ州立大学固体科学研究センター研究員 |
1979年 | 英国ケンブリッジ大学客員研究員 |
1982年~1987年 | 新技術開発事業団(現 科学技術振興機構) 創造科学推進事業 林超微粒子プロジェクト 基礎物性グループ グループリーダー |
1987年~ | NEC特別主席研究員 |
1999年~ | 名城大学教授 |
2001年~2015年 | 独立行政法人 産業技術総合研究所 ナノチューブ応用研究センター長 |
2005年~2012年 | 成均館大学(韓国)ナノテクノロジー先端技術研究所所長 |
2007年~ | 名古屋大学 特別招へい教授 |
2010年~ | 名城大学終身教授 |
2015年~ | 国立研究開発法人 産業技術総合研究所 名誉フェロー |
アカデミー会員(国内)
日本学士院会員
アカデミー会員(海外)
米国科学アカデミー(NAS)外国人会員
ノルウェー科学人文アカデミー外国人会員
中国科学院外国人会員
名誉会員等(国内)
日本結晶学会名誉会員
日本顕微鏡学会名誉会員
日本応用物理学会フェロー
日本化学会名誉会員
電気通信大学特別栄誉教授
日本物理学会名誉会員
応用物理学会名誉会員 その他
名誉会員等(海外)
米国物理学会フェロー
英国王立顕微鏡学会名誉会員
アントワープ大学名誉博士
スイス連邦工科大学ローザンヌ校名誉博士
西安交通大学名誉教授
北京大学名誉教授
米国顕微鏡学会フェロー
清華大学名誉教授
浙江大学名誉教授
上海交通大学名誉教授
アールト大学(フィンランド)名誉教授
華中科技大学顧問教授 その他
主な受賞歴
1976年 | バートラム ワーレン賞(米国結晶学会) |
1985年 | 仁科記念賞(仁科記念財団) |
1997年 | 朝日賞(朝日新聞社) |
1999年 | つくば賞((財)茨城県科学技術振興財団) |
2002年 | マックグラディ新材料賞(米国物理学会) アジレント欧州物理学賞(欧州物理学会) フランクリンメダル・物理学賞(フランクリン協会) 恩賜賞・日本学士院賞(日本学士院) |
2003年 | 文化功労者顕彰(日本政府) |
2004年 | 科学技術功績メダル(米国炭素学会) |
2007年 | グレゴリー・アミノフ賞(結晶学)(スウェーデン王立アカデミー) 第48回藤原賞((財)藤原科学財団) 2007 バルザン賞(ナノサイエンス部門)(国際バルザン財団) |
2008年 | カブリ賞(ナノサイエンス部門)2008(カブリ財団) アストゥリアス皇太子賞(科学・技術部門)2008(アストゥリアス財団) |
2009年 | 文化勲章(日本国天皇) |
2015年 | 欧州発明家賞「非欧州部門」(ヨーロッパ特許庁) ダイアモンドとカーボン材料賞2015(ダイアモンドとカーボン材料国際会議) 西川賞(日本結晶学会) |
2016年 | 21世紀発明奨励賞(公益社団法人日本発明協会) |
国際会議「CNT25」基調講演
カーボンナノチューブ発見25周年で国際会議
飯島終身教授が基調講演
基調講演する飯島澄男終身教授=東京都千代田区のイイノホールで
カウピネン教授(左)からサプライズのプレゼントをもらう飯島氏
飯島澄男終身教授が1991年にカーボンナノチューブ(CNT、筒状炭素分子)を発見してから25周年になるのを記念した国際会議「CNT25」が11月15日から18日まで、東京で開催されました。開会セッションは初日に東京都千代田区のイイノホールで開かれ、飯島氏は基調講演を流暢な英語で行いました。
基調講演者の紹介で、飯島氏のナノサイエンス関係の論文の引用が世界的に増えている現状が示されました。飯島氏は「Discovery of carbon nanotubes and beyond(CNT発見とその後)」と題して講演しました。
