特設サイト第1部 第3回 名古屋専門学校の誕生
高等教育機関としての認知
3月19日に開催されたスペシャルホームカミンングデイ参加者195人の中には、名城大学が名古屋専門学校だった時代に学んだ卒業生24人もいました。名古屋専門学校は明治36年(1903年)の専門学校令に基づく旧制専門学校として1947年9月22日付で当時の森戸辰男文部大臣によって認可されました。認可は、名城大学が名古屋高等理工科講習所、名古屋高等理工科学校という21年間の各種学校時代を経て、悲願であった高等教育機関への仲間入りを果たした証(あかし)でもありました。名城大学の開学記念日が“晴れの日”となった「9月22日」に定められたのもこのためです。
名古屋専門学校の第3回卒業生で、1950年応用物理学科電気分科卒の藤田實さん(名古屋市千種区)は、愛知県体育館でのスペシャルホームカミングデイ受け付けで、名古屋専門学校で学んだ意義を語りました。
「名城大学が新興の新制大学と違うのは、名古屋専門学校という専門学校令に基づく旧制専門学校の時代を経ていることです。名古屋大学が旧制八高、名古屋工業大学が旧制名古屋工業専門学校の時代を経ているのと同じように、名城大学も旧制の時代を経ているわけで、私たちにはその誇りがあります」。
始まった拡大路線
1947年9月、応用物理学科(電気分科、機械分科)、数学科の学科構成で開校した名古屋専門学校は、翌年、早くも拡大化を図ります。第一部(昼間部)、第二部(夜間部)が設けられ、それぞれ応用物理学科、数学科のほかに法政科、商科が増設されました。
学科増設(変更)の理由書(1948年1月25日)の中で、経営母体である財団法人名古屋高等理工科学園理事長である名古屋専門学校の田中壽一校長の主張は明快です。「現在の経済的及び地理的事情からして、中京学徒の東京遊学は至難のことであり、之が為、本校の開校にあたっては文科系学科の設置を希望する一般世論は相当強くあった」と需要の高まりを強調しています。
確かに首都東京は戦争で焼け野原となり、人々は食べていくことが容易ではない時代でした。「ぜひ、地元名古屋で学べる文系学科のある専門学校をつくってほしい」という声も高まっていました。開校に続く学科増設は、そうした時代の要請を敏感に読んだ田中校長の学校経営拡大路線のスタートでもありました。
『文部省年報』によると、名古屋専門学校の志願者数は、開校初年度の1947年度は421人だったのが2年目の1948年度は3924人と9.3倍も膨れ上がりました。ちなみに一部、二部の法政科、商科とも志願者に対する入学者の倍率は軒並み10倍に達しました。1948年度の志願者の中には58人の女子も含まれています。さすがにこの時代は、応用物理、数学科の理系を志願する“リケ女”はまだいませんが、58人中4人が、名城大学の歴史に残る女子大生の草分けとして入学しています。
発足2年目の名古屋専門学校の入試倍率
(志願者/入学者、『昭和23年度文部省年報』をもとに算出)
学科 | 志願者数 ( )内は女子 |
入学者数 ( )内は女子 |
倍率 志願者/入学者 |
|
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第一部 | 応用物理学科 | 368 | 68 | 5.4 |
数学科 | 35 | 22 | 1.6 | |
法政科 | 610(11 ) | 61(1) | 10.0 | |
商科 | 731(14 ) | 72(1) | 10.2 | |
計 | 1744(25) | 223(2) | 7.8 | |
第二部 | 応用物理学科 | 630 | 78 | 8.1 |
数学科 | 53 | 36 | 1.5 | |
法政科 | 617(16) | 62(1) | 10.0 | |
商科 | 880(17) | 82(1) | 10.1 | |
計 | 2180(33) | 258(2) | 8.5 | |
総計 | 3924(58) | 481(4) | 8.2 |
焼け野原の東京では学べない
