特設サイト第1部 第1回 高理工時代と学徒動員

  • 第1回 高理工時代と学徒動員。
    愛知県体育館2階席から後輩たちの卒業式を見守るスペシャルホームカミングデイ参加者たち。

スペシャルホームカミングデイ

  • スペシャルホームカミングデイ
  • 半世紀以上も前の自分たちの卒業式を思い浮かべ「夢のようだ。僕は本当にこの名城大学を卒業したのかと思った」(1956年法学部卒、桑原邦彰さん)と語る卒業生も。前列中央の伊藤さんも感無量の様子でした。

卒業して半世紀以上になる名城大学の卒業生たちの集い「スペシャルホームカミングデイ」が3月19日、初めて開催されました。参加したのは1958年(昭和33年)までに名城大学を卒業した166人。前身の名古屋高等理工科学校の卒業生1人、名古屋専門学校卒業生24人も駆け付け、卒業して久しく実感することのなかった母校との絆をかみしめました。

参加者たちはこの日、愛知県体育館で開催された現役学生たちの卒業式に臨みました。体育館2階に設けられた受け付け。オールド卒業生たちの多くが最初に探し求めたのは、学部別、卒業年次別に作られた参加予定者名簿でした。自分の前後にあるはずの旧友の名前を探す人たちが目立ちました。学部別に色分けされた名札を受け取りながら、再会を期待していた友の名前を見つけることができず、「出て見えんということは、いろいろあるんだねえ」と残念そうな80歳男性。

「物故者の名簿はありませんか」と尋ねる83歳の男性もいました。参加者たちは体育館2階特別席から社会に巣立っていく3400人近い後輩たちを感慨深い様子で見守り、学生たちとともに懐かしい学歌を斉唱。体育館から5台のバスで名古屋駅に移動し、名古屋マリオットアソシアホテルでの懇親交流会に臨みました。会場は歓喜の熱気にあふれました。「遊び過ぎて卒業も危うくなるほどバカをやった男ですが、名城節をやれと言われて浜松から飛んできました」。3時間近い宴を、1956年法商学部卒で応援団長だった宮司正幸さんが「名城節」で締めるころは、参加者たちは、母校との熱い絆に酔いしれていました。風雪に耐えながら歩んできた互いの人生にエールを送り合っているかのように。

戦時下の高理工生たち

  • 戦時下の高理工生たち
  • 名古屋高等理工科学校中等科生たちの学徒動員勤労服姿での記念撮影(1944年。名城大学附属高校開学75周年記念誌より)

スペシャルホームカミングデイ参加者のうち、名古屋高等理工科学校の卒業生は、名古屋市天白区の伊藤秀男さんただ1人でした。名古屋高等理工科学校(高等科)は1928年3月から1948年3月までに627人の卒業生を送り出しました。スペシャルホームカミングデイの案内状は、このうち現住所が確認できた31人に送られました。1935年度卒1人から1947年度卒6人までの電気、機械、土木科で学んだ人たちです。

伊藤さんは終戦前年の1944年4月に、愛知中学校(名古屋市千種区楠元町)を卒業して名古屋高等理工科学校高等科(3年制)の機械科に入学。戦時下のため、学徒動員による勤労奉仕に明け暮れ、1947年3月に卒業しましたが、「勉強より勤労奉仕ばかりの学生時代だった」と振り返ります。名古屋市熱田区にあった名古屋陸軍造兵廠で、南方に送る石油缶の製造に追われました。昭和天皇が自ら国民に終戦を告げる1945年8月15日の「玉音放送」は名古屋陸軍造兵廠の広場で聞きました。

100人を超える高理工生のほか、八高(名古屋大学教養部の前身)、県一高女(愛知県立第一高等女学校。戦後は愛知県立明和高校)の生徒たちが集められました。 炎天下で聞いた昭和天皇の肉声。放送が終わっても、伊藤さんたちはその内容がよく分かりませんでした。「戦争は終わった。しかし、これから米軍がやってくる。お前らの命も分らんぞ」と声を荒げる将校もいました。「アメリカ人は鬼のようにひどいやつらだ。だから鬼畜米英なんだ」と教え込まれていただけに、将校の言葉を真に受けるしかありませんでした。

中等科生の悲劇

  • 中等科生の悲劇
  • スペシャルホームカミングデイでの記念撮影に臨んだ新谷さん

スペシャルホームカミングデイに参加した卒業生たちの中には、伊藤さん以外にも勤労奉仕を体験していた卒業生がいました。伊藤さんと同じ1949年4月に名古屋高等理工学校中等科の電気科に入学した新谷啓治さんです。新谷さんは名古屋市中村区の亀島国民学校から5年制の中等科に入学。戦後の学制改革で在学していた中等科が新制の名古屋文理高校(名城大学附属高校の前身)となったことに伴い、同高校の第2回卒業生となりました。さらに名城大学理工学部電気工学科に一期生として入学。スペシャルホームカミングデイには同学部卒業生として参加しました。

