特設サイト第1部 第8回 駒方校舎と中華交通学院


  • 名古屋市昭和区駒方町にあった駒方校舎(『名城大学75年史』より)

駒方の先客

名城大学が学部増設のために必要な拠点キャンパスとして白羽の矢を立てたのは、名古屋市昭和区駒方町にあり、名古屋陸軍造兵廠が少年工員たちのために「八事生徒舎」として使っていた土地、建物でした。八事生徒舎用地として陸軍に提供された土地は73人の地主が所有する駒方町1~2丁目の田畑など1万3570坪(4万4781㎡)に及びました。終戦に伴い八事生徒舎には1945年10月26日、進駐軍である米国陸軍兵約1000人が駐屯。その後、土地は、管理していた名古屋特別調達局により地主に返還されることになりますが、進駐軍撤退後の旧八事生徒舎には、名城大学にとって先客がいました。中華交通学院です。同学院は1947年4月1日、中華民国政府の要人や多数の来賓を迎え、開校式を行い、「日本において中国人が最初に設立した専門学校」と宣言していました。

安藤百福と呉主恵

  • 23年ぶりの母校
  • 理事長の安藤百福氏(日清食品ホールディングス提供)

中華交通学院のオーナーである理事長は、後に世界初の即席めん(チキンラーメン)、世界初のカップめん(カップヌードル)を生み出した日清食品創業者で、世界の食文化に大きな影響を与えることになる安藤百福氏(1910~2007)でした。当時の姓は呉で、後に日本に帰化しています。一方、教学面での責任者として学院長に就任したのは、早稲田大学商学部教授を辞して名古屋に乗り込んできた台湾出身の社会学者、呉主恵氏(1907~1994)です。

百福氏は自伝『魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞社)などで、主恵氏も自著『教育と研究~教壇生活40年回顧録』で、それぞれの立場から、中華交通学院の開校の狙いや、その後の経緯を書いています。

中華交通学院は、新中国建設で必要とされる交通関係の技術者養成が狙いでした。建設費として百福氏が1000万円を拠出。授業料なし、全寮制で食事や制服も支給されるとあって、1期生の入学者は60人(日本人50人、中国人10人)でしたが、志願者は全国から1万5000人に及びました。しかし、学院運営費は全て大阪府泉大津市で、若者とたちを集めて製塩業を起こすなどしていた百福氏の事業収益に頼っていました。このため、百福氏の事業の行き詰まりにより、1949年3月に1期生を送り出したものの、中華交通学院の経営も窮地に陥ります。

名城大学との合流案

  • 戦意高揚と少年軍属
  • 学院長の呉主恵氏

名城大学が「駒方校舎」として使用するため、旧八事生徒舎取得へ動き出したのはこのころでした。主恵氏の著書によれば、名古屋大学の仲介により、名城大学の田中壽一理事長と中華交通学院長である主恵氏との間で両校の合流に関する仮契約が結ばれます。15項目に及ぶ「契約書」には、「大学の名称は可及的速やかに国際大学に改称することに努力す」「中華交通学院理事長・呉百福氏を名誉顧問に推薦す。中華交通学院長・呉主恵氏は名誉学長とす」など、中華交通学院の“名誉ある撤退”にこだわる主恵氏の意図がにじんでいます。

さらに、主恵氏が回顧録に「交通学科を工科大学に昇格させることの意味もあって、名城大学との合流を決意、1949年4月28日をもって仮契約を取り交わした」と記しているように、「甲(名城大学)の工学部は直ちに乙(中華交通学院)へ移轄し、陣容を整え明年度(1950年度)に於いて、乙の交通学科も大学に昇格せしむ。昇格に至るまで乙の名称を存続す」という項目もあります。

中華交通学院側から提案された「契約書」に、田中理事長がどのような対応をとったか、後に理工学部が交通機械学科(現在の交通機械工学科)を設けることに影響を与えているのかなどについては不明です。『名城大学75年史』には、「田中理事長は、同学院と提携することによって、建物の大部分を名城大学の校舎として使用することに成功した。そしてその後、建物の全部を名城大学が使用することになった」と記され、年表にも1950年5月に駒方校舎の使用が開始されたことが記されました。

1951年で廃校となった中華交通学院に対し、主恵氏は回顧録に「教育者として自信を失った」と書き、残された生涯を学者として生きいく決意を述べています。

「世の中を明るくするために」

一方、百福氏の創設した日清食品「30年史」には、百福氏の中華交通学院の設立の動機と名城大学との関わりについて次のように紹介しています。

安藤百福が疎開先を整理して、大阪府・泉大津市に移ったのは終戦の翌年、昭和21年の冬のことだった。外はまだ肌寒く、急ごしらえの家も決して快適とは言いがたかったが、安藤の事業への意欲は熱く燃え盛っていた。

