特設サイト第4部 第2回 「快足飛燕」と呼ばれた学生部長

  • 学生部長就任直前の1973年3月15日に撮影された土井教授(中央)。通学用の車が目立ちます。
    学生部長就任直前の1973年3月15日に撮影された土井教授(中央)。通学用の車が目立ちます。

土井武夫氏の教授就任

  • 土井教授も設計に加わったYS-11機(各務原市のかかみがはら航空博物館で)
  • 土井教授も設計に加わったYS-11機(各務原市のかかみがはら航空博物館で)
  • 土井教授の思い出を語る杉村教授
  • 土井教授の思い出を語る杉村教授

「音速滑走対体」が全国から注目された名城大学には、戦後初の国産旅客機YS-11の開発に参加した土井武夫氏(1904~1996)も教授に迎えられました。音速滑走対体に挑戦した小澤久之亟(きゅうのじょう)教授(1905~1988)は重爆撃機「飛龍」の設計者ですが、土井教授も戦時中、戦闘機「飛燕」など多くの戦闘機を生み出したことで知られ、名城大学には小澤教授と同じ理工学部交通機械学科の教授として1966年に就任しました。
理工学部の杉村忠良教授(航空工学)は1968年から助手として、母校でもある名城大学での教員生活をスタートさせました。小澤教授はすぐに3 回目の理工学部長(1969年4月~1971年3月)、学長(1971年4月~1972年3月)となったため、杉村教授は、小澤教授が担当するゼミ生の卒業研究等の指導をしながら、「航空工学の分野では大先輩である土井教授から教員として育ててもらった」と言います。土井教授は1971年からは交通機械学科長に就任、さらに1973年7月から1977年3月まで4年近くにわたり学生部長を務めました。
土井教授が担当した講義は「材料力学」。杉村教授は土井教授について、「とにかく努力家でエネルギッシュな先生。授業は厳しく、企業に入ってからも身になる学問とはこういうものだといわんばかりの迫力がありました」と語ります。黒板にチョークで書き込んでは上着の袖で消し、また書き込んでは消しているうちに、袖が真っ白になるほどでした。

杉村教授は、「育て達人 第132回」でも紹介しています。

「飛龍」と「飛燕」

  • 小澤教授が設計した「飛燕」(かかみがはら航空博物館の展示から)
  • 小澤教授が設計した「飛龍」(かかみがはら航空博物館の展示から)
  • 土井教授が設計した「飛燕」(同)
  • 土井教授が設計した「飛燕」(同)

小澤教授と土井教授はともに東京帝国大学工学部卒ですが、小澤教授は船舶工学科卒、土井教授は航空工学科卒です。土井教授の同期生8人は宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」のモデルとなった零戦の設計者である堀越二郎氏や、戦後、日本航空学会会長も務めた航空機設計者の木村秀政氏ら日本を代表する航空機設計者たちです。堀越氏は小澤教授と同じ三菱重工名古屋航空機製作所、土井教授は川崎造船所飛行機部に入社、それぞれ飛行機設計に関わっていきます。
川崎時代の土井教授には、その豪快な人柄を象徴するようなエピソードが数多く残されています。川崎航空機岐阜工場試作部長時代、土井教授は「飛燕」の設計開発に対して1943年に陸軍大臣から表彰されていますが、副賞である賞金額は1万5000円。大学出の月給がまだ80円の時代ですから大変な大金でした。土井教授は「社長の了解を得たうえで」として、自著『飛行機設計50年の回想』に次のように書き残しています。「岐阜工場には試作部以外の課長が65人おり、試作部には係長以上が35人いたので、これらの人々に100円の国債を1枚ずつ配り、残り5000円で試作部全員を3つに分け、3日間にわたり飲んでしまった」。
土井教授は小澤教授より1学年上で、所属した会社こそ異なりますが日本の航空史に名を残す名機を次々に設計しました。しかし、戦争が終わった1945年11月、GHQ(連合国占領軍総司令部)により、日本では民間機の航空活動も含め、航空機の生産・研究・実験を始めとする一切が禁止となります。大学の航空学科及び航空研究所などもすべて廃止され、航空機製造禁止の「空白の時代」は7年間におよびました。
飛行機設計に関われない中、小澤教授は1948年から名城大学の教壇に立ちました。一方の土井教授は、神戸の町工場でリヤカーを作る仕事をするなどして食いつないだ後、川崎に復帰し、旅客機「YS-11」など飛行機の設計に関わり続けました。川崎を定年退職し、小澤教授の就任から18年後の1966年から名城大学の教壇に立ちました。