新谷さんによると、伊藤さんたち高等科生たちより3歳年下の中等科生たちは1学年が約160人。1~3組が電気、4組が機械科でした。 新谷さんもまた、学校生活は勤労奉仕に明け暮れました。新谷さんは軍隊用の靴を縫うミシンを造るブラザーミシン(名古屋市瑞穂区、現在はブラザー工業)に動員されましたが、生徒たちは須ケ口の豊和重工業(現在の豊和工業)、大同製鋼大江工場などに駆り出されました。

『愛知県教育史第4巻』に収められている学徒勤労出動工場調査(1944年6月20日)によると、豊和重工業の1004人の動員生徒のうち604人が「名高理工」(名古屋高等理工科学校)の生徒たちでした。

勤労学生たちの労働は過酷なものでした。勤労学徒たちの実態をまとめた『哀惜 1000人の青春~勤労学徒・死者の記録』(佐藤明夫著、2004年風媒社)によると、勤労学徒の死者は全国でも愛知県が最多でした。全国で推定1万4000人(沖縄学徒を含む)、愛知県内では1096人の勤労学徒の命が、戦争災害によって青春のつぼみのまま散ったのです。同書は名古屋高等理工科学校で学ぶ中等科5年生の痛ましい死も、当時の新聞記事によって紹介しています。

「名古屋高等理工科学校5年生渡辺親三君(18)は、学徒挺身隊の一員として、去る2月、豊和工業へ通勤、(略)、去月13日午前2時ごろ、突然、盲腸炎に冒されて職場に倒れた。(略)さる30日、不幸臨終が近づくや、全身の力を込めて『天皇陛下万歳』を何回となく奉誦し、敬礼をし続けつつ、遂に不帰の客となった」。現在の中日新聞である中部日本新聞の1944年9月6日記事には『死の床に叫ぶ必勝増産、ああこれぞ勤労学徒魂』の見出しが付けられました。

「名城大学75年史」によると中等科の卒業生は昼間部1414人に夜間部600人を加えると2000人を超します。新谷さんは、自分が1年生だった時、5年生だったこの先輩の死については全く知りませんでした。「私らの知らないところで、いろんな悲劇が起きていたんですね」。新谷さんは声を落しました。

『愛知県教育史第4巻』に収められている「昭和18年(1943年)学校表」によると、この当時の愛知県内の大学・高等専門学校は、名古屋帝国大学、第八高等学校、名古屋高等工業学校、名古屋薬学専門学校、金城女子専門学校、椙山女子専門学校など11校。名古屋高等理工科学校は63校ある各種学校の最初に紹介されています。教員は90人。学校所在地は第一校舎が名古屋市中村区新富町、第二校舎が名古屋市中区不二見町となっています。

「これからは自由だ」

高等科と中等科に分かれていた名古屋高等理工科学校でしたが、田中壽一校長をはじめ教員は一緒でした。高等科の伊藤さん、中等科の新谷さんには忘れることができない先生がいます。数学担当の佐藤銃一先生です。

戦争が終わり、名古屋高等理工科学校では、工場動員から引き揚げてきた教員や生徒に、疎開先から戻り始めた生徒たちも加わって焼け跡の整理が始まりました。一部焼け残った新富町の校舎を中心に、授業再開への準備が動き出したのです。

再開された数学の授業で佐藤先生がしみじみと語った言葉に伊藤さんら高等科の生徒たちは驚きました。「もう我々は自由な身だ。今まではあれをやれ、これをやれだったが、もう何をやっても自由なんだと話されたんです」。統制された生活に慣れていた伊藤さんには最初、「自由」という意味が分かりませんでした。「いい加減なことを言うなあ」と思ったそうです。しかし、「頭の髪を伸ばすも伸ばさないも、そういうことはもうお前らの自由なんだ」と語りかける佐藤先生の言葉が、心の中にしみ込んでいくのが、はっきりわかりました。

伊藤さんの卒業アルバムには「祝卒業」の文字とともに、恩師たちの名前が書き込まれています。田中校長の名前もあります。アルバムをめくると、「明るい世の中の建設は若人の双肩にのみめぐる」という書き込みがありました。「自由」を宣言した佐藤先生が伊藤さんに贈ってくれた言葉でした。名古屋理工科学校の木造校舎前での伊藤さんら卒業生55人と教員10人の記念写真。田中校長ら国民服姿も目立つ教員たちの中に、ネクタイにスーツ姿で、40歳代の紳士を思われる佐藤先生が最前列にいました。

「これからは自由だ」

1948年3月卒の伊藤さんたち機械科の卒業記念写真。前列右から3人目が佐藤先生。同中央が田中校長。最上段右から4人目(角帽に眼鏡)が伊藤さん

「これからは自由だ」

伊藤さんの卒業アルバムに残る佐藤先生の書き込み

(広報専門員 中村康生)

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