特設サイト第1部 第5回 女子大生の登場

  • 第5回 女子大生の登場
    今でも毎日ハンドルを握り続ける岸田さん(津市の自宅で)

津から通える専門学校

1947年(昭和22)9月に旧制専門学校として開校した名古屋専門学校(名専)。開校時の募集は応用物理学科のみでしたが、2年目の1948年度から法政科、商科の文系学科が開設されたことで第一部、第二部で計58人の女子志願者がありました。入学したのは4人。唯一卒業生名簿に名前があった第一部商科を1951年(昭和26)3月に卒業した岸田陽子さん(82)を、津市末広町の自宅に訪ねました。

岸田さんは三重県立津高等女学校(現在の津高校)を卒業。三重県立医学専門学校(三重医専、現在の三重大学医学部)を受験して失敗。土建業を営む父親の「勉強するなら経済や」という勧めもあって自宅から通える名専の商科進学の道を選びました。

受験に訪れた名古屋市中村区の枇杷島校舎(中村校舎)は粗末な木造校舎でした。「津高女よりもひどい。こんな所の通うのはいやだな」。一瞬ひるんだ岸田さんでしたが、経済を学べる通学可能な学校となると他には選択肢はありませんでした。名古屋には金城、椙山の専門学校がありましたが、経済系の学科はありません。下には弟も妹もいます。「勉強させてもらえるだけでもありがたく思わなければ」。岸田さんは名専で学ぶことを決めました。

マドンナ輝く

  • マドンナ輝く
  • 「名城大学新聞」に掲載された映画館広告(1951年7月6日)

津市中心部にある自宅から近鉄電車と名鉄電車を乗り継ぎ、片道約1時間40分をかけての通学が始まりました。商科1クラスは55人くらい。教員は、名古屋経済専門学校(現在の名古屋大学経済学部)から着任した年輩の専任教員が5人ほど。すでに予備校の看板を掲げていた河合塾からも英語の講師が来ていました。また、名古屋・栄にある証券会社社員が来て、株取引を教えてくれましたし、英文タイプの授業もありました。

いきなり始まった専門科目の授業の中で、岸田さんは商業簿記が苦手でした。しかし、紅一点の岸田さんに対し、男子学生たちが、次々にサポーター役を引き受けてくれました。「試験の時は、こっそりサインを送ってくれる学生もいました。カンニングですよね。でも、教えてもらった私の方が点数は良かったですよ」と岸田さんは苦笑します。銀行簿記や工業簿記になると、逆に岸田さんが男子学生たちにアドバイスするケースもあったそうです。

「まさにマドンナでしたよ。男たちを引き連れて」。男子学生たちに取り囲まれての学生生活について語る岸田さんの顔は、今でも輝いているようにも見えました。授業の合間を縫って、映画館に繰り出せば95円の入場料を男子学生たちが出し合ってくれたそうです。みんなで弁当を用意して、中日球場の中日×巨人戦に出かけ、“フォークの神様”と呼ばれたドラゴンズのエース、杉下茂への応援に声を枯らしたこともありました。

アイスキャンデーを売る

岸田さんは、連載第3回「名古屋専門学校の誕生」で紹介した法政科1期生の長尾久衛名誉教授、岡本吉和さんらと同じ年の入学です。学生たちはいくらアルバイトをしても、食べていくことだけで精いっぱいの時代でした。岸田さん自身は同級生の男子学生たちに比べれば、家が土建業をしていたこともあり、経済的には恵まれた環境にありました。満足な食事もできず、実家に帰省するためには時計や布団を質入れして汽車賃を工面しなければならない同級生たちを津市の自宅に招き、御馳走し、海水浴を楽しんでもらったこともありました。

岸田さん自身も、東山動物園でアイスキャンデー売りのアルバイトで汗を流した経験があります。ナイロンのストッキングなどなく、靴下も何度も繕ってはいていた時代。いくら、下宿住まいの男子学生たちに比べて余裕があるとは言え、おしゃれっぽい洋服を買うためには、自分でアルバイトしなければなりませんでした。