飯島氏は高分解能電子顕微鏡による炭素分子の研究がCNT発見のベースになったことを時系列で解説しました。サッカーボール状の炭素分子、フラーレン(C60)が1985年に発見され、発見者の3人は1996年にノーベル化学賞を受賞しましたが、飯島氏が撮っていたC60のタマネギ状の電子顕微鏡写真が、推定された分子構造に対する唯一の科学的裏付けとなったことを示しました。C60の分子構造は、日本の魚捕獲用かごで見られる五角形、六角形、七角形の網目の組み合わせと類似していることも図示しました。
CNTは直径1mmのワイヤで1tの自動車をつり上げられるほどの引っ張り強度があるなどすぐれた機械的特性をもちます。その実用化について飯島氏は「決定的なものはまだありませんが、あとわずかだと思う」と、集まった各国の大学や研究機関、企業の研究者に期待をかけました。
質疑応答では、飯島氏がCNTの発見をセレンディピティ(serendipity、偶然の幸運)と言っていることの真意を尋ねる質問が上がりました。飯島氏は「科学史に残る偉大な発見の半分以上は偶然の発見ですが、発見にはオープンマインドの姿勢をもつことが重要です」と答えました。
飯島氏は2014年からフィンランドのアールト大学名誉教授でもあります。同大学からは、ヨーロッパのCNTの応用研究の第一人者でもあるエスコ・カウピネン教授が来日し、産業応用に関する研究発表を行いました。同教授は発表後、ステージ上で飯島氏にプレゼントを手渡しました。事前に知らされていないサプライズの演出で、飯島氏は感激していました。
CNT25で一緒に写真に納まる(右から)湯村氏、飯島氏、畠氏
飯島氏は国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)ナノチューブ応用研究センター長を2001年から2015年まで務めました。飯島センター長の下で応用研究をした湯村守雄氏(産総研ナノチューブ実用化研究センター首席研究員)と畠賢治氏(産総研ナノチューブ実用化研究センター長)もCNT25に出席しました。湯村氏は主催者側の実行委員、畠氏はカウピネン教授同様、産業応用に関する研究発表を行いました。
両氏には事前に、茨城県つくば市の産総研で実用化の現状と飯島氏の人となりについてインタビューしました。
湯村氏は1991年に飯島氏がネイチャー誌にCNTの発見を発表した翌年、産総研で開かれた講演を聞いてCNT量産技術研究への道を決めました。化学工学が専門で、炭素物質の中からきれいなCNTを分離する研究を続け、CVD法というやり方で1999年に日産200gの多層CNTを作れるようになりました。
産総研では、2000年度に量産法を専門的に研究する組織としてCNTの研究センターの設立を計画し、飯島氏にセンター長就任を依頼。センターは2001年1月に新炭素系材料研究センター(2008年4月にナノチューブ応用研究センターに名称変更)として正式に発足し、湯村さんは総括主任研究員、副センター長として支えました。
「スタッフは、飯島氏の知名度を利用して一騎当千の研究者を集めました。その1人が畠さんです」と湯村氏は紹介しました。
畠氏はアメリカのハーバード大学のポスドク時代、職を求めて産総研に履歴書を出したら飯島氏の目に留まったといいます。「採用に際して、アメリカのトップの研究室に行ったのに成果を出していないという指摘があったそうですが、飯島さんは逆に、産総研で爆発すると思ったといいます」と畠氏。飯島氏は畠氏の可能性を汲み取り、畠氏もそれに応えて2004年、スーパーグロース法と呼ぶ単層CNTの量産方法を開発しました。化学メーカーの日本ゼオンは2015年11月、山口県周南市に単層CNTの世界初の製造工場を建設、稼働させました。スーパーグロース法がその技術の基盤になっています。同社は2016年11月、ゴムに炭素繊維と少量の単層CNTを混ぜた複合材シートの製品化にこぎ着けたと発表しました。