スペシャルホームカミングデイに参加した名古屋専門学校法政科1期生の長尾久衛(ひさえ)名城大学名誉教授も、田中校長が指摘した「東京遊学が至難なこと」を身を持って体験した一人でした。長尾名誉教授は、名古屋専門学校を卒業後、新制大学として誕生したばかり名城大学法学部でも学びました。法学部1期生として卒業し、立命館大学大学院に進学。修了後は母校である名城大学教授となり法学部長も務めました。
長尾名誉教授は岐阜県出身。郡上農林学校(現在の岐阜県立郡上高校)を卒業し上京。進路上での迷いを抱えながら現在の東京学芸大学の前身校の一つである東京第一師範学校に入学しましたが、食糧難と勤労奉仕で授業どころではありませんでした。
練馬区大泉学園町にある師範学校寮に入ったものの、食事と言えばお粥や芋ばかり。心配した実家から呼び戻されて帰郷。郡上八幡で戦時農業要員として食糧増産に汗を流しました。1945年8月初めに応召されましたが間もなく終戦に。実質的な軍隊生活は2週間ほどでピリオドを打ちました。
東京は焼け野原と食糧難。戻るに戻れないまま、実家での待機生活が続きました。そして終戦から2年後の1947年、占領軍政下の日本政府は、「教育基本法」と「学校教育法」を定め、6・3・3・4の新しい学校制度への切り替えが始まりました。名城大学のルーツ・名古屋高等理工科講習所の開設と同じ1926年生まれの長尾名誉教授が21歳の時でした。
「新制高校を出ないと大学に進めないことになった」。長尾名誉教授はあせりました。そんな中で知ったのが名古屋専門学校の開校と、1948年4月の法政科開設でした。長尾名誉教授は法政科の一期生として第二部に入学し、3年生から第一部に移りました。 「私のような駆け込みで入学する学生が全国から集まっていました。機械、電気を学ぶ応用物理学科も商科もどこも学生が殺到していましたよ」。長尾名誉教授は学校に近い須ケ口(愛知県清須市)に下宿、月に一度は実家に帰り、リュックに米を詰めて帰る学生生活がしばらく続きました。 学生たちの中には、焼け野原だった東京が復興する日を待ち望み、東京の大学の受験に備える学生たちもいました。長尾名誉教授の周辺でも中央大学、明治大学に編入学していった学生がいました。
早稲田専門部からの撤退
やはり名古屋専門学校法政科の一期生である名古屋市千種区の岡本吉和さんは、スペシャルホームカミングデイに参加し、愛知県体育館での若い後輩たちの卒業式を2階席から見守りました。自分が名古屋専門学校を卒業した1951年(昭和26年)以来62年ぶりに目にする母校の卒業式風景でした。
「枇杷島の粗末な校舎で学び、卒業式もこんなに盛大ではありませんでした。当時は、施設の充実より規模拡大が先行し、学校運営に対する不満もくすぶっていた。でも、きょうは学長が告示の中で、『本日集まってくださった大先輩にあたる卒業生の皆さんに拍手を』と言ってくれ、私たちに拍手が送られて来た時は嬉しかった。自分たちの存在をしっかりと認めてもらえたような気がしました」
愛知県体育館から懇親会場の名古屋マリオットアソシアホテルのある名古屋駅に分乗して向かうバスで、岡本さんは感慨深げに語り続けてくれました。
岡本さんも終戦直後の東京での学生生活に見切りをつけ、名古屋にUターンした一人でした。1946年に旧制惟信中学校(現在の愛知県立惟信高校)を卒業して、早稲田大学専門部電気科に入学。親類宅を頼っての上京でしたが、食糧事情は最悪の時でした。「親類宅も子供が5人いて、食べ物には本当に苦労しました。情けない話ですが栄養失調になったんです」。岡本さんは結局1947年初めには名古屋に引き上げました。「早稲田には月謝だけ納めての撤退ということになりました。1年で退学です。復学はとてもできないと思いました」。
名古屋に戻った岡本さんは半年後、名古屋鉄道に就職することができました。しかし、「勉強を続けたい。このままではいかん」という思いは募る一方でした。そんな時、名古屋専門学校に夜間でも学べる法政科が開設されたのです。
「一緒に入学した皆さんもみんな仕事を持っていましたが、授業に向き合う姿勢は真剣でした。今でも忘れることができないのが成田という先生です。名古屋の裁判所の判事さんで、夜、教壇に立たれていました。個人的にもいろいろ教えてもらい、裁判所にも何回か傍聴に行き、勉強させてもらいました」。
