特設サイト第4部 第3回 神宮に響いた名城学歌

  • 22年ぶりの優勝が決まり、グラウンドに飛び出す名城大学の選手たち
    22年ぶりの優勝が決まり、グラウンドに飛び出す名城大学の選手たち

22年ぶりリーグ戦優勝

  • 胴上げされる大坪監督。ベンチ上で応援する6人のうち右から2人目が田中さん
  • 胴上げされる大坪監督。ベンチ上で応援する6人のうち右から2人目が田中さん

名城大学硬式野球部が1953(昭和28)年春以来、22年ぶりに愛知大学野球リーグで2度目の優勝を飾り、神宮球場での第6回全日本大学野球選手権大会に出場したのは1975(昭和50)年秋でした。「万年5位」とも揶揄された長いトンネルを抜け出した野球部を率いたのは大坪悟監督(1968年商学部卒)。愛知学院大学グラウンド(日進市)でのリーグ戦第7週、3対0で中京大を下し優勝を決めました。翌日の新聞スポーツ面には「名城大22年ぶり胴上げ」「宙に舞う85キロの大坪監督」「待ったぞこの一瞬」などの見出しが躍り、歓喜の瞬間が紹介されました。
宙に舞う大坪監督の写真をよく見ると、ベンチの屋根の上の応援席で大喜びする名城大学職員たちも写っていました。法学部事務室職員だった田中光高さん(現在は附属図書館職員)の姿もあります。「当時の若い職員は22年前の優勝のことなんて知らなかった。全国で吹き荒れた学生運動もほぼ終息し、名城大学でも理事長杯争奪の職員対抗野球大会が開かれるなど学内が落ち着きを取り戻していた時代だったので、全学あげての祝賀ムードに包まれました」。田中さんは40年前の写真に写っていた若かりし自分に驚きながらも懐かしそうでした。

飛球厳禁の練習場

大坪さんは岐阜県立郡上高校出身で、名城大学に入学したのは1964(昭和39)年。野球部の練習は2年生までの大半が駒方グラウンドで行われました。1965年12月に大学が天白キャンパスに移転したため、3年生からは現在の第1グラウンドにあたる天白グラウンドが練習場となりました。野球部だけでなく、運動部員たちにとって悩みは狭さでした。第1グラウンド(2万1188平方メートル)は体育の授業にも使われたため、野球部の練習は授業の妨げにならないよう様々な制約の中で午後1時から夕暮れまでに行われました。
「授業のじゃまにならないよう、練習は声を出さずにやった。ノックのボールが飛んで行かないように、内野に小さなネットを張り、バッティング練習ではフライは打たずに転がせと制限された。外野の守備練習は授業が終わってから。練習試合などはできませんでした」と大坪さんは振り返ります。グラウンドはラグビー部など他の運動部も使っており、スペースの奪い合いになることもありました。
1970年には夜間照明付きの第2グラウンド(2万5143平方メートル)が誕生しましたが、運動部の練習場の過密状態を緩和させることはできませんでした。1966年度の名城大学の学生数は1万2103人。東海地方の大学では初めて学生数が1万人を超す「マンモス大学」となりました。学生数はさらに激増を続け、大坪さんが野球部監督に就任した1971年度には1万7900人に達していました。

愛知大学野球リーグ戦での名城大学順位(1966~1983)

※丸数字は優勝の通算回数

春季 秋季
1966(昭和41) 5位 5位
1967(昭和42) 5位 5位
1968(昭和43) 2位 5位
1969(昭和44) 4位 4位
1970(昭和45) 5位 4位
1971(昭和46) 2位 5位
1972(昭和47) 5位 4位
1973(昭和48) 4位 5位
1974(昭和49) 3位 2位
春季 秋季
1975(昭和50) 5位 優勝②
1976(昭和51) 3位 3位
1977(昭和52) 3位 3位
1978(昭和53) 4位 4位
1979(昭和54) 2位 優勝③
1980(昭和55) 6位 優勝④
1981(昭和56) 優勝⑤ 4位
1982(昭和57) 6位 5位
1983(昭和58) 3位 優勝⑥

励ましてくれた土井学生部長

  • 監督時代を語る大坪さん
  • 監督時代を語る大坪さん

天白キャンパスに移ってからも愛知大学野球リーグ戦での名城大学野球部の下位低迷期は続きました。大坪さんは名城大学OBでは3人目の監督として1971年秋から采配をふるいました。大学職員として、学生部での業務をこなしながらの監督業です。日常業務の合間を縫って、有望選手をスカウトするために高校回りに出る大坪さんの背中を押してくれたのが、1973年に学生部長となった理工学部の土井武夫教授(航空工学)でした。
土井学生部長は、「勝たなきゃだめだよ」と、大坪さんを励まし続けてくれました。野球部としての予算も限られているため、スカウトに歩き回れるのは東海地域が中心でしたが、入学した選手たちが着実にチームの主力選手に育っていったことでついに、22年ぶりの優勝という悲願が達成されました。1975年秋の愛知大学野球リーグ優勝です。
「名城大学新聞」(1975年11月20日)は、22年ぶりの優勝について、「万年5位と言われ、今回の優勝に至るまでの道のりは実に長かった」「低迷を続けてきた野球部が大坪監督のもとに統率され、圧倒的な強さ、スケールの大きさはないが、チームワークのよさで混戦を抜け出した」と書きました。学生記者のインタビューに大坪監督は、「1、2番がよく打ち走ってくれたこと、走れる選手が多かったことで試合運びが楽だった」と語っていました。

