トップページ/ニュース ナゴヤドーム前キャンパスで杉原千畝顕彰国際シンポジウムを開催

杉原研究の最新の成果を話し合うパネリストたち 杉原研究の最新の成果を話し合うパネリストたち
充実したシンポジウムを終え、拍手する参加者 充実したシンポジウムを終え、拍手する参加者

「命のビザ」を発給し人道的な外交官として名高い杉原千畝(すぎはら・ちうね、1900~86年)の功績について多角的に検証する「杉原千畝顕彰国際シンポジウム」が10月11日、ナゴヤドーム前キャンパスで開かれ、熱心なファンら約90人が参加し、国内外の研究者の報告に耳を傾けました。

都市情報学部公開講座として開催。同学部で国際関係論を教える稲葉千晴教授とそのゼミ生が中心となって運営しました。

冒頭、同学部の鎌田繁則学部長は、学部が可児キャンパスからナゴヤドーム前キャンパスに移転して2年目に国際的なシンポジウムが開催されることを歓迎するあいさつをしました。

杉原は第二次世界大戦中の1940年、駐リトアニア領事代理としてユダヤ人難民に日本通過ビザを発給し、その結果として約6000人の命が救われたとされます。その「通説」に対して、国内外の5人の研究者が多面的な考察の研究報告をしました。

5人は、第二次世界大戦中の欧州難民問題を研究するリトアニアの大学准教授、難民たちの元の居住国であるポーランドから参加した大学教授、国際政治学を専攻する明治学院大学名誉教授、ユダヤ人国家イスラエルの大学教授、稲葉教授です。

稲葉教授は「なぜ杉原はユダヤ人を救ったのか?」と題して話を進め、当時の国際情勢、戦況を分析し、「今までの杉原ストーリーの解釈を変えなければならないのではないか」と問題提起。杉原はホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)の危機から逃れるためにビザを発給したとする「通説」に対して、むしろリトアニアを占領した共産主義国家ソ連による信教の自由への脅威が背景にあったと報告しました。

外務省外交史料館の白石氏「杉原研究の新しい段階のスタート」

報告の後は、外務省外交史料館の白石仁章課長補佐を交えてパネルディスカッションに移りました。白石さんはこのシンポを「杉原研究の新しい段階のスタートだ」と評価しました。第1段階は杉原や杉原の妻、ユダヤ人生存者らへの聞き取りによる研究。第2段階は日本側の史料からの掘り起こし。第3段階はリトアニアやポーランドなどからの国際的なアプローチといい、「各国の研究が統合されることで、よりはっきりとした杉原像が見えてくる。そのスタートがこの名城大学のシンポジウム」と意義付けました。

移民政策を研究する本学法学部のデイビッド・グリーン准教授が通訳、名古屋学院大学教授が司会を務めるなど、本学のマンパワーと学外の人脈を駆使したシンポになりました。

  • 冒頭であいさつする鎌田学部長 冒頭であいさつする鎌田学部長
  • 会場の受付をする稲葉ゼミ生 会場の受付をする稲葉ゼミ生

シンポジウムのプログラム

  • 全体討論の様子 全体討論の様子

日時:2018年10月11日(木)13:10-16:20

場所:名城大学ナゴヤドーム前キャンパスDS101教室

テーマ:「人道と外交:第二次大戦中のユダヤ人難民問題と杉原千畝」

司会:鈴木隆(名古屋学院大学教授)

第1部 「リトアニア・ポーランドとユダヤ人難民」

    シモナス・ストレルツォーヴァス(シャウレイ大学准教授)

    「リトアニア政府の難民支援と杉原千畝」

    エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ(ワルシャワ大学教授)

    「ユダヤ難民を救った駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメル」

    丸山直起(明治学院大学名誉教授)

    「ゾラフ・ヴァルハフティク:‘命のヴィザ’を杉原に発給させたユダヤ人」

第2部 「救われたユダヤ人・救った杉原千畝の検証」

    ローテム・コフナー(ハイファ大学教授)

    「ミール神学校:杉原がホロコーストから救ったユダヤ教正統派」             

    稲葉千晴(名城大学教授)

    「命のヴィザ再考:なぜ杉原千畝はユダヤ人を救ったのか?」

討論者:白石仁章(外務省外交史料館課長補佐)

英語コーディネーター:デイビッド・グリーン(名城大学准教授)

全体討論

稲葉教授の報告のレジュメ

「命のヴィザ」再考

なぜ杉原千畝はユダヤ人を救ったのか?