岸田さんの記憶では、コーヒーが50円、映画館や昼のダンスホール入場料が100円。お金はなくても学生たちが輝いて見えた時代でした。「ただ、名専もできたばかりでしたから、就職先もまだ十分に開発されていなかったのでしょう。名の通った大手企業に就職できた学生は少なかったと思いますよ」と岸田さんは振り返ります。

駒方校舎へ

  • 駒方校舎へ
  • 岸田さんが2年生後期から通った駒方校舎(1957年法学部卒、桑原邦彰さんの卒業アルバムから)

岸田さんらの授業は、2年生後期の1949年10月からは名古屋市昭和区の駒方校舎で行われました。枇杷島で授業が行われた校舎は、かつて名古屋高等理工科学校で使われていた古い校舎でしたが、駒方校舎もまた、旧名古屋陸軍造兵廠の寮として使われ、戦災を免れた老朽施設でした。

駒方校舎があった土地、建物の面影は、今では一切残っていません。敷地だった一部には現在、名古屋市立駒方中学校(昭和区駒方町3-23)があり、同校ホームページに記載されたアクセス案内には「 地下鉄鶴舞線・川名駅下車、3番出口 徒歩7分」と紹介されています。岸田さんの通学手段も、名古屋駅からはバスになりました。

岸田さんたちが2年生になった1949年4月、名城大学は商学部のみで枇杷島校舎で開学。1950年からは法商、理工、農学部、さらに短期大学部が増設されたことで、駒方校舎が名城大学、名古屋専門学校の拠点キャンパスに変わりつつありました。ただ枇杷島、駒方校舎とも名城大学と名専の学生たちの共有施設であり、サークル活動や自治会活動などでは、双方が一体となった活動が展開されました。

「名城大学新聞」に懐かしい顔が

  • 「名城大学新聞」に懐かしい顔が
  • 集責任者の岩田さんの「発刊宣言」と田中学長の祝辞が掲載された「名城大学新聞」の創刊号

1950年7月1日付で産声をあげた『名城大学新聞』の発行を担った「名城大学新聞部」も、中心となったのは名専の学生たちでした。創刊号に「発刊に寄す」と、署名入りで決意を述べた発行責任者の岩田義正さんは、長尾名誉教授や岸田さんらと同期の名専3年生でした。

――平和民主日本の建設にとって次代を担うわれわれ学生の新聞が果たす役割は大きく、特に未来の発展を誓う本学園においてはますます学園新聞の占める地位は重要なものであります。そしてそれは、われわれ学生に自由と同時に責任を帯ばしめ、広く学生の興論を反映し、互いに異なる主義主張においても等しく紹介報道する公正と自由な態度が要請されなければなりません――

「あら、岩田君だわ」。岩田さんの顔写真とともに、格調高い岩田さんの“発刊宣言”が掲載された「名城大学新聞」創刊号のコピーを見た岸田さんが、懐かしそうに声をあげました。岸田さんによると、発足した新聞部の活動の中心となったのは岩田さんら名専法政科の学生たちでした。「学部はできたてのほやほやで、どうしても名専の学生たちが主導権を握らざるを得ませんでした。私たち商科の学生たちは遊んでばかりでしたが、法政科の学生はしっかりしていました。岩田さんはまじめで、いい方でした。長尾さんもよく知っていますよ」。岸田さんは遠い記憶を確かめるように、63年前の「名城大学新聞」に何度も目を近づけました。

岩田さんは、長尾名誉教授とともに、名専法政科を卒業。法学部の前身である第一法商学部法学科の3年生に転入、1953年3月に卒業しています。愛知県江南市に住む岩田さんは2013年3月19日のスペシャルホームカミングデイに参加。後日、母校あてに送ってきた「参加者アンケート」の中に、「母校の益々の発展、充実を期待します」とのメッセージを書き込んでくれていました。