「走る野球」の伝統

  • 1971年、中日ドラゴンズに入団した盛田選手(盛田さん提供)
  • 1971年、中日ドラゴンズに入団した盛田選手(盛田さん提供)

名城大学の「走る野球」は全国からも注目されていました。大坪さんの3年後輩で、社会人野球を経ての入学だったため、1年生の時は出場できなかった盛田嘉哉選手は1968年から3年間(6シーズン)で108盗塁を達成しました。この記録は全日本大学野球連盟の中でもいまだに破られていません。「朝日新聞」(1970年9月27日)の全国版運動面に掲載された「通算100盗塁を記録 名城大の盛田選手」の記事です。

【名古屋】愛知大学野球リーグの名城大・盛田嘉哉外野手は26日瑞穂球場で行われた対名商大戦で2盗塁し、リーグ戦の通算記録を100とした。同選手は100m10秒8。ベース一周13秒8の俊足。2年生の時からトップ打者としてリーグ戦に出場。同年25、3年生の昨年40、今春は28、さらに今季7盗塁で通算100となった。なお東京6大学野球の盗塁記録は高田(明大―巨人)の48。

盛田選手は名城大学出身のプロ野球選手第1号として、1971年に中日ドラゴンズに入団しています。
名城大学の22年ぶりリーグ戦優勝メンバーの中にも走りまくった選手がいました。3年生で1番を打った山本秀樹選手です。二塁手としてこのシーズンではベストナインにも選ばれた山本選手もまた通算98盗塁を記録しました。大坪さんは、「盛田は盗塁フォームが華麗だったが、山本は速くて、普通なら落ちるスライディングでのスピードが最後まで落ちなかった」と2人の盗塁の圧巻ぶりを語ります。
山本選手は卒業後、社会人野球で活躍しました。ヤマハでは15年間の選手生活の後、監督を5年務め、“ミスター社会人”とも呼ばれました。2015年1月2日で還暦を迎えた山本さんは、22年ぶりの優勝当時を振り返りながら、「火葬場が見える天白グラウンドは確かに狭かったが、よく頑張ったと思います。今でも東海地方の社会人野球連盟の理事をしていますので、母校野球部の情報は入っていますよ」と懐かしそうでした。

近畿大から神宮初勝利

  • 22年ぶりに神宮球場で入場行進する名城の選手たち
  • 22年ぶりに神宮球場で入場行進する名城の選手たち

1975年秋の愛知大学野球リーグを制した名城大学は11月に神宮球場での第6回明治神宮野球大会に出場。1回戦では関西の強豪である近畿大学を、山本選手らの足を使った機動力を絡めて7対4で下し、神宮球場での初勝利を飾りました。2回戦は東京6大学の法政大学との対戦でした。登板はしませんでしたが右の江川、左の佃ら甲子園球児だったスター選手をそろえる法政には惜しくも3対1で敗退しました。「法政とはいい勝負ができた。2アウト2、3塁というチャンスでうちの石田という4番が強烈なサードライナーを放った。あれが抜けていれば勝っていたのだが」と大坪さんは今でも悔しそうです。
全国舞台への出場体験は出場した選手たちはもちろん、後輩選手たちにも大きな自信となりました。そして、選手集めにも大きな効果を発揮し、実力のある選手たちが集まるようになりました。後に近鉄バッファローズからドラフト1位指名を受けて入団した藤原保行投手(市岐阜商高)、甲子園経験のある岩崎博投手ら(岡崎工高)らが入学してきて主力選手となった1979年秋には、愛知大学野球リーグで3回目の優勝を果たしました。さらに第10回明治神宮大会では何と決勝戦まで勝ち進んだのです。

3度目神宮での「名城快進撃」

  • 東海大に対し初回の速攻で4点を挙げ、主導権を握った名城大(「ベースボールマガジン」から)
  • 東海大に対し初回の速攻で4点を挙げ、主導権を握った名城大(「ベースボールマガジン」から)

名城大学が大坪監督のもとで3度目の神宮出場を果たした1979年秋の第10回明治神宮大会について、ベースボール・マガジン社の野球雑誌「ベースボール・マガジン」は名城大学の健闘ぶりを特集していました。

