特設サイト【名城大学通信第49号】名城大学物語
天白キャンパスの誕生と学生数が激増した1960年代後半~夢追い続け青春を燃焼させた「八事裏山フォーク」の時代~
天白キャンパスが誕生して2015年で50年。大学本部が駒方キャンパスから天白キャンパスに移転した名城大学は学生数の激増期を迎えます。1966(昭和41)年度の学生数(大学院、学部、短期大学部)は1万2103人と、中部地区の大学としては初めて1万人を突破しました。中村校舎から理工学部が、春日井市の鷹来校舎から農学部も相次いで合流し、タコ足キャンパスを解消することで名実ともに総合大学となった名城大学。天白キャンパスでは学生たちが躍動し全国舞台に躍り出ていきました。
広報専門員 中村康生
中部地区初のマンモス大学
『名城大学75年史』によると1965年度の学生数は9526人ですが、学生数は増え続け、翌年度には1万2103人と1万人台の時代に突入します。1971年度には1万7900人に達し、1965年度と比較すると87.9%増。2倍近い膨張ぶりで、附属高校の2878人を加えると、学校法人名城大学の1971年度の学生・生徒数は2万778人に及びました。
学生数が1万人を超した大学は当時、「マンモス大学」と呼ばれました。元日本高等教育学会会長で東京大学名誉教授の天野郁夫氏の著書『高等教育の日本的構造』(1986年、玉川大学出版部)によると、1970年度のマンモス大学は全国で28校。東京大学、京都大学の国立2校を除く26校は私立大学。中部地区のマンモス大学は名城大学だけです。
同書は26校中、不明の専修大を除く25校の学生数が1万人を超えた時期を4期に分類しています。1935~46年4校(早稲田、日本、慶応、中央)、1946~55年5校(明治、法政、関西、立命館、同志社)、1955~60 年3校(東洋、國学院、関西学院)、1965~70年13校(青山学院、明治学院、立教、駒沢、龍谷、神奈川、国士舘、近畿、東京理科、東海、大阪工業、福岡、名城)。
「マンモス私大」の学校数は私立大学全体では1割以下ですが、在学者数でのシェアは26校で52%を占めました。1965年~1970年にマンモス私大の仲間入りを果たした名城大学など13校について天野氏はその特徴として、「戦後社会の新しいニーズを鋭敏にとらえた経営戦略」があったことを指摘しています。
学部、大学の枠超える学生たち
愛知県立安城高校から1969年に理工学部交通機械学科に入学した深津正一さんは、入学と同時に迷わず理工学部軽音楽部に入部しました。中学校時代からエレキブームの中で育った深津さんは高校時代にはギターやドラムに夢中になりました。アメリカのカリスマ的なブルースシンガーで、ローリングストーンズらにも影響を与えたと言われるマディ・ウォーターズにあこがれ、軽音楽部の仲間たちには「マディ深津」と名乗るほどでした。
天白キャンパスには1965年暮れに法商学部(1967年からは法学部、商学部に分離)、短期大学部が駒方校舎から移転したのに続き、1967年からは理工学部の移転が始まり、1969年には農学部も移転しました。
深津さんによると、3学部にはそれぞれ軽音楽部がありました。理工学部の軽音楽部は盛況で、学生たちはフルオーケストラ、ジャズ、ロック、フォークと幅広いジャンルでの演奏活動を楽しんでいました。やがて3学部の軽音楽部はお互いにメンバー不足を補い合う必要に迫られたこともあり合流、学部の垣根を超えたオール名城の軽音楽部に一本化されていきました。他大学の学生たちとバンドを組み、バンド仲間のいる近隣大学に出向いて練習する学生たちも相次ぎました。深津さんたちも、キャンパスが近かった東海学園女子短期大学(現・東海学園大学)の学生たちとはよく行き来したそうです。
「チェリッシュ」でレコードデビューした名城大生
深津さんが3年生だった1971年9月、名城大学の学生たちを驚かす出来事が起きました。同じ軽音楽部の先輩が他大学生らと1968年に結成していた「チェリッシュ」がレコードデビューし、その先輩が作曲した「なのにあなたは京都へゆくの」がヒット曲として踊り出たのです。
