特設サイト第2部 第9回 沖縄からの入学者

  • 沖縄県行政の中枢である沖縄県庁舎。設計は黒川紀章で隣には県議会、県警察本部庁舎が、近くには那覇市役所やテレビ局、百貨店、銀行などが立ち並びます。
    沖縄県行政の中枢である沖縄県庁舎。設計は黒川紀章。隣には県議会、県警察本部庁舎が、近くには那覇市役所やテレビ局、百貨店、銀行などが立ち並びます。

沖縄初の入学生

  • 校友会初代・3代・6代支部長の垣花さん
  • 校友会初代・3代・6代
    支部長の垣花さん
  • 2代支部長の豊岡さん
  • 2代支部長の豊岡さん

沖縄から名城大学への入学者第1号は、校友会沖縄県支部の初代支部長を務めた宮古島出身の垣花(かきのはな)祐造さんです。垣花さんは1952(昭和27)年に短期大学部商経科に入学。さらに第二法商学部商学科でも学び、1956(昭和31)年に卒業。沖縄に戻り教員生活を送りました。

垣花さんはすでに他界していますが、2代支部長だった豊岡静致(せいち)さん(86)も宮古島出身で、垣花さんから2年遅れて、1954(昭和29)年に短期大学部機械科に1期生として入学しました。1956年3月に卒業、垣花さんと同様、沖縄の高校で教員生活を送りました。

文部省「学制100年史」によると、連合国軍の統治下にあった沖縄では、1947(昭和22)年の本土の学制改革に対応して、1948年4月から、本土と同じ学制に切り替えられました。高等教育については、戦前から沖縄に大学がなかったことから、本土、およびアメリカへの留学生派遣が実施され、1949年からは本土、およびアメリカの大学へ、毎年、それぞれ相当数の学生を派遣する制度が実施され、1953年以降は文部省の国費沖縄学生招致制度に切り替えられました。

宮古島と名城大学

  • 祖父田中壽一の思い出を語る新城さん
  • 祖父田中壽一の思い出を語る新城さん
  • 宮古島時代の新城さん。両脇の両親と弟、妹たちと(新城さん提供)
  • 宮古島時代の新城さん。両脇の両親と弟、妹たちと(新城さん提供)

垣花さん、豊岡さんの2人に続くように、宮古島から名城大学への進学者が相次ぎました。数ある本土の大学の中からなぜ名城大学が選ばれたのか。豊岡さんは校友会沖縄県支部の「創立50周年記念誌」(2011年10月発行)で、周囲に大学進学を勧められ、「宮古と関係の深い名城大学の入学を決意した」と書いています。豊岡さんに電話でお聞きしました。豊岡さんが語った宮古島と名城大学とのつながりについての話を聞いて驚きました。豊岡さんの実家のすぐそばに、田中壽一理事長の娘夫妻、孫ら田中家につながる一家が暮らしていたのです。

田中理事長を「おじいちゃん」と慕う孫で、愛知県豊田市で病院を経営する新城健蔵さん(72)から話を聞くことができました。田中理事長と病死した先妻マツさんとの間には3人の子供がいました。宮古島で暮らしていたのは千代(ちよ)さんです。姉静さんは17歳ころ結核で亡くなり、弟の敬止さんは沖縄で戦死しました。1917(大正7)年生まれの千代さんの名前は、田中理事長が、東北帝大で学んだ仙台に由来するそうです。

千代さんは愛知県第一高等女学校(県立明和高校の前身)を卒業。田中理事長の実弟である河野省吾さんら親類とともに台北に移り住み、台北帝大医学部卒の医師で宮古島出身の新城恵清さんと結婚しました。1941(昭和16)年に初孫である新城さんが生まれました。

地域医療に寄り添う

終戦となり、一家は恵清さんの故郷である宮古島に生活の場を移し、恵清さんは宮古島市の中心部に「新城内科」を開業しました。

恵清さんはその後、沖縄県立宮古病院の初代院長を務めました。国立療養所宮古南静園園長としてハンセン病患者とも寄り添います。地域医療に尽くした恵清さん。一方では名城大学創設者の娘婿であったこと、千代さんが社交的な性格で宮古島では人脈も広かったこともあって、名城大学の名前は宮古島に浸透していったのではないかと思われます。患者として「新城内科」に通った豊岡さんも、病院を手伝う千代さんから、名城大学との縁について聞かされていました。