とはいえ、『金のために事業をやるという気持ちは薄かった』と回想しているように、安藤の仕事に対する姿勢は当時、「世の中を明るくするにはどうすればよいか」という考え方が基本にあったように思われる。工場や事務所は戦災にあったものの、過去の事業による蓄えがあったし、大阪の中心部には何ヶ所かの土地を所有しており、すでに十分すぎるほどの大金持ちだったのだから……。例えば名古屋に中華交通技術専門学院(中華交通学院)を設立したのも、引き揚げ者や、疎開先からの帰省者や復員軍人に自動車、鉄道関係の技術を習得させ、自活の道を見出してもらうのが目的だった。この学院は、後に名城大学・工学部の一部として生かされている。

名城大学の駒方進出

中華交通学院が名古屋市昭和区駒方町に存続していたのは1947年~1951年。『名城大学75年史』年表での「駒方校舎の使用開始」は1950年5月となっていますが、当時の『名城大学新聞』には、法商学部が「1950年の春草々」に駒方に移ったとの記事もあります。また、連載第5回「女子大生の登場」で紹介した1948年4月に名古屋専門学校商科に入学した岸田陽子さんは、「2年生後期の1949年10月から、枇杷島(中村校舎)で行われていた授業が駒方校舎に移った」と語っています。名古屋専門学校と開学したばかりの名城大学が、それぞれ部分的に駒方校舎の使用を始めているようです。

7000人収容の「大分校」

  • 23年ぶりの母校
  • 駒方校舎整備について報じた「名城大学新聞」(1951年2月3日)

『名城大学新聞』第5号(1951年2月3日)に、「駒方校舎 整備にとりかかる」という記事が掲載されていました。駒方校舎が7000人の学生が収容できる「大分校」として紹介されています。

昨春草々、法商学部が駒方校舎に移って以来、中華交通学院と幾多の交渉が続けられ、今回、財務局との折衝も完全に成立し、正月早々、全校舎完全整備に取りかかり、目下工事中であるが、4月ごろまでに7000坪の大分校が、駒方学生寮を含め、完全に整備を完了する模様である。その暁には7000人の学生が収容できることになるが、2月末日までには寮生も250名収容が可能になるために、下宿生にとっては一大福祉が計られることになる。(昭和)26年度の他県から来る新入生にも非常に喜ばれることであろうと、駒方校舎事務局では語っている。

駒方校舎に運動場新設
駒方校舎本館前の運動場では体育部の活躍に不備な点があったが、目下駒方学生寮裏の敷地約3000坪に建設費数十万円の予算で設備中である。

駒方学生寮の旭丘高校生

  • 蒸気機関車での旅路
  • 駒方校舎の学生寮で3年間過ごした小栗さん

1950年4月から1953年3月までの3年間、名城大学の駒方校舎の学生寮で過ごした愛知県立旭丘高校生がいました。現在、昭和区川名町に自宅があり、中区金山で内科胃腸科の医院を開業する小栗剛さん(78)です。父親が名城大学駒方学生寮の寮監として就職、寮の一室に居を構えたためです。父親の実家は岐阜県御嵩町でしたが、戦時中、教員として朝鮮半島に渡っていました。終戦で命からがら日本に帰国し、小栗さんへの教育も考えて名古屋での就職先を探しました。焼け跡だらけの名古屋での家探しはとてつもなく大変でした。小栗さんの通学も可能な場所としてやっと見つけ出したのが、駒方学生寮でした。

小栗さんによると、当時の駒方校舎の航空写真で言えば①と②が「商学部の学生寮」で、③はまだ中華交通学院の職員家族の寮でした。小栗さんは「学生は商学部しかいなかった」と言いますが、1950年4月からは「法商学部」に呼称が変わっていますので、前年に商学部として入学した法商学部生たちと思われます。

両親と小栗さんの家族3人は①の2階端の部屋でした。「学生たちは夏は窓を開けっ放し。下帯姿の学生たちもいたが、それにしても鹿児島弁の学生が多かった」と小栗さんは振り返ります。別棟の中華交通学院の家族寮には3組の夫婦が住んでいて、小栗さんはこのうち1人の中国人婦人に頼んで、高校の授業に出てきた漢詩を中国語に訳してもらいました。「きれいな中国語で、私は今でも言えますよ」と、小栗さんは中国語で、「春眠暁を覚えず」の漢詩を懐かしそうに詠んでくれました。

小栗さんは1年生3学期からは、受験勉強に本腰を入れるため、配電盤室を勉強部屋として使用。友達が遊びに来ると、授業には使われていない⑥の空き教室に連れ出しでバドミントンを楽しんだといいます。

1953年3月。小栗さんは現役で名古屋大学医学部に合格しました。小栗さんや家族もまだ合格を知らなかったその日朝、新聞で知った寮生たちが「小栗んとこの坊が受かったぞ」と騒ぎ出し、教えてくれたのです。やがて、小栗さんの父親は田中理事長から呼び出されました。「息子の進学も決まったのだから、寮監としての仕事は続けてもいいが、寮は出て行ってほしい」。名古屋大学医学部入学とともに小栗さんの駒方生活もピリオドを打ちました。

(広報専門員 中村康生)

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