飯島氏の人となりについて湯村氏は「集団をまとめる農耕型ではなく、面白い研究対象を自分で見つけて単独でも山に分け入る狩猟型」と表現します。畠氏も同様の見方です。「ナノチューブ応用研究センターには約100人の研究者がいましたが、飯島さんは言葉でぐいぐい引っ張っていくタイプではなく、研究している自分の背中で引っ張っていくタイプ」と評します。「飯島さんと話すと元気をもらえ、前向きになれる。研究者のイデア(本質)のような人」とも語りました。
ノーベル賞の期待がかかる飯島澄男終身教授 今も獲物を追う
今年のノーベル賞は物理学賞が10月3日、化学賞が翌4日に発表されます。本学では、2014年の物理学賞を赤﨑勇終身教授・特別栄誉教授が受賞したのに続き、飯島澄男終身教授と吉野彰理工学研究科教授に期待がかかります。メディアも注目し、取材依頼が入っています。飯島教授に天白キャンパスの研究室で近況を尋ねました。獲物を追うハンターのように、今もユニークな研究をやっているようです。
―――1991年にカーボンナノチューブ(CNT、筒状炭素分子)を発見してから26年たちました。
グーグルに論文引用数サイトがあり、今も私の論文がけた違いに多く引用されているのが分かります。基礎科学は文化のバロメーターと言われますが、基礎科学のすそ野拡大に貢献していると思います。
―――CNTの可能性は。
いろいろありますが、安価で使いやすくないと、たくさんある競合材料には勝てません。スマートフォンのスクリーンに使われたこともありますが、とてもコストが合いませんでした。良質なだけではダメなのです。
―――今後の予定は。
日本、中国、韓国3国のCNT研究者の会議が中国の蘇州であります。科学雑誌「Nature」が日本のカーボン研究の動向をまとめた特集を出すというので、メールでのインタビューに答えました。その刊行を待っています。
最近の語録をまとめました。
2016年6月3日、吉久光一学長との対談で
大学時代は山登りやオーケストラで音楽ばかりやっていました。若い頃は自分が将来何をやろうかと考える時期であり、急ぐことなく興味あることにチャレンジしたらいいと思っています。私は大学4年生の夏休みが終わってから物理の材料研究をやろうと決め、それからは一直線に突き進みました。好きなことには打ち込めますから、若い人にはぜひ自分の一番得意なものを見つけてほしい。 もし失敗したら、 戻ってまた出直せばいいのです。その勇気が大事です。
2016年9月20日、新聞記者の取材に答えて
理論屋ではなく、私は典型的な実験屋。未知の世界を開くのは楽しい。
カーボンナノチューブは、20年 の年季で見つけました。電子顕微鏡の経験、体験、知識、いろいろなものがないと発見できません。私は東北大学大学院の初めから電子顕微鏡の技術を磨いてきました。電子顕微鏡は1932年にドイツで発明され、分解能を高めてきました。私が飛び込んだころは機が熟していました。大学院時代は金属原子を観察していました。金属が炭素に変わりましたが、解釈は熟知していました。
子どものころは虫捕りに熱中しました。高校時代は地学部にいました。中学時代から、科学の面白さを教えてくれた理系の先生に引かれました。電気通信大学時代は岩登りをしました。
研究者人生を振り返ってみると、自分はうまいこと選択肢を選んできたと思います。
2016年11月15日、CNT発見25周年を記念した国際会議「CNT25」で、CNTの発見を自らセレンディピティ(serendipity、偶然の幸運)と言っていることの真意を尋ねられ
科学史に残る偉大な発見の半分以上は偶然の発見ですが、発見にはオープンマインドの姿勢をもつことが重要です。
2017年6月6日、本学広報用のインタビューで
今年は15人の学生がつきました。学生には好きな研究分野を見つけるように指導しています。好きなものが見つかれば、放っておいても研究しますよ。適材適所も大事です。
研究者はまず好奇心がなければなりません。
インタビュー(2015年8月24日)
