特設サイト第2部 第10回 波路の果てに

  • 岩山さんが学生時代を送った当時(1958~1962)の鷹来校舎農学部正門
    岩山さんが学生時代を送った当時(1958~1962)の鷹来校舎農学部正門

沖縄から農学部へ

  • 名城大学時代を語る石川さん(那覇市の自宅で)
  • 名城大学時代を語る石川さん(那覇市の自宅で)

沖縄から、屋久島から、名城大学には波路を越えての入学者が続きました。沖縄からの農学部入学第1号は1954(昭和29)年入学の宮城良友さん(79)と宮城久侑(ひさゆう)さん(78)です。2人は親類ではありませんが、ともに名護市の沖縄県立北部農林高校を卒業し、推薦入試で名城大学に入学(自費留学)しました。畜産を学びたかった良友さんは2年生の時から、朝5時に起きて農場で搾乳のアルバイトをして生活費の足しにしたそうです。2人とも卒業後は沖縄に戻り、中学校の理科教員となりました。

宮城良友さん、宮城久侑さんに続いて1955(昭和30)年に沖縄から農学部に入学したのが石川稔さん(78)です。校友会沖縄県支部の4代支部長でもあった石川さんを那覇市の自宅に訪ねました。

石川さんは1950(昭和25)年から1957(昭和32)年まで農学部に設置された医科歯科進学課程(通称・医科進コース)に入学しました。全国に医学部や歯学部が少なく、一方で大学が教養と専門課程にはっきり分かれていたこの時代に、名城大学農学部では、教養課程2年間に履修した科目の単位修得証明書を発行、「必要単位を修得すれば他大学の医学部、歯学部の専門課程に入学できる」とうたい、全国から学生を集めていました。田中壽一理事長が農学部のある鷹来校舎に医学部、歯学部を設置する構想を持っていたことも医科進コース設置の大きな理由でした。

石川さんは県立那覇高校を卒業し、兄のいた山梨県甲府市で1年間浪人。医学部につながる最後のチャンスとして、名城大学医科進コースが2次募集をしていることを受験雑誌で知りました。4月中旬に駒方校舎で面接試験を受け、5月に入学しました。

医科進コースの終焉

  • 石川さん(後ろ右)が学んだ栄養化学教室
  • 石川さん(後ろ右)が学んだ栄養化学教室

農学部『50年の歩み』(2000年発行)によると、石川さんら農学部の第6回入学者は86人。石川さんの記憶ではほぼ半数、40人以上が医科進コースでした。広々とした鷹来キャンパスの北部地区に寮があり、授業も寮の中にあった教室で行われました。英語、ドイツ語、生物、化学などの授業に自室から寝間着姿のまま現れて、追い払われる学生もいました。「紛争が始まっていて騒々しい雰囲気。医科進の学生たちの中には予備校のつもりで授業に出て来る学生も多く、愛校心は薄かったと思います」と石川さんは振り返ります。

寮で割り当てられた相部屋は20畳もある広さでした。2人だけでは冬は寒く、石川さんたちは2段になっている押入れの上段に万年床を敷き、机を持ち込みました。たくさんある押入れが“個室”になりました。

しかし、石川さんたちが2年生になった時、医科進の学生募集は打ち切られました。石川さんや同期生たちも他大学に移るか、農学部に残るかの選択を迫られました。石川さんは那覇の実家が泡盛を造る酒屋だったこともあり、農芸化学を学ぼうと農学部に残り栄養化学教室に籍を置きました。医科進に入学した半分が名城大学を去り、一緒に卒業した6回生は41人でした。

屋久島からも

  • 研修生として入学した学生時代を語る岩山さん(春日井市の自宅で)
  • 研修生として入学した学生時代を語る岩山さん(春日井市の自宅で)

農学部には屋久島からも入学者がありました。鹿児島県の南約60kmに浮かぶ屋久島は、白神山地や法隆寺とともに21年前の1993年に日本初の世界遺産に登録されました。愛知県春日井市の岩山正光さん(77)は1958(昭和33)年春、この自然遺産に恵まれた南の島を後にして名城大学に入学しました。島では2年間、小学校分校の代用教員を務めました。高校を卒業したばかりでしたが、戦死した父親に代わって母子家庭の家族を支えなければなりませんでした。

情報の乏しかった島でしたが、農協を通して配られる月刊誌『家の光』に、農場で働きながら学資を自らの力で稼ぎ出して学べる「研修生制度」が名城大学にあることを紹介する記事が掲載されているのが目に止まりました。向学心に燃えていた岩山さんの夢は膨らみ、名城大学で農業を学ぶことを決めました。しかし、岩山さんを待ち受けていたのは、予想を超えた過酷な体験でした。