岡本さんは名鉄時代には鉄道部門だけでなく自動車販売部門など関連会社に出向、名鉄観光で定年を迎えました。もともと電気やコンピュータ関係が好きだったこともあり、名鉄観光時代は、導入が求められていたオンラインシステム作りの開設準備室長も務めました。しかし、名古屋専門学校で法律を学んだことは大きな財産となり、会社人生のいろんな節目で自分を支えてくれたそうです。
3学年に転入した高理工卒業生
連載第2回に登場していただいた1947年に名古屋高等理工科学校(高理工)の機械科を卒業した野末(旧姓堀尾)勇さん(静岡県浜松市)も、長尾名誉教授、岡本さんらとともに1948年4月、名古屋専門学校に入学しました。3学年への転入学という形で、翌1949年3月に卒業しました。名城大学理工学部数学科の卒業生名簿では「名古屋専門学校応用物理学科数学分科第1回卒業生」の26人中の1人として名前が残されています。たった1年間の在籍で、「3学年卒」となった経緯を、野末さんは、遠い記憶をたどりながら語ってくれました。
野末さんは高理工を卒業した1947年、浜松市の実家に帰り、親類がいた掛川市で、発足したばかりの新制中学校の教員になりました。機械科出身で教員資格がない野末さんが教壇に立てたのは、教員不足で、新制中学校が資格のある教員をそろえるのに苦労していたこともありました。
1948年3月には、野末さんは、当時、引佐郡三ヶ日町(現在は浜松市北区)にあった三ヶ日中学校に移りましたが、今後、ずっと正規の教員としての道を歩むためにも教員資格を得ようと思いました。このため、発足したばかりの名古屋専門学校数学科3学年に転入することを決意。三ヶ日中学校での授業が終わるのが午後3時半。旧国鉄の二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)の新所原駅で東海道線に乗り換えて名古屋に通いました。
6月ごろまでは、千種区覚王山にあった名古屋大学の数学教室で講習を受けましたが、講習会には野末さん以外にも、高理工機械科を卒業した同級生が7人いました。野末さんは、「試験で全員の平均点が80点以上なら、名古屋専門学校に数学教員の無試験検定資格が与えられるということで、みんな懸命に勉強し、合格点ラインをクリアしました」と、錯綜する記憶を思い返しながら語りました。野末さんは途中から、名古屋に下宿し、名古屋文理高校(名城大学附属高校の前身)の教壇にも立ちながら数学科の授業を受けました。卒業後は静岡県内の高校で、数学教員としての人生歩みます。野末さんの名刺の裏には、「二俣高校(昭26~38)、引佐高校(昭38~55)、浜松工業高校(昭55~60)と勤務した静岡県立高校名が印刷されていました。
名古屋専門学校は英語表記を「NAGOYA COLLEGE」としました。野末さんはアルバムとともに、その表記をデザイン化した「NC」と入学年の「1948」をあしらった校章バッジを大切に保管していました。
実験設備不足で他校施設借用も
1951年に名古屋専門学校第二部応用物理学科電気分化を卒業した村松栄さん(愛知県長久手市)は2013年1月に発行された名城大学電気会の創立50周年記念誌に、学生時代の思い出の一文を寄せています。(要旨)
当時は実験設備が少なく、化学実験は第八高等学校(現在の名古屋大学)、物理実験は名古屋工業専門学校(現在の名古屋工業大学)にお願いして、日曜日にはそれらの学校に出かけて先生方にご指導を受けたことを今でも思い出します。しかしながら、所詮、借り物の設備のため、十分な知識を得ることは難しかったように記憶しています。中部電力へ就職していたのですが、卒業後は電気主任技術者(2種)の資格を持っていたことで、大変重要な仕事を任され、大きなやりがいを感じたものでした。
名城大学電気会50周年記念誌には、「想いでの記録」として、村松さんが保存していたアルバム写真の中から、実験施設を借りに出向いた名古屋工業専門学校前で撮影された、角帽をかぶった名古屋専門学校生たちの写真が収められています。学ぶ施設は借り物でも学生たちの顔は輝いているように見えます。
(広報専門員 中村康生)