特設サイト第2部 第8回 「東海駅伝」で初優勝

  • スペシャルホームカミングデイでスクラップブックを手に語る石井さん
    スペシャルホームカミングデイでスクラップブックを手に語る石井さん

セピア色の新聞記事

1958(昭和33)年までの卒業生たちに参加を呼びかけて開催された第1回「スペシャルホームカミングデイ」。会場で、古いスクラップブックを手に、懐かしい顔ぶれを探し求めている卒業生がいました。広島県尾道市から駆け付けた1956年農学部卒の石井敏夫さん(81)です。

スクラップブックに貼られたセピア色に変色した新聞記事の切り抜きには、「東海学生駅伝競走 名城大が初優勝」の見出しが躍っていました。1955年1月23日に開催された第9回東海学生駅伝競走で、名城大学が初優勝した時の記事です。写真には名古屋市中区の伏見通のゴールに両手を広げて駆け込む名城大のアンカーと、駆け寄る応援団員たちの歓喜の瞬間が写されていました。

「1年生の時から駅伝で走りました。優勝したのは3年生の時で副キャプテン。まさかの優勝で夢のようだった。一緒に走ったメンバーには1年生が2人います。私は鷹来校舎、2人は駒方校舎であまり話す機会はありませんでしたが、愛知県内にいて昭和33年卒業のはず。来ていませんかねえ」。石井さんは残念そうでした。

競り合った名城と中京

  • 名城大の初優勝を報じる朝日新聞(石井さんのスクラップブックから)
  • 名城大の初優勝を報じる朝日新聞(石井さんのスクラップブックから)

第9回東海学生駅伝競走は4県12チームから96人が参加しました。名古屋市中区、広小路通の朝日新聞中部支社前を午前9時にスタート。一宮、岐阜、犬山を経て、名古屋市中区の伏見通電停をゴールとする8区間85.8㎞のコースです。初参加の中京短大(翌年の第10回からは中京大として出場)、4年ぶりに参加の南山大、A、Bの2チームで臨んだ三重大、名城大。参加12チーム(10大学)は大会始まって以来最多でした。

共催した朝日新聞に掲載されたレースの「展望」記事では、連続優勝を狙う岐阜大、上位を目指す愛知学芸大(現在の愛知教育大)、三重大に焦点が当てられ、4年目の参加となる名城大学については触れられていません。ただ、一宮市の真清田神社から岐阜市役所に至る3区は17.6㎞と、8区間の中では飛び抜けて長く、「全コースでの最大のヤマ場となる」とし、優勝を目指す岐阜大も、「名城大の高橋、中京短大の竜野らの新人の出場で区間賞は難しいだろう」と予測しています。「名城大の高橋」とは、愛知県立豊橋工業高校から理工学部建築学科(3年生から法商学部商学科に転部)に進んだ高橋好治さん(78)(愛知県高浜市)のことです。

レースでは予想外のドラマが展開されました。優勝候補には上がっていなかった名城大と中京短大が激しいデッドヒートを繰り広げ、名城大が見事初優勝を飾ったのです。「名城大学新聞」(1955年3月20日)の「参加4年で初優勝」の記事です。

本学Aチームは前半中川、鷲見の好走で順調な首位を保っていたが、第4、5中継所間(岐大~犬山遊園間)で中京短大に首位を奪われた。しかし、田中選手が好走し、首位になったが、第6、7中継所間(小牧市~上飯田駅前間)で中京短大、大村選手に再び首位を奪われ、本学応援の学生をはらはらさせたが、アンカー梶田が結局、今までの練習と、加えて闘志満々、よく中京短大の柘植選手を抑えて5時間5分43秒の好記録で伏見通のゴールに飛び込んだ。全チームが3時までに到着し、引き続き朝日新聞社会議室で閉会式を行った。

名城大A、中京短大の区間順位と記録

個人タイム単位は分秒。▽印は区間最高記録(データは朝日新聞 1954年1月23日夕刊より)

優勝 名城大A 2位 中京短大

総所要タイム

5時間5分43秒

5時間7分06秒

1区  9.5キロ

1位 中川 ▽31.02

3位 武田  31.20

2区  10.5キロ

1位 鷲見 ▽38.00

2位 稲熊  40.13

3区  17.6キロ

1位 高橋  61.53

2位 竜野 ▽59.42

4区  9.5キロ

1位 今泉  35.19

2位 清水  35.06

5区  10.6キロ

2位 石井  40.26

1位 川口 ▽39.32

6区  12.1キロ

1位 田中 ▽41.48

2位 小林  43.01

7区  9.6キロ

2位 堀田  33.58

1位 大村 ▽33.00

8区  6.4キロ

1位 梶田 ▽23.17

2位 柘植  25.12

名城大学Aチーム選手名

▽1区 中川貞雄(法商1年)▽2区 鷲見二郎(法商4年)▽3区 高橋好治(理工1年)▽4区 今泉数馬(理工4年)▽5区 石井敏夫(農3年)▽6区 田中幸男(農4年)▽7区 堀田義行(理工4年)▽8区 梶田民雄(法商3年)