今でも結婚式でよく歌われる「てんとう虫のサンバ」などのヒット曲を出した名古屋の夫婦デュオ「チェリッシュ」のデビュー時のメンバーは5人でした。その1人でベースを担当したのが、軽音楽部で深津さんの2年先輩である理工学部電気工学科の藤田哲朗さんでした。藤田さんが作曲し、東海学園女子短大の学生だった脇田なおみさんが作詞したのが「なのにあなたは京都へゆくの」でした。
――私の髪に 口づけをして 「かわいいやつ」と 私に言った なのにあなたは 京都へ行くの 京都の町は それほどいいの この私の 愛よりも ――
松井悦子さんが哀愁をこめて歌い上げたこのレコードは35万枚が売れるヒット曲となりました。
作曲したのが藤田さんだったことを電気工学科の同級生たちが知ったのは卒業して1年後でした。藤田さんと同じ1966年入学ノ岩室隆さん(名古屋市南区)は、共に1年生時代に過ごした中村校舎で藤田さんと一緒に撮った写真を持っていました。
「藤田君に買ったばかりのバンジョーを見せてもらったことがあります。何という楽器なのかとたずねる級友たちに、バンジョーだよと得意そうに教えてくれました。レコードが発売された時は、私たち同級生たちはすでに社会人でしたから、作曲の著作権で食って行けるのだろうかなどと話題になりました」。藤田さんと一緒に撮った写真を見せてくれた岩室さんは誇らしそうでした。
チェリッシュは「なのにあなたは京都へゆくの」の発売後は松崎好孝さん、松井悦子さんのデュオとなり、藤田さんら3人はチェリッシュを去りました。藤田さんは岩室さんたちより2年遅れて1972年に卒業。CBSソニーに入社し、東京で音楽ビジネスに関わり続けました。会社を定年退職後も週末には仲間たちとバンド演奏を楽しんでいるという藤田さんに埼玉県の自宅に電話してみました。
「チェリッシュ時代は、1971年に東京で開かれた第1回全国フォーク音楽祭全国大会に、松崎君の持ち歌で参加しました。4位でしたが、これがきっかけでビクターからレコードデビューの声がかかりました。全国フォーク音楽祭で競い合った中にはタイガースのジュリーもいました。名城大学の軽音楽部は活発でしたよ。ただ、自分がプロミュージシャンとしてやっていく限界を悟り、遅ればせながら卒業しました」。藤田さんはフォークに明け暮れた名城大学時代が懐かしそうでした。5人メンバーのチェリッシュとしては最初で最後の1枚となったレコードジャケット右端には、岩室さんが見せてくれた写真と変わらない藤田さんがいました。
「八事裏山フォークオーケストラ」の全国デビュー
先輩である藤田さんの全国デビューに刺激されるように、深津さんは1972年、軽音楽部員たちに呼びかけて「八事裏山フォークオーケストラ」を結成しました。後輩の谷口浩一郎さん(理工学部建設工学科土木分科)らメンバーは最初6人でした。バンド名の「八事裏山」は天白キャンパスの所在地である当時の「昭和区天白町八事裏山」から取ったものです。ジャズ、ロック、フォークが好きな部員たちの混成バンドでしたが、「音楽で飯を食えるなら何でもやってみよう」と深津さんは思ったそうです。
八事裏山フォークオーケストラがめざしたのは前年、藤田さんらの「チェリッシュ」が参加した全国フォーク音楽祭全国大会の第2回大会でした。愛知県体育館での地区大会を突破して臨んだ東京・日比谷野外音楽堂での全国舞台。八事裏山フォークオーケストラは、「東京から船にのって~白い夜霧のブルース~」の持ち歌を演奏しました。
深津さんによると、フォークというよりは、ムード音楽にジャズをミックスさせたようなギャグソング。ダンスチームも加えた12人で参加し、ステージでのパフォーマンスが受け、会場は大盛り上がりとなり、中島みゆきさんら3人とともに入賞しました。谷口さんは、「司会の吉田拓郎さんがすごく気に入ってくれて、『名城大学ってすごいんだな』と祝福してくれました」と懐かしそうに振り返ります。
八事裏山フォークオーケストラにはさっそくテイチクからレコードデビューの話が持ち込まれ「東京から船にのって~白い夜霧のブルース~」が発売されました。深津さん、谷口さんらメンバーたちは「夢のようだ」と喜び合いました。