稲葉千晴

名城大学教授

1、ユダヤ人の多くは共産主義から逃れるため杉原にヴィザを求めた

 1939年9月第二次世界大戦がはじまり、ポーランドはドイツとソ連によって二分割された。同国東部はソ連占領下に置かれ共産主義化がすすめられる。信教の自由を認めないスターリンは、カトリックの修道院やユダヤ教神学校を閉鎖した。敬虔なユダヤ教の神学生や教師は、自由な独立国リトアニアへの移住を決意する。ところが40年7月半ば、バルト三国がソ連に併合される。ユダヤ人難民の8割を占める彼らは、再び信教の自由を求めてリトアニア脱出を試みた。可能なのは日本を経て第三国に向かうルートだった。彼らは日本ヴィザを求めて杉原を訪れた。

2、杉原はリトアニアで発行された安全通行証にヴィザを発給した

 小国リトアニアに3万人もの難民が流入してきた。同国政府の苦悩が始まる。彼らは所持金も少なくパスポートさえ所持していない。諸外国から支援を受け彼らを受け入れた。だが基本的に難民の長期滞在を望む国はない。ソ連政府と協議の上、ソ連経由で難民の第三国への移送を画策した。ただしソ連はポーランド旅券の使用を認めない。リトアニアで発行された安全通行証(旅券の代替書類)を持って難民はヴィザ発給を杉原に求めた。

3、渡航費はアメリカのJOINT(ユダヤ人救済資金分配委員会)によって支払われた

 ヴィザを受け取ったリトアニアのユダヤ難民の多くは、すぐにカウナスを出発できなかった。外貨不足のソ連がドルでの高額な旅費支払いを求めたからである。JOINTも41年1月には2000人を超える難民への送金を終えた。ソ連も難民に対して早期出国かソ連市民権取得の二者択一を迫る。逮捕の恐怖を抱きながら難民は日本に向かった。

4、なぜ杉原はユダヤ人を救ったのか?

 1940年夏リトアニアではホロコーストが起きていない。41年6月の独ソ戦でリトアニアがドイツに占領されて以降、ユダヤ人大虐殺が始まった。杉原はホロコーストの脅威からユダヤ人にヴィザを発給したのではない。40年7月半ばリトアニアのソ連併合が決まると、共産主義を受け入れられないユダヤ難民が日本領事館に押し寄せた。外務書記生としてロシア語を学び、ソ連の内政・外交に精通する杉原は、スターリンによる大粛清など共産主義の脅威を深く理解していた。日本政府が難民受け入れに難色を示していたとはいえ、リトアニアからの領事館撤退の期限が迫る中、ヴィザ発給条件を満たすことができるというユダヤ人の約束を信じて、杉原はヴィザを発給したにちがいない。

パワシュ=ルトコフスカ教授の報告のレジュメ

  • 駐日ポーランド大使の功績に光を当てるパワシュ=ルトコフスカ教授 駐日ポーランド大使の功績に光を当てるパワシュ=ルトコフスカ教授

タデウシュ・ロメル

杉原ビザで渡日したユダヤ人難民を救った駐日ポーランド大使

エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ

ワルシャワ大学日本学科教授

ポーランドが第1次世界大戦後の1918年に独立国家になってから、タデウシュ・ロメルは外交官として駐イタリア大使館参事官、駐ポルトガル公使などさまざまなポストを務めた。1937年10月から1941年10月まで駐日特命全権大使に任命された。その時、ロメルの活動は日独防共協定へのポーランド加盟、「満州国」承認などの重要問題以外に、杉原ビザを持って来日したポーランド人避難民の救済活動にもかかわっていた。カウナスで杉原千畝領事代理からビザを受け取ったポーランド人、主にポーランド系ユダヤ人は1940年8月中旬からシベリア経由で日本に上陸し始めた。彼らはほとんどの場合、在カウナスのオランダ領事ヤン・ズヴァルデンディックによって発給されたカリブ諸島の、当時はオランダ領であったキュラソーなどを最終目的地とした、杉原発給の日本通過ビザを持って日本にやって来た人々であった。彼らの衛生、衣類、家族との連絡、日本への入国ビザの延長、パスポートの交付、目的地へのビザの手配などに駐日ポーランド大使ロメルが多くの貢献をした。