土井武夫教授と小澤久之亟教授の足跡

土井 教授 小澤 教授
出生地 1904年10月31日 山形市 1905年4月22日 名古屋市
高校 1924年 山形高等学校理科甲類卒業 1926年 第八高等学校科甲類卒
大学 1927年 東京帝国大学工学部航空工学科卒業 1930年 東京帝国大学工学部船舶工学科卒業
入社 1927年4月 川崎造船所飛行機部 1930年4月 三菱重工業名古屋航空機製作所
海外滞在 1931年5月~32年10月
ドイツを中心にヨーロッパ
1938年11月~40年7月
朝鮮、満州、中華民国、仏、伊、独、英、米国
設計機 「屠龍」「飛燕」など 重撃機「飛龍」など
戦後の仕事と名城大学時代 1950年~57年 川崎製鉄計量器工場研究課長
1957年 川崎航空機工業岐阜工場技術顧問
1958年~59年 財団法人輸送機設計協会でYS-11の艤装主任として基礎設計に従事
1963年 YS-11完成で科学技術長官賞受賞
1966年 名城大学教授
1971年 交通機械学科長
1973年~77年 学生部長
1948年 名古屋専門学校教授
1949年 名城大学教授
1958年~63年 理工学部長
1965年~67年 理工学部長
1969年~71年 理工学部長
1970年11月~71年3月 学長事務取扱
1971年~72年 学長
名城大学退職 1977年3月 1978年3月
没年 1996年12月24日 92歳 1988年12月14日 83歳

スーパーカブで通学

  • 学生時代を語る岩室さん
  • 学生時代を語る岩室さん
  • 岩室さんの学生時代と通学用のカブ
  • 岩室さんの学生時代と通学用のカブ

名城大学理工学部交通機械学科の教授となった土井教授は1971年4月に学科長、73年6月には学生部長に就任します。69歳の時です。土井教授が学生部長就任早々に取り組んだのが学生の車通学の禁止でした。
理工学部電気工学科を1970年に卒業した岩室隆さん(名古屋市南区)は、2年生からは中村校舎から完成したばかりの天白キャンパス2号館で学生生活を送りました。
岩室さんたちの学生時代、公共交通機関を使った通学は、市バスで八事まで出て歩くか、「名城大学前」まで乗り入れる名鉄バスを利用するしかありませんでした。南区の自宅から岩室さんの通学の足はホンダスーパーカブ。50㏄ですが、自宅から30分足らずで通学できる頼もしい愛車でした。しかし、雨の日は八事までバスできて舗装されていない坂道を大学まで歩くしかありませんでした。バイクは山土の道はドロドロになり立ち往生してしまうこともありました。このため、車で通学する学生は増える一方でした。
岩室さんが卒業した1970年当時、すでに法、商学部、理工学部、農学部がそろった天白キャンパスは車で通う学生たち増え始めていました。構内には車があふれ、交通事故対策も迫られる事態になっていきます。1970年7月に発行された「名城大学理工学部同窓会報」第7号の「編集後記」に、学生の車の多さを嘆く教員の記事が載っていました。

最近、学生が乗用車で大学に通学するのが増え、臨時駐車場まで作りましたが、益々増加していく様子。一日の講義が終わる4時ごろともなると大学のメーンストリートは車で渋滞し、大学前の国道に出るまで十数分はかかる有様。そのたびに信号機を眺めながら感じるのは信号機の動作が交差点とマッチしていないように感じられる。車の動きは進めか止まれの2進であるのに、信号機が赤青黄の3進であるため、交差点でのトラブルと、かえって車の動きを鈍らせているように思われます。