田中学長の「総合大学」宣言

岩田さんの“発刊宣言”が掲載された「名城大学新聞」創刊号のトップ記事は「大器晩成を解く」という田中壽一学長の学生新聞発刊への祝辞です。この中で田中学長は、「名城大学は最近数年間に、専門学校より飛躍をなして、理工、法商、農の三学部を有し、東海北陸に冠たる総合大学となり、その発展は文部省を始め全日本学界の驚異の的ともなり、また疑惑の中心となっている」と述べています。「疑惑の中心」とは、穏やかな表現ではありませんが、後に続く文脈から判断して、名城大学の飛躍的発展に“半信半疑”な世間の見方を納得させるためにも、全学一丸となって頑張らなければならない、と訴えようとしたのでしょう。

「大器晩成すというのは、晩成すれば大器であるというのではなく、いかに勉強しても大器となるには非常の時日を要し急速にはできないということである」と、田中学長は学生たちに勉学に励むよう訴えていました。

卓球で優勝した「村上嬢」

  • 卓球で優勝した「村上嬢」
  • 創刊号に掲載された「村上嬢」優勝の記事

同じ紙面に「村上嬢卓球で優勝す」というスポーツ記事が掲載されています。東海学生卓球連盟主催の1950年度東海学生新人卓球大会が愛知学芸大学で6月25日に行われ、「女子の部で本学の村上嬢は金城を始めとし、一師、二師を相手どり一位の栄冠を勝ち得た」という記事です。愛知県教育委員会編集による『愛知県教育史』(第5巻)によると、一師(名古屋市にあった愛知第一師範学校)、二師(岡崎市にあった愛知第二師範学校)は1950年5月、新制の愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)に包括され、1951年3月に廃止されました。金城は金城学院大学のことです。

1950年6月段階で「新人」の「村上嬢」が在籍したと思われるのは名専か、名城大学の法商、理工、農学部、短期大学部の可能性がありますが、名城大学校友会の卒業者名簿ではそれらしい名前は見つかりませんでした。岸田さんも、岸田さん以外に女子学生がいたという記憶はありませんでした。ただ、田中学長も「名城大学新聞」で誇っているように、名城大学はすでに、「東海北陸に冠たる総合大学」となっています。ましてや校舎も分散していた時代ですから、岸田さんが、自分以外にも女子学生がいたことに気付かないことは十分あり得ることでしょう。

名城卒の国会議員秘書でも第1号

岸田さんは、親が「行儀見習い」として勧めたこともあって名専を卒業後は、国会議員秘書として4年間の東京生活を体験しました。三重一区選出の改進党(後に日本民主党)議員ですが、選挙では苦戦が続きました。吉田茂内閣の「バカヤロウ解散」(1953年)では何とか当選しましたが、岸田さんは4年間の秘書時代に3回の接戦選挙を体験し、2勝1敗という結果でした。

東京から夜行電車で津に戻り選挙の手伝いに駆り出されました。ウグイス嬢もしましたし、演説会場に議員が到着するまでの“前座”役も務めました。地元から東京へはやはり夜行列車に乗り込み、東京駅でひと風呂浴びてから国会に向かいました。

秘書としての給料は5500円~6000円。岸田さんの後に、4年制大学を出て入ってきた新人秘書で9800円でした。池袋にある父の姉宅に下宿していましたが、まだまだ、景気は上向いておらず、上京するたびに、津から米を持ち込んでいました。

名城大学卒業生で国会議員秘書となったのも岸田さんが第1号と思われます。岸田さんは秘書時代、早稲田大学で中学校、高校の教員免許(社会と商業)を取得。秘書生活を終え後は、三重県下の県立高校で教員生活を送りました。1991年に定年退職するまで34年間勤めた教員生活。津市の自宅から四日市の高校に通う際などは、安定性に惚れてベンツを疾走させました。裏千家の教授でもあり、今でも月2回、茶道の道を極めようと京都の家元に通い続ける岸田さん。記憶の中には、かつて“マドンナ”と言われ、キャンパスを闊歩した若かりし日々の記憶がなお鮮明に焼き付いているようでした。岸田さんは「育て達人」でも紹介しています。

(広報専門員 中村康生)

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