新城さんは名古屋大学医学部に進み、弟の清さん(故人)は大阪大学医学部に、寿さんは広島大学医学部に進みました。2人とも医師の道を歩み、清さんは国立病院機構名古屋医療センターで形成外科医長などを務め、骨壊死や変形性関節症の新治療法を開発しています。

「工作班」で支えた学業

豊岡さんは終戦の年に宮古島の旧制中学校を卒業。小学校教員の補助をしたり、トラック運送業などをして家計を支えました。大学を卒業して帰郷する同級生たちも相次ぎ、自分も大学で学ぶことを決めました。27歳の時です。経済的にも年齢的にも4年間学ぶ余裕はなく、2年制の名城大学短期大学部機械科に1954年に入学しました。

豊岡さんはすでに結婚しており、生まれたばかりの長女もいました。最初は1人で鳴海町(現在の緑区鳴海町)にアパートを借りての生活でしたが、やがて奥さんと子供を呼び寄せました。豊岡さんは名鉄電車で中村校舎に通学。授業が終わると、駒方校舎に駆け込み、「学生工作班」の仕事に打ち込みました。学生たちが学内で校舎の補修、改築や木工作業に従事するアルバイトです。夜8時ごろまで働きました。

休日にも運転免許講習所で講師をするなどして働きました。奥さんも働きに出て、夫婦の収入と琉球政府からの奨学金で、豊岡さんは何とか2年で卒業することができました。卒業生名簿に載っている短期大学部機械科の1期生は15人いますが住所が判明しているのは豊岡さんら4人だけでした。

祖父田中壽一と暮らす

  • 浴衣姿の田中理事長と汐路中学1年生だった新城さん。田中理事長の後ろはコト夫人(名古屋市昭和区五軒家町の自宅で。新城さん提供)
  • 浴衣姿の田中理事長と汐路中学1年生だった新城さん。田中理事長の後ろはコト夫人(名古屋市昭和区五軒家町の自宅で。新城さん提供)

新城さんは小学5年生のとき、初めて母親の千代さんに連れられて名古屋市昭和区五軒家町に住む祖父の田中理事長を訪ねました。弟たちも一緒で、千代さんにとっては子供を連れた初めての里帰りでした。田中理事長にとって初めて対面する外孫でした。この時の里帰りがきっかけで、新城さんは中学校は田中理事長宅から名古屋市瑞穂区の汐路中学校に入学することになり、2年後、再び宮古島から名古屋を訪れます。豊岡さんが名城大学短期大学部に入学した1954(昭和29)年のことです。

新城さんが田中家で感じたのは、予想に反した質素な生活ぶりでした。「丹前姿の壽一おじいちゃんと一緒に囲むちゃぶ台の上に並ぶのは、女中さんが用意したシャケの切り身に漬物程度。おじいちゃんはごま塩が好きでご飯にふりかけて食べていました。サザエさんの漫画の雰囲気でした」。田中理事長は毎朝食事前、庭で自己流の体操をした後、「フランス語を勉強するんだ」などと声を出しては自分の部屋に入っていくのが日課でした。

歯学部の開設準備書類

田中理事長は、「今度は歯学部をつくるんだ」と机の上に開設準備の書類を積み上げていました。新城さんは祖父から教授陣の書き込まれた厚さ3センチほどの書類を見せてもらいながら、歯学部の次は医学部をつくるのだろうと思ったそうです。

「それなら自分も医者になって役立たなければ」。新城さんはこの時の体験がきっかけで、名古屋大学医学部を目指すことを決めたそうです。しかし、名城大学では次第に、紛争の嵐が強まり始めていました。新城さんは名古屋での中学生活は1年で切り上げ、宮古島に帰らざるを得ませんでした。

沖縄現地入試のスタート

  • 宮古島から名古屋に向かった時の思い出を語る福里さん
  • 宮古島から名古屋に向かった時の思い出を語る福里さん

豊岡さんは短期大学部を卒業後、広島の造船所に設計見習いとして就職しましたが、食べて寝るだけがやっとでした。「宮古島で教員をしないか」との誘いがあったのを幸いに、広島での生活には半年で区切りをつけて宮古島に戻りました。宮古水産高校勤務を振り出しに沖縄工業高校校長として定年退職するまで、教員生活を送りました。

