トップページ/ニュース 都市情報学部の外国人招へい研究員が東京のリトアニア大使館で杉原千畝について講演

駐日大使と記念撮影も

講演後、記念写真に納まる(左から)稲葉教授、バルブオリス大使、ストレルツォーヴァス准教授、グリーン准教授 講演後、記念写真に納まる(左から)稲葉教授、バルブオリス大使、ストレルツォーヴァス准教授、グリーン准教授
リトアニア大使館前で記念写真 リトアニア大使館前で記念写真

第二次世界大戦時、リトアニアでユダヤ人難民に「命のビザ」を発給したことで知られる当時の領事代理、杉原千畝(1900~1986年)。リトアニア・シャウレイ大学のシモナス・ストレルツォーヴァス准教授が4月から、都市情報学部の稲葉千晴教授のもとで、外国人招へい研究員を務めています。任期は7月末まで。ストレルツォーヴァス准教授は研究内容を6月28日、東京都港区元麻布のリトアニア大使館で発表しました。

講演に先立ってゲディミナス・バルブオリス駐日リトアニア特命全権大使が「リトアニアと日本の間では、ハイレベルな政治会談から一般の人の会話にいたるまで、杉原のことが話題になる。リトアニアの歴史は、苦難の時代のヨーロッパを象徴する」とあいさつしました。

ストレルツォーヴァス准教授は中東欧近現代史と難民研究を専門としています。演題は「Mission (Im) Possible(不)可能な任務」。講演ではまず、1939年にカウナスのリトアニア大使館に着任した杉原が地元新聞のインタビューに応じたことを紹介しました。リトアニアの食べ物への感想を聞かれ、日本食を現地の食材で食べると答え、日本人は酒(現地ではアルコール度40度のウオッカを意味する)を飲むかとの質問には、10度余りの日本酒を飲むと回答。日本人はキスをしないのかと問われると、人前ではしないと答えていることをエピソードとして挙げました。

当時のリトアニア政府はユダヤ人難民支援のために莫大な予算を使ったこと、ポーランド語が話される最大都市のビリニュス(現在の首都)には、難民の衣食住や子供の教育、医療のために27の食堂、52の仕立屋、36軒の下宿が設けられたことなど、杉原を取り巻く情勢を多角的に報告しました。

ユダヤ人難民は、ソ連領のシベリア経由で日本に渡り、アメリカなどへ逃れたことがよく知られていますが、黒海に臨むオデッサからトルコ経由でパレスチナに逃れた人たちもいました。その逃避行が実現するためには、イギリス外務省の支援があったことにも光が当てられました。

本学からは稲葉教授や法学部法学科のデイビッド・グリーン准教授らが駆けつけ、質問をしたり、バルブオリス大使と一緒に記念写真を撮ったりして交流しました。

7月6日(土)14:00~16:00、ナゴヤドーム前キャンパスでも講演

  • バルブオリス大使(左)から紹介を受けるストレルツォーヴァス准教授 バルブオリス大使(左)から紹介を受けるストレルツォーヴァス准教授
  • 講演するストレルツォーヴァス准教授 講演するストレルツォーヴァス准教授

ストレルツォーヴァス准教授は7月6日(土)14:00~16:00、ナゴヤドーム前キャンパス西館207教室でも英語で講演します。演題は「スターリンとヒトラーのはざまで・リトアニアの悲劇」です。聴講無料。日本語通訳付き。学内外の来場を歓迎します。

講演の告知が中日新聞7月1日夕刊に掲載されました。

ナゴヤドーム前キャンパスでの講演には73人が参加

  • ナゴヤドーム前キャンパスで講演したストレルツォーヴァス准教授 ナゴヤドーム前キャンパスで講演したストレルツォーヴァス准教授
  • 講演に集まった学生や一般の人たち 講演に集まった学生や一般の人たち

ナゴヤドーム前キャンパスでの講演のレジュメ

「スターリンとヒトラーのはざまで――リトアニアの悲劇一九三九~五三年」

 バルト三国の南に位置する人口三百万人の小国リトアニアは、第二次大戦期に大国の狭間で苦しめられた。一九三九年八月二六日、それまで敵対関係にあったスターリンとヒトラーは、独ソ不可侵条約を締結して手を結んだ。その秘密議定書で中欧諸国を独ソの勢力圏に二分割することが決められ、翌月にポーランドがドイツとソ連によって占領された。

 リトアニアは議定書によってソ連の勢力圏に含められたため、一〇月にスターリンが相互援助協定の締結を迫り、二万人の赤軍を同国に駐留させた。その代わりに「親切にも」独立時にポーランドに奪われた古都ヴィリニュスを返還した。リトアニアは歴史的な首都を取り戻してつかの間の安寧を得た。

 第二次大戦が勃発するとリトアニアは新たな困難に直面した。ユダヤ人を含む大量の難民がポーランドから逃れて入国してきたのだ。冬の寒さに耐えられる難民キャンプを用意し、食料・衣服・医療品を支給するだけの予算が確保できない。それでも政府は難民支援に尽力した。

 四〇年春、ドイツはオランダやフランスを打ち破り、西ヨーロッパを自らの支配下に置いた。ヒトラーの西欧における勢力圏拡大を目の当たりにしたスターリンは、ソ連勢力圏への支配力を強化するため、六月半ばバルト三国を軍事占領する。七月半ばにはリトアニア最高会議がソ連邦への加盟を議決し、八月初旬にソ連側が受け入れた。干戈を交えることなくリトアニアはソ連の軍門に屈して併合された。併合反対派とその家族二万人が四一年六月半ばにシベリアに流刑された。

 その一週間後に独ソ戦が始まると、独軍に呼応してリトアニアで反ソ蜂起が起き、暫定政府が樹立された。同国はドイツによって解放されたように見えたが、内実は違った。ナチスは暫定政府を無視して、ユダヤ人住民二十万人の九割を虐殺してしまう。さらに国民六万人を徴用工として強制的にドイツで働かせた。リトアニアは独軍に利用されただけで、独立国家の体をなしていなかった。

 四四年夏、赤軍の反攻により独軍の東部戦線は崩壊し、リトアニアはソ連に再占領された。祖国が解放されたとスターリンは宣言したものの、リトアニア人にとっては再び支配者が入れ替わっただけで自由は奪われたままだ。三万人の若者が母国の軍服を着てパルチザンに参加して、スターリンが亡くなる五三年まで占領軍と戦った。

 ソ連側も黙ってはいない。林に隠れて抵抗するパルチザンや、それを支援する村人たちに対して徹底的な弾圧をおこなった。三万人が命を落とし三十万人が投獄・強制労働の刑に処せられている。だがリトアニア人はくじけない。再度独立を獲得する一九九〇年まで、民族自立の気構えを保持し続けた。

シモナス・ストレルツォーヴァス(Simonas Strelcovas) シャウレイ大学准教授、一九七二年リトアニア生まれ。元スギハラ・ハウス(旧在カウナス日本領事館)主任研究員。第二次大戦中の欧州難民問題を研究。

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