カーボンナノチューブ(筒状炭素分子)の応用研究が国内外で活発になっているが、その発見者は名城大学大学院理工学研究科の飯島澄男終身教授。文化勲章を受章し、国際的な賞を数々受けている飯島教授に天白キャンパスの研究室で近況を伺った。
―――多忙さは変わらないと思いますが、最近はどんなペースで生活していますか。
「週のうち4日は名古屋、1日は筑波といったペースでした。産業技術総合研究所(茨城県つくば市)のナノチューブ応用研究センター長の仕事は3月で終わりましたので、これからは名城大学に集中できます。日本学士院会員なので、東京・上野の日本学士院には月1回の例会に出席します。名古屋大学の特別招へい教授も務めているので、名大にも指導に行きます」
―――多趣味だとか。
「母校の電気通信大学オーケストラ部時代に始めたフルートは、今でも研究の合間に息抜きに楽しみます。1997年、ロンドンの英国王立研究所で開かれた『金曜講話』に招かれた際は、講演の冒頭で「グリーンスリーブス」を4小節だけ演奏し、喝采を浴びました。年1回、富士山麓・山中湖畔の音楽ペンションで開く大学オケ仲間の演奏合宿は欠かしません。高校の山岳部時代に覚えたスキーも現役で楽しんでいます。今春は韓国での学会に出席した際に滑りました。オーストリアのチロルで毎年開かれる研究会に参加すると、午前中は仕事をして午後はスキーです。大学時代は山岳部にも所属し、岩登りをしていましたが、今は山登りはあまりしません。渓流釣りもやります。トラウト釣りです」
―――子どものころは自然に親しんだとか。
「自然をこよなく愛し、動植物の観察、収集をして育ちました。私たちの同年代の人に共通しますが、ラジオ少年でした。ラジオを組み立てたり、飛行機や船の模型工作に没頭したりしました」
―――少年時代から好奇心旺盛だったんですね。
「旅行も好きです。知らない所に行くことが楽しみです。名城から出るときは休養に行くようなものです。海外出張は疲れません。むしろ息抜きです。リュックを背負ってどこへでも出かけます。洗濯物は1日で乾くので、余分な衣類は持っていきません。不要なものをそぎ落としていくと、デイパックに収まります。今年はインド、スリランカとデンマークに行ってきました」
―――研究の信条、座右の銘、愛読書を教えてください。
「研究者としては行動派です。座右の銘は特にありませんが、強いて言えばチャレンジかな。読書は乱読です。最近読んだ本で面白かったのは、『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』です。第2次世界大戦の戦中・戦後に日本軍のスパイとして中国で活動した兵士の息子が書いた本です。深谷さんは中国当局に逮捕され、1978年の日中平和友好条約締結に伴う特赦で帰郷しました。この条約の締結直前に訪中し、中国の研究者と交流したことがあるので、時期的に重なる出来事として興味深く読みました。中国訪問は丸?進先生(名城大学名誉教授、元学長)が団長でした。2012年からは中国科学院の会員です」
―――高度な電子顕微鏡の技術をもつエキスパートでもありますね。
「独創性のある研究をしなければならない。それを如何に行うか。私は1970年から82年までアメリカのアリゾナ州立大学で研究員をして過ごしました。この間に、物質構造を原子レベルで解明する高分解能電子顕微鏡技術を世界に先駆けて開発しました。物質は小さくすると、違った性質が出てきます。それを追求するのがナノサイエンスです。私は電子顕微鏡で原子の姿を見ることに魅せられてその改良と観察技術を磨いてきました。肉眼では見えないものが電子顕微鏡だと見える。これは面白いと。例えば、いい鉄材を作るには闇雲にやっても効果がない。原子のレベルで評価しなければならない。名古屋地域は自動車産業などが競って研究をしていました。名城でも、丸?先生や下山宏先生(名誉教授、元学長)が電子顕微鏡の装置開発で日本を先導していました」
―――名城との最初の関わりは。