田中理事長の即決

  • 農場の水田で田植えに汗を流す研修生たち(岩山さんのアルバムから)
  • 農場の水田で田植えに汗を流す研修生たち(岩山さんのアルバムから)

農学部の研修生制度は、駒方校舎で、働きながら学ぶ「工作班」が活動を始めた2年後の1954年に発足しました。工作班の生みの親である高岡潔教授は農学部でも同様な制度導入を目指していました。

研修生1期生有志がまとめた『研修学生の実践記録~名城大学農学部綜合農業経営研修施設の実践教育~』(2000年)によると、高岡教授は1953(昭和28)年夏、農林省農業教育課技官だった中田正一氏(1906~1991)を田中理事長に引き合わせています。九州帝大卒の中田氏は後に、私財を投じて千葉県に「風の学校」を設立。発展途上国での農業技術指導や井戸掘りなどの奉仕活動を志す若者を育成し、吉川英治文化賞を受賞しています。

中田氏の「働きつつ学ぶ研修生制度」の熱い訴えに、田中理事長は、「農場の開墾整備を促進するうえでも効果がある」として大賛成します。研修生制度の設置は即決されました。

「角帽農民」と呼ばれて

  • 名城大学の研修生制度を紹介した朝日新聞夕刊(1956年6月3日)
  • 名城大学の研修生制度を紹介した朝日新聞夕刊(1956年6月3日)

1956(昭和31)年6月3日の「朝日新聞」夕刊に「働きつつ学ぶ“角帽農民”」の見出しで、名城大学農学部の農業研修生の活動を紹介する記事が掲載されました。

「学業を生かす喜び 収穫で学資の大半賄う」のサブ見出しもつき、「一昔前の“晴耕雨読”的なよさはちょっとよそには見当たらない。4年制の大学で研修生制度を持っているのはこの大学だけ」「仕事は午前6時に起きて8時まで畑仕事。9時から学校に行くが、講義は大体午前中だけなので、午後は夕方暗くなるまで作業する。農耕道具の主なものは自動耕運機1台と活力用の耕運機が2台。これに共同飼育の役牛が1頭といったところ。収穫した作物を市場に運ぶためのオート三輪があったらというのが一番の願いだという」。記事では学生たちが、学業と農業を両立させている様子が紹介されています。

研修生制度の終焉

  • 収穫の喜びに笑顔も目立つ研修生たち(岩山さんのアルバムから)
  • 収穫の喜びに笑顔も目立つ研修生たち(岩山さんのアルバムから)

しかし、「働きつつ学ぶ」ということは生易しいことではありませんでした。全寮制で共同生活をしながら生産に励む独立採算制。農場内で1人につき一定の面積(10~25アール)が貸し与えられ、個人または共同で耕作し、得られた生産物を自ら販売しなければなりませんでした。その収入は種苗、農薬、農機具修理等の費用にあてられるとともに、授業料など学費、食費にあてられました。

研修生1期生はそれなりの成果を挙げたものの、荒地の開墾が主な仕事で、肉体労働に頼っての作業が中心ということもあって、応募者は減少。研修生募集は1961年度以降、中止されました。『研修学生の実践記録』の中で、研修生1期生の小山田高士さん(83)(春日井市)は「ともあれ、研修制度は滅びた」「研修生制度の初期の目標をほぼ達成したのは第1期生のみであった」と書いています。

「朝日新聞」の記事で紹介された研修生も1期生である3年生14人、2期生の2年生が1人、3期生の1年生7人。1期生があっての“角帽農民”たちでした。『研修学生の実践記録』によると研修生として農学部を卒業したのは1期生13人、2期生1人、3期生6人、4期生0人、5期生2人、6期生7人、7期生2人。計31人でした。

愛知用水建設でアルバイト

  • 幡豆海岸での新聞会の合宿(岩山さんのアルバムから)
  • 幡豆海岸での新聞会の合宿(岩山さんのアルバムから)

岩山さんも研修生として卒業しました。収穫したトマトやキュウリ、レタスを朝早く、春日井駅まで売りに行ったり、鷹来校舎近くでキムチを漬け込む在日韓国・朝鮮人の人たちにはハクサイをよく買ってもらいました。しかし、作物の販売収入だけでは生活は成り立たず、夏は農家の田植えを手伝いました。朝4時には水田に入り、夜9時、10時まで働きました。尾張丘陵部から知多半島にかけての一帯に農業用、工業用、上水道用の水を供給する愛知用水建設のためのブロック運搬トラックに助手として乗り込むアルバイトもしました。クレーンもない時代。炎天下でブロックを1個1個積んでは降ろす作業は過酷でした。

それでも石山さんは、新聞会にも所属し仲間たちとの語らいを学生生活の励みとしました。駒方校舎までは自転車で移動し、編集会議に加わりました。仲間たちと田中理事長のワンマン的な学校運営に抗議して座り込みにも加わりました。鷹来校舎で理工学部の小沢久之亟(きゅうのじょう)教授が音速滑走体の実験を行った時は胸を踊らせながら取材しました。