マイカー通学を禁止

  • 土井学生部長時代に学生課職員だった牧田さん
  • 土井学生部長時代に学生課職員だった牧田さん
  • 正門前の坂道にある警備ボックス。土井教授の提案で作られました。
  • 正門前の坂道にある警備ボックス。土井教授の提案で作られました。

地下鉄鶴舞線が八事駅まで開通したのは1977年3月18日。塩釜口駅を利用できるようになるのは赤池駅まで開業した1978年10月1日からです。1978年度の「名城大学要覧」には、学生の自動車通学の禁止規制につい明記されています。「本大学においては、Ⅰ部学生の自動車通学を全面的に禁止し、Ⅱ部学生に対しても大学構内への乗り入れを厳重に制限している」。
土井教授が1973年7月16日付で学生部長に就任し、さっそく取り組んだのは学生のマイカー通学の禁止でした。名城大学商学部を1969年に卒業し、商事会社勤務を経て1972年10月から名城大学に就職、学生課職員となった牧田一幸さん(名古屋市中川区)も土井学生部長のもとでマイカー通学問題に取り組むことになりました。
牧田さんによると、土井教授は、持ち前のバイタリティーを発揮して、学生部長に就任した半年後には学生のマイカー乗り入れの規制措置をまとめあげました。就任直後、大学は夏休みに入っていましたが、学生部職員たちを電報で呼び出し、規制計画をまとめる作業を進めました。土井教授は「みんなの熱が入っているうちに決めてしまわなければ」「仕事も遊びも中途半端はだめだ」というのが口ぐせで、仕事に対しては厳格でした。
学生の車の乗り入れに対し、土井教授は「これはもう社会問題だ」と、毅然と禁止の方向を打ち出しました。そして、規制を実施するにあたって土井教授は、正門前と東門前に警備員詰所を設けました。「監視のチェック機能がないと、いくら規制しようとしても名ばかりとなりかねない。炎天下や雨でも、警備の人が常駐するボックスは絶対必要」という判断からでした。
しかし、全国的に全共闘運動など学生運動の嵐が吹き荒れ、学生自治をめぐる問題が深刻化していたこともあり、名城大学の法人側は警備員詰所の設置に難色を示しました。しかし土井教授は、「建設費用は自分が立て替えても構わない」とまで言い切って、計画を推し進めました。この正門と東門の警備員詰所は現在もそのまま設置されており、初めて大学を訪れる人たちの案内所役も果たしています。
こうして、名城大学では1974年4月から、学生のマイカー通学は禁止されました。ただ、第Ⅱ部(夜間)の勤労学生に限っては許可証を出して乗り入れを認めるとともに、通学の足を確保するために最寄駅からのシャトルバス便も設けられました。

体育館建設を優先

  • 図書館本館より優先して建設された体育館
  • 図書館本館より優先して建設された体育館
  • キャンパスで演奏会を開く学生たち(1978年度大学要覧から)
  • キャンパスで演奏会を開く学生たち(1978年度大学要覧から)

土井教授は駐車場問題と並行して新体育館の建設も実現させました。牧田さんによると、学内では「図書館建設を優先すべきだ」という声が多数派だったそうです。しかし、土井教授は「図書館本館はなくても、法、商学部にも理工学部にも分館がある。体育館がないために、雨が降れば体育の授業が成り立たない状態は放置できない」と、体育館建設を優先させます。設計屋らしく自分で設置位置の図面を引き、段ボールでキャンパスの模型を作り教授会に示しました。体育館建設は体育会系クラブの学生たちにとっても悲願でした。
土井教授は、学生たちが困っていることには可能な限り応えました。学内に演奏活動用の練習場がなく、近くの中京大学に出向くなどしていた軽音楽部の活動場所を確保することでも動きました。教授たちの理解を得るために、教授会が開催される毎週木曜日昼には、グリーンパークと呼ばれたキャンパスの一角で学生たちに野外コンサートを開かせました。放送部の協力申し出もあり、コンサートは名城大学の名物風景として定着していきます。
1975年には硬式野球部が愛知大学野球リーグで22年ぶりに優勝。東京の神宮球場での全日本大学野球選手権大会に出場した際にも、土井教授は裏方に徹しながらも、東京への応援団派遣や名古屋観光ホテルでの祝勝会開催に奔走しました。