タコ足大学チーム

  • 伴走する自転車とともに力走する選手(堀田さんのアルバムから)
  • 伴走する自転車とともに力走する選手(堀田さんのアルバムから)

駅伝初優勝の時の名城大学陸上部キャプテンは1956年法商学部商学科卒の磯村静雄さん(81)(安城市)です。やり投げ選手で、2年生の時から4年生までキャプテンを務めました。磯村さんによると、駅伝初優勝当時の陸上部員は約30人。女子学生はいませんでした。

校舎が駒方、中村、鷹来(春日井市)とに分かれ、”タコ足大学”とも呼ばれていただけに、全員がそろって練習するのは夏休みや春休みの合宿の時くらいしかありませんでした。しかも、駒方校舎には練習できるグラウンドがないため、授業を終えると部室で着替えて、瑞穂陸上競技場に走って移動して練習をしました。三段跳びで1954年度愛知陸上競技選手権大会で優勝した一条幸昌さん(1955年卒)のように、瑞穂競技場での練習を終えてから第二法商学部商学科の授業が行われた金山校舎(中区)に走った部員もいました。8位に食い込んだBチームは8区間の選手をそろえるため、ラグビー部などの他の運動部からも加わってもらったそうです。

レースで磯村さんは、犬山から名古屋まで自転車で伴走、選手たちを励まし続けました。

獅子奮迅の応援団

  • 応援団の声援を受けながら中継点を走る選手(堀田さんのアルバムから)
  • 応援団の声援を受けながら中継点を走る選手(堀田さんのアルバムから)

第9回東海駅伝の応援風景について、朝日新聞は、各校はチャーターした観光バスを使って応援戦を繰り広げたと報じています。車の中から応援団が声をそろえて” イチ、ニ” 、” イチ、ニ”とピッチの調整。名城大の3台をはじめ、10台を超す観光バスと、各校専属の自家用車、トラック、バス、オート三輪が動員され、名古屋市立大の応援には名古屋市の広報車「ナゴヤカー」が伴走しました。

記事ではさらに、名城大学の応援ぶりを詳しく紹介しています。

午後2時5分43秒。名城大学のアンカー梶田君が人ガキと拍手の伏見通ゴールに踊り込むように飛び込んだ。新鋭チームに初の栄冠が輝いたのだ。名城大Aチームにつきっきりの応援団も好敵手中京短大との競り合いの大事なカンドコロを心得て、各中継所はもとより、途中でもここ一番の時は、羽織、ハカマのヒゲの団長はじめ10数名の団員がバスからドヤドヤと降りて大応援旗を振り、校歌を斉唱するなどシシフンジン(獅子奮迅)の活躍ぶり。その異色ある応援ぶりは輝かしい優勝とともに一段と光彩を放っていた。

声をかけてきた中京の梅村理事長

キャプテンだった磯村さんは名城大学を卒業し、名古屋市体育館に1年間勤務した後、名城大学附属高校で教員生活を送りました。名城大学の陸上競技部時代、競技場会場では、当時の中京短大の梅村清明学長(理事長)から声をかけられたことがあります。中京大学は1954年に中京短期大学として開校し、1956年に中京大学に移行しました。陸上部は中京短大として開校と同時に発足。開校したばかりの1954年6月の東海学生対抗陸上競技大会に初出場し初優勝しています。

愛知一中(現在の旭丘高校)時代から陸上の長距離選手だった梅村学長は、陸上競技大会が開催される会場に現れては、中京の選手だけでなく他大学の選手たちの様子もよく観察していました。1954年6月の愛知陸上競技選手権大会やり投げで磯村さんは中京短大の選手を抑えて優勝しています。「やり投げの記録や、主将として名城の陸上部を引っ張っていたのをよく見ていて下さったようです。卒業したらうちに来ないかと誘われこともありました」。名城が中京と競り合って優勝した駅伝の時の各校の応援ぶりを思い出しながら、磯村さんは懐かしそう語りました。

全国に「名城」発信

  • 駅伝初優勝の思い出を語る高橋さん(高浜市の自宅で)
  • 駅伝初優勝の思い出を語る高橋さん(高浜市の自宅で)

1年生ランナーながら3区を1位で走り抜き、4区ランナーに引き継いだ高橋さんは、第12回まで東海駅伝には4回出場。いずれもエース級が投入される第3区を走り、第9回は区間順位3位でしたが第10回、11回では区間優勝に輝きました。国体や数々の全国大会にも出場し、フルマラソンでは朝日国際マラソンで日本人10位、別府毎日マラソンで7位など華々しい記録を残しました。卒業後は、自動車ばねの大手メーカー中央発條(本社・名古屋市緑区)に就職し、実業団陸上で選手、監督として活躍。仕事上でも営業部長、専務取締役を務めました。