研修生制度の消滅について石山さんは「大学も紛争を抱え、我々研修生がお荷物になっていったのでしょう」と話します。

苦境をバネに

  • 鹿児島からの急行「きりしま」の整理券も収められていた岩山さんのアルバム
  • 鹿児島からの急行「きりしま」の整理券も収められていた岩山さんのアルバム

苦境をバネに農学部を卒業した石川さんと岩山さん。石川さんは愛媛県での農協勤務などを経て父親が株主だった沖縄サントリーに入社します。1972(昭和47)年の本土復帰前の沖縄の通貨はドル。トリス、赤玉ポートワインの花形商品を抱えるサントリーでしたが、本土からの輸入品のため185%という関税がかけられていました。サントリーから原酒を輸入して瓶詰すれば関税が安くなる。別法人の沖縄サントリーをつくり、現地で製品化する方法がとられました。1961年の沖縄寿屋(1963年、沖縄サントリーに社名変更)創立でした。

「沖縄に原酒を持ってきて、水で割って瓶詰めして売るわけです。サントリーとしてもドルを稼げるのは魅力でした」。『沖縄サントリー株式会社20年の歩み』(1981年)にも編集委員として名前を連ね、専務として沖縄サントリーを1995年に退職した石川さんは、紆余曲折はあったものの、農学部卒業後に歩んだ沖縄での人生を懐かしそうに語ってくれました。

岩山さんは名古屋の金城学院中学・高校で理科(生物)担当の教員生活を続け、教頭として定年退職しました。「学生時代は苦しい生活が続いたこともあって、参考書1冊を買うにも大変でした。思い出の詰まった参考書だと思うと中々処分できなくて。最近、やっと、学生時代のアルバムなどを整理し始めたところです」。

岩山さんが広げてくれた「会計帳」には、家庭教師4500円、奨学金2000円、書籍代360円、レタス140円、ハクサイ218円など、岩山さんの几帳面な生活ぶりを映し出すような数字がていねいに書き込まれていました。屋久島の妹たちが送ってくれた1000円、500円の記録もありました。

岩山さんと富山丸

  • 岩山さんの父清晴さんも犠牲になった「富山丸」(日本郵船歴史博物館提供)
  • 岩山さんの父清晴さんも犠牲になった「富山丸」(日本郵船歴史博物館提供)

岩山さんと石川さんは第二次大戦末期の悲劇に関わっていました。岩山さんと深い関わりがあったのは、沖縄守備のため、将兵ら4000人余を乗せて、鹿児島から那覇に向かった輸送船「富山丸」(7089トン)です。富山丸は1944(昭和19)年6月29日、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、鹿児島県徳之島4キロ沖で沈没しました。ドラム缶1500本分のガソリンを積んでいたため、周囲は火の海となり、約3700人が犠牲になりました。将兵は九州、四国の旅団で編成されており、岩山さんの父清晴さんも犠牲になったのです。38歳という若さでした。

岩山さんは70歳の時、娘さんと、清晴さんがかつて日本による台湾統治時代に、警察官として勤務していた台湾中央の山地、台中州能高郡霧社地区を訪れました。清晴さんは、「霧社(むしゃ)事件」と呼ばれる、1930年10月27日に霧社地区で起こった台湾原住民による抗日暴動事件を鎮めるため派遣を命じられていました。岩山さん自身の出生地訪問であるとともに、亡き父親の足跡をたどる旅でした。

石川さんと対馬丸

  • 石川さんが乗船予定だった「対馬丸」の模型(那覇市の対馬丸記念館で)
  • 石川さんが乗船予定だった「対馬丸」の模型(那覇市の対馬丸記念館で)

石川さんの運命を変えることになったかも知れないのが学童疎開船「対馬丸」(6745トン)です。対馬丸は本土疎開の学童たちを乗せて、那覇から鹿児島に向かう途中、鹿児島県トカラ列島の悪石島付近で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈みました。学童780人を含め1482人の命が奪われました。

対馬丸沈没は富山丸沈没のほぼ2か月後の8月22日夜。国民学校3年生だった石川さんは3歳上の兄和男さんと那覇から乗り込む予定でした。しかし、乗船直前になり、虫の知らせなのでしょうか、祖母が「やめなさい」と言い出したため乗船を見送ったのです。軍の情報管制で箝口令が敷かれたこともあって、石川さんをはじめ、国民は終戦を迎えるまで悲劇の詳細を知ることはできませんでした。