11月4日から開幕した第10回明治神宮野球大会は7日、明大の優勝で幕を閉じた。しかし、今大会の特徴はなんといっても地方大学の活躍にあった。なかでも明大と優勝を争った名城大(中部地区代表)の快進撃は目を見張るものがあった。1回戦は東都リーグの覇者・国士大を3対1と退け、準決勝では首都リーグの雄・東海大を打撃戦の末、11対8と下してしまったのだから。決勝では明大に6対0と完敗したが、それはエース藤原が左足を痛め、完全な状態では投げられなかったため。本来の調子ならば、きっと好ゲームが展開されたことだろう。優勝は逸したものの、名城大の活躍は、普段陽のあたらない地方チームにとって大きな励みとなったといえそうだ。

  • 東海大の反撃をかわして万歳して喜ぶ小戸森投手(「ベースボールマガジン」から)
  • 東海大の反撃をかわして万歳して喜ぶ小戸森投手(「ベースボールマガジン」から)

「ベースボール・マガジン」の記事でも紹介されたように、準決勝で対戦した東海大は、4番原辰徳(現在の巨人監督)を始め、後にプロで活躍する選手たちがそろったスター軍団でした。名城大が初回4点を取ると東海大はその裏に2点、3回に2点、4回に1点を加えて5対4と逆転。しかし名城大は19安打の猛攻で、16安打の東海大を下したのです。
名城大のエース藤原は打たれ続けましたが、リリーフで最後の2回3分の1を投げ切ったのが2年生だった小戸森尚人投手です。「ベースボール・マガジン」の特集号では、勝利の瞬間の小戸森投手が思わず万歳する写真が大きな扱いで掲載されています。小戸森投手とは現在は名城大学職員で経営学部の小戸森事務長です。記事が掲載された「ベースボール・マガジン」は、野球部員だった小戸森さんが名古屋の書店で見つけたものでした。
東海大の原選手はこの日3打数3安打。エース藤原も打ち込まれ、リリーフした小戸森さんも残念ながらレフト前ヒットを打たれました。ただ、小戸森さんは、「藤原さんは原にレフトフェンス直撃も打ち込まれていたので、私が原を迎えるとレフトが警戒してフェンス手前まで下がった。ところが原の打球はレフト定位置にポトンと落ちた。普通に守っていればアウトだったのに」と残念がります。小戸森さんが勝利の万歳をした瞬間、スタンドを埋めた名城大学の応援席からは一斉に紙テープが飛び交いました。

母校から応援団に勇気づけられた選手たち

  • 選手時代3度の優勝経験をした小戸森さん
  • 選手時代3度の優勝経験をした小戸森さん

明治大学との決勝戦は、エース藤原が、東海大戦で自打球を足の甲にあて、負傷を負っての登板だったこともあり6回6失点で降板。リリーフした小戸森さんは2回をノーヒットに抑えましたが、打線は火を噴かず6対0で完封負けを喫しまた。
勝てば全国頂点に立つとあって、神宮球場のスタンドは名古屋から10台近いバスで駆け付けた応援団で埋まりました。大坪さんは「何と言っても学生野球は一般学生が応援に来ることで盛り上がるし、母校の学歌を聞いた選手たちは勇気づけられる。とりわけ、舞台が東京という相手のホームグラウンドでは、名古屋から駆け付けた応援団にどれだけ勇気づけられたかわかりません」と応援団のありがたさを語ります。
名城大学野球部はこの後、愛知大学野球リーグ戦では1980年秋に4回目、81年春に5回目、83年の秋に6回目の優勝を果たします。その後は1994秋に7回目、95年春に8回目の優勝に輝きましたが、2006年春の9回目以降は優勝から遠ざかったままです。監督は延べ25年間の在任中に5回のリーグ優勝を果たした大坪さんから松永健二監督(2001年法学部卒)にバトンが引き継がれています。

最後の神宮から9年

  • 野球部の奮起に期待する久保教授
  • 野球部の奮起に期待する久保教授

2001年~2005年までと2009年から2014年までの延べ9年間野球部長を務めている理工学部の久保全弘教授は最近、1979年秋に神宮球場で準優勝した当時土木工学科の学生だった卒業生の訪問を受けました。「先生、あのころはすごく盛り上がりましたよね。授業は出席にしておくから神宮に応援に行ってきなさいと送りだしてくれた先生もいました」。卒業生はバスを連ねて神宮球場へ応援に出向いた思い出を懐かしそうに語り、10回目の神宮大会出場を心待ちしている様子でした。
2006年春の神宮大会出場からもう9年。小戸森さんら神宮準優勝を体験した野球部員たちが「我々が果たせなかった“夢の日本一”をぜひ実現してほしい」と後輩たちに託す願いは今も変わりません。「卒業生たちが10回目のリーグ優勝を待ちわびるのは当然でしょうね。私だって今の学生たちに、在学中に一度でいいから全国舞台で応援する体験をさせてやりたい。素晴らしい母校での思い出になるはずですから。1年間に春、秋で2回、4年間だと8回もチャンスがある。選手たちは個々のレベルアップとチームワークを大事にしてぜひ期待に応えてほしい」。久保教授は「野球の専門的な指導は監督の仕事」と言いながらも、ちょっぴり歯がゆそうでした。

(広報専門員 中村康生)

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