高浜市にある高橋さんの自宅を訪ね、名城大学陸上競技部時代の新聞の切り抜きや記録資料を見せていただきました。高橋さんは65歳で会社を退職した後は、地域のボランティア活動に本格的に関わっており、石井さんから参加の誘いがあった3月19日のスペシャルホームカミングデイも、ボランティアの日程と重なり参加できませんでした。

高橋さんは最近になってやっと、名城大学での陸上競技部時代に自分の名前が掲載された新聞の切り抜きの整理を始めたばかりでした。名古屋市内ロードレースマラソンでの「名城大の高橋君優勝」の見出しのついた記事など、高橋さんの名前が登場しているいくつもの新聞の切り抜きを紹介しながら、「フルマラソンをやる学生が少なかったこともありますが、名城の宣伝には少なからず貢献できたんだと思っていますよ」とうれしそうでした。高橋さんは「育て達人 122回」でも紹介しています。

高橋さんが出場した名城大学時代の陸上記録(高橋さん作成)

高橋さんが出場した名城大学時代の陸上記録(高橋さん作成)

第7回別府毎日マラソンで7位となった高橋さんに贈られた表彰状

第7回別府毎日マラソンで7位となった高橋さんに贈られた表彰状

5区、7区で2位に

  • 病床の堀田さんのために引き伸ばされた写真を手に思い出を語る郁代さん
  • 病床の堀田さんのために引き伸ばされた写真を手に思い出を語る郁代さん

第9回東海学生駅伝では、3区を1位で走り終え高橋さんは、ゴール地点に移動し、名城の選手が現れるのを待ちました。しかし、結果的には中京と激しいトップ争いになりました。「3区では2位をかなり離していたので、アンカーも当然1位で現れると思っていました。今のようにテレビ中継があるわけではないので、5区で先輩の石井さんが抜かれて6区で抜き返し、7区でまた抜かれているとは知りませんでした。でも、ともかくあの優勝で、名城が一躍有名になった。うれしかったですよ」。

名城の8人のランナーで、引き継いだ1位を死守できず中京短大に1位を奪われたのは5区の石井さんと7区の堀田さんです。石井さんは、「6区ランナーは同じ農学部の先輩の田中さん。田中さんなら必ず抜き返してくれると信じていました」と、それほど落ち込まなかったそうです。

では7区の堀田さんはどんな気持ちだったのでしょう。やっと探し出した、名古屋市中川区の田中さんの自宅に電話を入れてみました。電話に出たのは奥さんの郁代さん(74)。堀田さんは3年前に他界していました。「優勝した時の写真はありますよ」という郁代さんの言葉に甘えて、堀田さん方をお訪ねし、その写真を見せてもらいました。

栄光の8人

堀田さんは2010年4月29日に胃がんのため亡くなっていました。77歳でした。入院したのは4月6日ですが、郁代さんに、「自宅の本棚にあるアルバムの中に、名城大学時代、駅伝で優勝した時にみんなで撮った写真がある。持ってきてほしい」と頼みました。郁代さんが探し当てた写真を病床に持ち込むと、堀田さんは「申し訳ないが引き伸ばしてしてほしい」と頼みました。二女の知穂さん(49)が拡大して持参した写真に目を落とした堀田さんは、「いい写真だ」と満足そうでした。激しいレースを戦い抜き、名城大学陸上競技部の長い歴史の中で唯一の優勝をつかみとった晴れ晴れとした表情の8人。引き伸ばされた“栄光の8人”の写真を何度も手にしながら、堀田さんは静かに息を引き取りました。

「高校時代から本格的に始めた陸上が好きで好きでたまらなかったんです。高校駅伝や箱根駅伝はビデオも撮っていましたし、その都度写真集も買い込んでいました。もちろん名城の女子駅伝も応援していました。会社勤めしているころも定年退職後も、早朝や夜に走っていて、市民マラソンにもずっと出ていました。家族で応援に出かけたこともあります。名城大学時代のことでは、駅伝で優勝した時、1位を守りきれず2位に落ちた時はすごく落ち込んだこと、トップを奪い返してくれたアンカーにどれだけ感謝したことか、とよく言っていましたよ」

郁代さんは、堀田さんが、いかに走ることが大好きだったかを語りました。毎年2月に行われる犬山マラソンにもずっと参加していて、亡くなった2010年も申し込みはしていました。しかし、すでに走り切る体力は残っていませんでした。前年の2009年2月28「読売新聞」に掲載された「第31回読売犬山ハーフマラソン完走5860人」の名簿の中に堀田さんの名前がありました。「10キロ男子の部」の51位~1602位の後半でしたが、76歳になっても堀田さんの走り抜いた証がしっかりと刻まれていました。

  • 前列左から中川、鷲見、高橋、今泉さん。後列左から石井、田中、堀田、梶田さん
    前列左から中川、鷲見、高橋、今泉さん。後列左から石井、田中、堀田、梶田さん

(広報専門員 中村康生)

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