ひょっとしたら乗船していたかも知れない対馬丸との関わりを語ってくれた石川さんが、その日夕食に誘ってくれました。沖縄サントリー勤務時代からの馴染みらしい、静かな店のカウンターで石川さんはウイスキーのグラスを傾けながら、芥川賞、直木賞作家でもある開高健や山口瞳を社員として抱えていたサントリー宣伝部について語りました。広報戦略を学ぶため、自分もサントリー本社に研修に出向いたこと、沖縄の泡盛酒造会社が新商品を売り出す際にはPR方法でアドバイスを求められたこと。沖縄サントリーの広報戦略を語る石川さんは楽しそうでした。

実は私はこの日夕方、対馬丸についてもっと詳しく知りたくて閉館直前の「対馬丸記念館」に駆け込み、犠牲となった学童たちの写真や遺品を見ていました。そのことを石川さんに語っている最中、小さな“事件”がおきました。かかってきた携帯電話に出るため席を離れて、再び席に戻った時、石川さんが席にいませんでした。ほんの数分後、目が潤んだ石川さんが席に戻ってきました。「対馬丸は私にとってトラウマなんです。あまりにもつらくて対馬丸記念館には一度も行ったことはありません」。石川さんとの会話が再開されるまで、ほんのわずかでしたが沈黙の時が流れました。

富山丸と対馬丸の沈没現場

富山丸と対馬丸の沈没現場

対馬丸事件を検証するため2004年8月に開館した「対馬丸記念館」。 財団法人対馬丸記念会の運営で、犠牲となった学童たちの写真や遺品が展示されていました。

対馬丸事件を検証するため2004年8月に開館した「対馬丸記念館」。 財団法人対馬丸記念会の運営で、犠牲となった学童たちの写真や遺品が展示されていました。

幻と消えた沖縄初の留学生

  • 名城大学新聞に掲載された「初の沖縄留学生」の記事
  • 名城大学新聞に掲載された「初の沖縄留学生」の記事

1951(昭和26)年2月3日の「名城大学新聞」に「初の沖縄留学生 農学部へ入学」という記事が掲載されました。「沖縄から昭和26年度新入生として、農学部へ無試験入学が決定した村田精太郎君=沖縄本島今帰仁村(なきじんそん)=は近々、沖縄軍政部の渡航許可を得て渡日することになっている」という短い記事です。村田さんの顔写真も掲載されており、入学を確信していた大学側から新聞会に提供されたに違いありません。

しかし、名城大学の卒業者名簿に村田さんの名前は見当たらず、当時の農学部卒業生でも村田さんを知っている人は見当たりませんでした。

歯科医師向けの「今日の歯科ニュース」というインターネットサイトで村田さんの名前を見つけました。2009年5月10日の、元沖縄県歯科医師会専務理事である村田精太郎さんの訃報です。「病気療養中のところ名護市内の病院で死去。86歳。自宅は今帰仁村上運天137。告別式は5月10日午後4時から4時半、那覇市久米2の7の9、那覇中央教会で執り行われる。喪主は妻千鶴子さん」。

名城大学進学への迷い

沖縄県歯科医師会事務局の方が村田さんの経歴をていねいに教えてくれました。村田さんは1951年4月に日本歯科大学予科に入学していました。1953年3月、予科卒業。同年4月に学部入学。1957年3月卒業。同年にコザ市(現在の沖縄市)の病院に勤務。1959年、琉球政府社会局公衆衛生課勤務。1961年、コザ市で開業。1963年7月、那覇市で開業。沖縄県歯科医師会では理事を経て、昭和1972年4月~1974年3月専務理事。晩年は郷里の島尻郡南風原(はえばる)町で開業。「温厚なクリスチャンで、クリスマスには皆さんによくケーキを配っていましたよ」。電話で応対してくれた年輩の女性職員は村田さんの人柄についても懐かしそうに語ってくれました。

村田さんの三男で、那覇市内で「ひめゆり歯科医院」を開業する道夫さん(59)も父親について語ってくれました。「父は旧制沖縄一中(現在の首里高校 )出身。日本歯科大学に入学したのは高校を卒業して10年後。東洋大学で学び、俳句作りや昆虫採集に熱中するなど、自分でも“寄り道した”と話していました。歯科医を目指したのは、父の父が医者だったからでしょう」。

村田さんが一時は入学しようとした名城大学農学部は医科進コースだったのでしょう。名城大学は本当に自分の夢を叶えてくれる大学なのか。村田さんは迷ったあげく決断したのだと思います。高校を卒業してすでに10年も足踏みしてしまっていた村田さんには後戻りできない人生の選択だったからです。

  • 「対馬丸記念館」の犠牲者の遺影。解説文には「これは全犠牲者数1482名中約20%にすぎません」とありました。
    「対馬丸記念館」の犠牲者の遺影。解説文には「これは全犠牲者数1482名中約20%にすぎません」とありました。

(広報専門員 中村康生)

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