「1982年に帰国し、新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)の第1回ERATO(創造科学技術推進事業)研究プロジェクトに参加し、4号館3階で超微粒子の研究をしていました。その時、安藤義則先生(名誉教授)、大河内正人先生(元理工学部材料機能工学科教授)、坂えり子先生(理工学部応用化学科教授)とも交流ができました。87年、NECに入社し、当時、川崎市の宮前平にあった基礎研究所の主管研究員(後に主席研究員・特別主席研究員)になりました。家族を名古屋に置いての単身赴任です。名城大学の物理の非常勤講師として日曜日に名古屋に帰って学生実験を教えていました」
―――1991年のカーボンナノチューブ発見までの道のりを教えてください。
「六角形と五角形を組み合わせたサッカーボールのような原子構造のフラーレン(C60)というものを研究しようとしていました。90年に発表されたC60の大量合成法では、2本の炭素棒電極間の放電(アーク放電)でC60が発生するのですが、当時、安藤先生が進めていた実験で使われていた陰極の炭素棒の上に、堆積した炭素のススのようなものを見つけました。その中に細長い針のような、これまでに見たことのない物質がありました。C60よりこっちの方が面白い。大学院生の時に細長い物質を調べた経験やアメリカ時代の経験があったので、チャンスをつかんだのです」
―――かねがね、発見には、好奇心、観察技術、観察力、知識に加えて、機会に恵まれることの5条件を挙げられています。セレンディピティ(serendipity、偶然な幸運)という言葉も使っています。これらの条件を備えた上で幸運の女神の前髪をつかんだということですか。
「セレンディピティには掘り出し上手という意味もあります。目利きでないと本物は見抜けません。掘り出し物に気が付きません。チャンスは自分でつかむものという意味で、趣味のフライフィッシングに似ています。じっと釣り糸を垂れていては何も釣れません。魚のいる所を見つけて歩かなければならないのですから」
―――カーボンナノチューブは、目につく範囲でどの程度実用化されていますか。
「スマートフォンのタッチパネル、ディスプレー用パネル、小型エックス線発生装置などがあります。カーボンナノチューブはフレキシブルなので、曲げても壊れないトランジスタも開発されました。ただ、材料が高価でコストが高くつくのが難点です」
―――これまでの研究環境で、最も恵まれたことは何ですか。逆に、苦労したことは何ですか。
「世界一の環境にいることができ、不満はありません。苦労した点といえば、職場を度々変えたことです。ずっと同じ職場で持ち上がった研究者とは勝手が違いました。ただ、職場を変わることでゼロからの出発となり、背水の陣で研究してきました。これが私のエネルギーかもしれません」
―――学生に一言。
「チャレンジしてほしい。だめなら元に戻ってまた挑む。一番面白いことを見つけてほしい。自分に適った、エネルギーを100%つぎ込めるテーマを大学4年間のうちに見つけてください」
飯島 澄男(いいじま・すみお)
埼玉県生まれ。東京都立上野高校、電気通信大学卒、東北大学大学院理学研究科博士課程修了。アメリカのアリゾナ州立大学で12年間研究。1991年にカーボンナノチューブを発見。99年から名城大学理工学部教授。NEC中央研究所特別主席研究員、産業技術総合研究所名誉フェロー。ベンジャミン・フランクリン賞、恩賜賞・日本学士院賞、藤原賞、アストゥリアス皇太子(スペイン)賞、カブリ賞(ノルウェー出身の実業家フレッド・カブリ氏と同国政府が創設した賞)などを受賞。2009年、材料科学の研究で優れた業績を挙げたとして文化勲章を受章。
名城大学はカーボンナノチューブ発祥の地
飯島澄男終身教授に試料を提供した安藤義則名誉教授
「名城大学はカーボンナノチューブ発祥の地」
飯島教授との関わりを書いた本学退職記念誌を手にする安藤義則名誉教授=8号館で