豊岡さんより一足先に名城大学短期大学部商経科に入学した垣花さんも、さらに2年間、第二法商学部商学科で学んでから帰郷し、宮古水産高校の教員になりました。宮古水産高校教員には短期大学部商経科を1957年に卒業した狩俣幸男さん(78)も赴任してきます。

名城大学卒業生の教員たちは、教え子たちにも積極的に名城大学への進学を勧めました。校友会沖縄県支部の8代支部長を務め、那覇市内で行政書士などの事務所を開いている福里栄記さん(73)は宮古水産高校から1960年に名城大学法商学部に入学しましたが、大学選びでは垣花さんの影響を強く受けたと言います。すでに、東京の私大に合格していましたが、垣花さんから名城大学のパンフレットを渡され、「名城は中部最大の総合大学。地元では知らない人はない大学だから、必ず名城に行きなさい」と説得されたそうです。

沖縄では前年の1959年2月、那覇市で第1回現地入学試験も行われ、垣花さんや豊岡さんら卒業生たちが会場確保や実務のサポートで奔走しました。福里さんは、福里さんが受験した第2回現地入試で入学した沖縄出身者は40人近くに達し、とりわけ薬学部には20人近くが入学したと言います。名城大学校友会の「会員名簿」(1996年)の薬学部 7回卒業生(第2回現地入試組)の現住所を追ってみると、確かに沖縄県在住者が16人もいました。

姉妹4人が薬学部に

  • 座談会で現地試験の思い出を語った薬学部卒業生たち(校友会沖縄県支部50周年記念誌から)
  • 座談会で現地試験の思い出を語った薬学部卒業生たち(校友会沖縄県支部50周年記念誌から)

校友会沖縄県支部の「創立50周年記念誌」に、沖縄現地試験を受けて名城大学薬学部に入学した女性卒業生たちの座談会が収録されていました。登場するのは第1回現地試験を受験した1963(昭和38)年卒の3人、第2回現地試験を受けた1964(昭和39)年卒の2人です。進行役の2人も後輩の薬学部OGです。

座談会では自己紹介に続いて、どうして現地試験があることを知ったのかの話題になりました。第1回試験組で、外科医院を開業する夫を事務長として手伝っているという岸本知子さんは、「高校で勧められたのではないかと思います。私が名城大学に進学したことで、妹3人も名城大学の薬学部に進学しました」と語っています。

座談会では興味深い話が続いています。

▽沖縄から本土に受験に行くというのは時間、費用の面で大変な負担でしたので、現地試験は大変ありがたく、喜んだのを覚えています。

▽現地試験の窓口になっている琉球政府文教局に母のいとこが勤めていて、母に私の受験を勧めてくれました。

▽試験会場の那覇商業高校の畳の間で、一人ずつ座って面接を受けたのを覚えています。面接は和室でしたから、ふすまもていねいに開け、きちんとあいさつしなければと緊張しました。

▽試験は全学部でした。2教室いっぱいに受験生がいたのを覚えています。

▽当時、受験生が何人集まったか、新聞の記事になっていました。

九州では最多の卒業生

福里さんが1960年春、名城大学に入学するために、宮古島から那覇、鹿児島を経由して名古屋にたどり着くまで3日かかりました。鹿児島に向かう船が出る日時を確かめないと那覇で足止めをくう心配もありました。

まだアメリカの統治時代。「留学生」扱いのパスポートが必要でした。ビザを取得し、税関の調査をクリアし五色のテープで送られての旅立ち。福里さんは54年前の宮古島から名古屋への旅立ちの日の思い出を、「本土に向かう時は生き別れのような気持ちになりました」と振り返りました。

校友会沖縄県支部の「創立50周年記念誌」には、2010年8月1日現在の沖縄県出身の卒業生は九州の他県を抜いて最も多く600人を超し、中でも薬学部が249人と最も多く、続いて理工学部が147人、法学部が124人と続いていることを紹介した記事がありました。九州大学名誉教授でもある兼松顯元学長が50周年を祝福して寄稿した文章です。兼松元学長は「日比野信一先生の学長時代のご努力により、沖縄現地での入学試験が実現したことは、沖縄の父母や受験生にとり福音でした」と記しています。50周年記念誌が発行された3か月後、兼松元学長は胃がんのため亡くなりました。79歳でした。

(広報専門員 中村康生)

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