1941年10月、駐日ポーランド大使館が廃止され、大使の使命が終了してから、ロメルは上海に向かった。日本政府は、日本にとどまっていたほとんどのポーランド系ユダヤ人難民約1000人全員を上海に移送した。11月からロメルは中国駐在の特命大使として個人的に難民の世話を引き受けた。

杉原千畝は、ホロコーストからユダヤ人を救った唯一の日本人として「諸国民の中の正義の人」賞をイスラエル政府から授けられた。第2次大戦中の杉原の人道的な活動は、さまざまな書物、ドキュメンタリー、映画等によって日本によく知られている。しかし、タデウシュ・ロメルの当時の活動はほとんど知られていない。ユダヤ人を救ったポーランド人としての彼の功績を新たに紹介することはきわめて重要である。

丸山名誉教授の報告のレジュメ

  • ポーランドのユダヤ人のリーダーに焦点を当てる丸山名誉教授 ポーランドのユダヤ人のリーダーに焦点を当てる丸山名誉教授

ゾラフ・バルハフティク

‘命のビザ’を杉原に発給させたユダヤ人

丸山直起

 明治学院大学名誉教授

杉原千畝が発給したビザでユダヤ人たちは奇跡的にヨーロッパを脱出することができた。日本通過のビザを入手したとしても、多くの人々の善意と幸運がなかったなら、脱出は成功しなかったであろう。実際に日本通過ビザを発給された全員が日本に入国できたわけではなかった。難しい立場に置かれながらも日本通過ビザを発給した杉原領事代理の功績は賞賛しなければならない。またウラジオストクの日本領事、JTB、日本郵船などの職員の協力も、もしそれらの一つでも欠けたなら、多くのユダヤ難民が日本にたどり着くことは困難であった。

ホロコーストでヨーロッパ大陸のユダヤ人社会は崩壊したが、少なからぬ数のユダヤ人は脱出に成功し、イスラエル再建を果たす。その背景に同胞を救援するユダヤ人組織のネットワークが機能し、さらに身の危険を顧みることなく同胞を救助した多くのユダヤ人たちの存在という幸運があった。その一人、ポーランドのユダヤ人のリーダー、ゾラフ・バルハフティクの超人的活動に焦点を当てるのが本報告の目的である。

バルハフティク(1906-2002)は1939年9月ポーランドに侵攻したドイツ軍に追われ、ビルナ、次いでリトアニアのカウナスに逃げ、そこで難民委員会を結成、イギリスはじめ各国の領事館を訪れ、ユダヤ人のパレスチナなどへの移住を求めて奮闘していた。しかし、1940年6月ソ連軍がリトアニアを占領し、8月3日併合すると、カウナスにある外国公館の閉鎖を命じた。途方に暮れたバルハフティクが最後の頼みとしたのが日本経由でカリブ海のオランダ植民地に至るルートであった。杉原と面会したバルハフティクらの熱意が相手に伝わらなければ、果たして日本通過のビザが発給されたか分からない。

彼は家族とともに40年10月から翌年6月にカナダに向け出港するまでの8カ月間日本に滞在した。その間上海にも足をのばし、日本に滞在するユダヤ難民、さらにリトアニアで絶望の淵にある同胞のために寝る間も惜しんで脱出先を見つけるため奔走した。戦後、新生イスラエルで国会議員、宗教大臣を務め、あの苦難の時期に多くの国が門戸を閉ざすなか、ユダヤ難民に避難場所を提供した日本に対しては感謝の気持ちを終生持ち続けた。

20世紀は難民の時代といわれるが、21世紀に入っても内戦や飢餓などで祖国を離れる難民は増え続ける。だが、国際社会はこれらの難民に対して冷淡である。杉原の業績はもちろんのこと、バルハフティクのような人物にももっと光が当てられるべきであろう。

10月5日付中日新聞夕刊に掲載されたコフナー(コーネル)教授の論考

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