自治会看板に「名誉学生部長」

  • 「「努力の人生」の色紙と土井教授(交通機械学工学科の「40年の歩み」より)
  • 「努力の人生」の色紙と土井教授(交通機械学工学科の「40年の歩み」より)

牧田さんによると、間もなく70歳に手が届こうとする土井教授が学生部長に担ぎ出されたのは、名城大学でも激しさを増していた学生運動への対応のためでした。当時の学長は川上幸治郎教授(1902~1997)。馬鈴薯栽培法で知られる研究者ですが71歳。川上学長は「教授の中では一番骨がある」と、土井教授に学生部長就任を求めました。土井教授は「自分より年上の学長が頑張っているのだから逃げるわけにはいかない」と就任を引き受けたそうです。
土井教授の基本姿勢は授業優先でした。「大衆団交」と呼ばれた学生との話し合いも授業終了後。第Ⅱ部の授業が終わる午後8時過ぎから始まり、朝まで続くこともめずらしくありませんでした。学生運動がピークを迎えた1972年当時は連日のように団交が続いた時期もありました。
国道153号から正門に続く急こう配の坂は、教職員の間では「定年坂」とも呼ばれていました。70歳を超え、定年が近い教授たちは、必ずといっていいほど途中で立ち止まり、一息入れる光景が目立ったからです。そんな中、愛妻弁当も入った重いかばんを持った土井教授は一気に坂を駆け上がりました。普段でも、授業を終えた2号館から、いつも急ぎ足で学生部に向かって来る姿とも重ね合わせながら、牧田さんら学生部職員たちは土井教授を「快足飛燕」と呼びました。
土井教授は学生部長を退いた1977年3月、教授としても定年を迎えました。団交で攻め立てた理工学部自治会の学生たちは立て看板に、土井教授の似顔絵と「名誉学生部長」の肩書を書き込みました。大学を去る土井教授は、学生たちに、別れの時がつらくなるほど、強烈な印象を焼き付けていたからでしょう。学生部職員たちにとっても、土井教授は存在感の大きい学生部長でした。「土井先生の仕事ぶりを最近の流行語で言うなら、まさに、『いつやるか、今でしょ!』の実践でした」。牧田さんは土井教授と学生部の仕事に打ち込んだ3年8か月の日々が懐かしそうでした。

小澤教授と土井教授に学んだ幸せ

  • 小澤教授と土井教授に教えられた伊藤さん
  • 小澤教授と土井教授に教えられた伊藤さん
  • 自動車通学が全面的に禁止された天白キャンパス(1978年度大学要覧から)
  • 自動車通学が全面的に禁止された天白キャンパス(1978年度大学要覧から)

小澤教授の音速滑走体にあこがれて名城大学に入学した伊藤俊司さん(1974年理工学部交通機械学科卒)は、2年生の時、小澤教授に声をかけてもらい超音速滑走体の最後の実験に記録係として参加しましたが、4年生のゼミでは土井教授の指導を受けました。材料力学の授業は難解でしたが、ゼミでの土井教授は「君はどう思うの」「どうやりたいの」が口癖でした。恐る恐る答えると、「いいじゃない。やってみなさい。失敗してもいいんだよ」という答えが返ってきました。
伊藤さんは就職した豊和工業(愛知県清須市)では、繊維機械の技術開発に取り組みました。女工さんたちの重労働を減らすため、作業のロボット化です。間もなく定年を迎える伊藤さんは、小澤教授から教えられた「夢を追い続けること」、土井教授の「やってみなさいよ」という言葉を胸に刻んでエンジニア人生を歩んできました。「小澤先生と土井先生の2人は名城大学の宝物でした。その2人に学ぶことができたのは本当に幸せでした」。伊藤さんは誇らしそうでした。

(広報専門員 中村康生)

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