アリスや海援隊も八事裏山の前座で演奏
八事裏山フォークオーケストラは「赤い潜水艦」「予期せぬ雨」も加えた3枚のシングルレコードを出しました。しかし、期待したほどヒットせず、就職活動に走るメンバーも相次ぎ、結成2年余、1974年に解散しました。
深津さんが交通機械学科に入学したのは小澤久之亟教授の音速滑走体へのあこがれもありました。八事裏山フォークオーケストラを結成した4年生の時、「この1年間は音楽に全てをかけ、芽が出そうになかったらもう1年かけて大学を卒業し就職しよう」と決めたそうです。しかし、全国舞台での入賞、レコードデビュー、地元での相次ぐコンサート参加で時間は矢のように早く過ぎ去りました。深津さんは勉強生活に戻るタイミングを失ってしまいました。
70年安保と前後して燃え上がった学生運動。若者たちの心をとらえたロックやフォーク。第2回全国フォーク音楽祭全国大会で入賞した八事裏山フォークオーケストラは、全国的に売れたわけではありませんでしたが、名古屋で開催される、何組ものフォークグループが出演するコンサートでは引っ張りダコとなったこともありました。名古屋市公会堂や市民会館などのコンサートでは、結成されたばかりのアリスや海援隊、チューリップが前座で演奏し、八事裏山フォークオーケストラが最後を飾るトリを務めたこともありました。
「理工学部軽音楽部ジャズ学科卒業」の誇り
深津さんは、名古屋の民放ラジオ局で深夜放送のDJなど音楽関係の仕事に関わりながらイベント業界での仕事を続けてきました。「谷村新司さんらのアリスなんか見ていると、最初は売れなくても、続けていくうちに、結局は世間が求めているものと一致した作品をうまく生み出していった。そういう運もあると思います」。深津さんはミュージシャンとしての限界を知った青春時代を振り返ります。
名古屋市東区の勤務先近くの喫茶店で深津さんは、笑顔で語りました。「卒業はしなかったが、名城大学あっての自分です。まさに自由の学府でした。仕事で出身大学を聞かれた時は、名城大学理工学部交通機械学科入学、軽音楽部ジャズ学科卒業と答えています」。
名古屋市千種区今池でライブ演奏もできるダイニングバーを開きながら、演奏活動を続け、ミュージシャンを志す若者たちの相談にも乗っている谷口さんも、大学には戻りませんでした。
「コンサートではファンが喜び、プレゼントもくれ、有頂天になった。大学での測量実習に戻る気はまったくなかった。しかし、夢を見たのは一瞬でした。あっという間に、僕らの前座で演奏していたアリスや海援隊が有名になっていった。親父からは、音楽に夢中になるのは1年だけだぞと釘をさされましたが、1年はあっという間に過ぎてしまった」。久し振りに名城大学時代を語った谷口さんもまた、「名城大学に入ってよかったと思います。総合大学だったのでいろんな人に出会えた」と語ってくれました。
「入学案内」の学長メッセージは「自由の学府」
八事裏山フォークオーケストラが結成された1972年から4年間学長を務めた川上幸治郎学長は「入学案内」の冊子で受験生たちにメッセージを送っています。ゴチックで強調したのが「自由の学府」「文科系、理科系両面にわたる総合大学」でした。
本学の大きな特徴は校歌にある自由の学府である。この自由とは文化社会の常識にかない、自分もまた正しいと思うことを決断し、責任を持って行動することである。本学は文科系、理科系両面にわたる総合大学であり、全国から集まる学生が、専門のほかに、広汎な修業ができるという勉学条件を備えているばかりでなく、これが卒業後の活動に貢献する効果は計り知れないものがある。本学は過去において、幾多の困難に遭遇したが、不死鳥のように立ち上がったことでも明らかなように、教員、学生、卒業生がよく融和し、相ともに発展に全力を尽くしている希望にあふれる大学である――。
本記事は2015年春発行の「名城大学通信第49号」を一部抜粋したものです。
役職等はその当時のものとなっております。予めご了承ください。