飯島澄男終身教授は1991年、本学理工学部の安藤義則名誉教授(当時は教授)からもらった炭素の試料をNECの電子顕微鏡で調べてカーボンナノチューブ(CNT)を発見しました。それゆえ、安藤氏は「名城大学はカーボンナノチューブ発祥の地」と宣伝しています。安藤氏が本学を訪れた機会に8号館でその経緯を聞きました。
―――飯島教授は、名城大学で行われていた「超微粒子の物性」に関する新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)の5年間のプロジェクトで多くの成果を挙げた後、同プロジェクト終了後の1987年にNEC基礎研究所に移りました。しかし、名古屋に家族がおられたため、月に1度、名古屋に帰宅するのに合わせて、日曜日に行われていた理工学部2部の物理実験の非常勤講師をお願いしました。1991年4月からそれが実現し、私とペアで実験を担当しました。
1990年にフラーレンの大量作製法が発表されたのをきっかけに、世界中にフラーレン・フィーバーが起きていました。フラーレンとは、サッカーボールのように、6角形と5角形の環が並んだ球形の炭素で、1985年に発見されました(発見した3研究者は1996年にノーベル化学賞を受賞)。理工学部の私の研究室では、フラーレンの大量作製に適した装置があったので、その装置を用いてフラーレン大量作製の実験をしていました。1991年4月に、飯島教授は私の研究室の装置を見て、「自分は今さらフラーレン研究を後追いする気はないけれど、ここにある電極にくっ付いているのもカーボンだよね。これを持って行って高分解能透過型電子顕微鏡(HRTEM)で調べてみてもいいですか」と尋ねました。それは、フラーレン作製の使い古しの黒鉛電極(陰極)で、先端に炭のような堆積物が数mmの厚さに付着したものでした。私にとっては単なる廃棄物でしたが、1980年台初頭から種々のカーボンのTEM像を調べてきた飯島教授にとっては全く違って見えたのでした。
飯島教授は、この年の5月にその試料の中からカーボンナノチューブを発見しました。7月の終わりごろ、私は飯島教授と一緒に日進市にある名城大学のテニスコートに行く車中で、「この前の試料はたいへん面白く、今まで見たこともないファイバー状のカーボンがたくさんできていたから、もっといろいろな条件で作ってみてくれませんか」と頼まれました。飯島教授にとっては、私の研究室にあった使い古しの炭素電極はまさに宝の山だったのです。―――
カーボンナノチューブ発見の論文は、その年の秋の「ネイチャー」誌に掲載されました。最後の謝辞には「I thank Y. Ando for the carbon specimens(試料).」と明記されました。
飯島氏はこの業績を、思いもよらない発見という意味で「セレンディピティ(偶然な幸運)」と言っています。しかし、それは特別に限られた人にしか成し遂げられない快挙だったのです。
飯島教授は1999年に本学の教授となりました。本学は飯島教授のカーボンナノチューブと赤﨑勇終身教授・特別栄誉教授の窒化物半導体を融合した「ナノファクトリー」を打ち立てようということで、2002年、文部科学省の「21世紀CEOプログラム」に応募し、電気電子・情報分野で全国20件の一つとして採択されました。飯島教授をプロジェクトリーダー、私がサブリーダー、天野浩特別栄誉教授(当時は理工学部教授)がチーフを務めました。ナノファクトリーの実験施設は、現在共通実験棟IIが立っている場所にありました。その後、設備は11号館と14号館に移動し、今も活発に研究が続けられています。
飯島教授の研究協力者、坂東俊治教授(左)と丸山隆浩教授(右)=研究実験棟IIで
飯島教授の本学での研究には、理工学部応用化学科の坂東俊治教授と丸山隆浩教授(学科長)が「研究協力者」として関わっています。
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