特設サイト第1部 第2回 セピア色のアルバム

  • 第2回 セピア色のアルバム
    名古屋高等理工科学校の窓ガラスが割れた木造校舎(伊藤さんのアルバムから)

運鈍根の精神で

  • 運鈍根の精神で
  • 伊藤さんが宝物のように保存していた名古屋高等理工科学校1947年卒の卒業アルバム

 

  • 運鈍根の精神で
  • アルバムに書き込まれた田中校長ら恩師たちの「祝卒業」の寄せ書き

名古屋高等理工科学校(高理工)を1947 年(昭和22年)3月に卒業した伊藤秀男さん(名古屋市天白区)は、当時の卒業アルバムを大切に保存しています。黄ばんだ布地に「高理工」の校章と卒業年「1947」が印刷された表紙。開くとどこか懐かしさが漂うセピア色の世界が広がります。台紙に貼り付けられた色あせた白黒写真。戦争の真っただ中で学生時代を過ごし、新しい時代に羽ばたこうとする卒業生たちの顔。輝きと意気込みが伝わってくるようです。最近の豪華な卒業アルバムのような、カラフルな写真、イラスト、ロゴマーク、活字文字は一切ありません。卒業後の写真も含め、伊藤さんの遠い記憶を刻んだ手作りのアルバムです。

アルバム最初のページには田中壽一校長が直筆で書きこんでいました。「祝卒業 昭和二十二年三月十日」 田中壽一」。その達筆を囲むように、恩師たちが寄せ書きしています。「社会生活は運鈍根(うんどんこん) 牧原義雄」。「これを書いてくれたのは“カチョッポ”というあだ名で呼ばれていた牧原先生です。私はカチョッポ先生が大好きでした」。伊藤さんの笑顔がいたずらっぽい少年のようでした。「牧原先生は、片一方のことをカチョッポと話すもんですから、生徒たちは面白がって牧原先生をカチョッポ、カチョッポって呼んだんですよ」。

牧原先生の寄せ書きにある「運鈍根」という言葉について伊藤さんは、「最近はあまり使われ使われませんが、当時は結構はやった言葉ですよ」と解説してくれました。

「成功するには運と根気、そして鈍いくらいの粘り強さが必要。要するに、偉ぶるな、あとは根気だという意味です。私はこの言葉が大好きでした。卒業後もこの精神に徹して生きてきました」。アルバムの中の遠い記憶を追うように、伊藤さんは目を細めながら語りました。

モノクロ写真の記憶を追って

  • モノクロ写真の記憶を追って
  • 写真機の入った箱を持つ平岩さんら写真部員)

伊藤さんの卒業アルバムには、連載第1回で紹介した機械科卒業生たちと恩師たちの記念写真のほかに、「高理工」の校章が入った幕を背景にした学生服姿の同期生たち一人ひとりの写真が貼られたページもありました。1ページの写真は5人ずつ3段で15人。5ページに計70人が収められています。伊藤さんが幹事役の同期会「22会」の名簿(1989年1月1日現在)には、10人の「死亡」を含む72人(機械科50人、電気科22人)の名前が載っており、卒業アルバムに収められた人数とほぼ一致します。アルバムの中の70人はいずれも直立不動の姿勢で、カメラより上に目線が注がれています。カメラマンの注文に従ったポーズなのでしょうが、これから羽ばたこうとする大空を仰いでいるようにも見えます。

「アルバム写真の撮影を取りまとめたのは平岩君ですよ」。伊藤さんが名前をあげたのは同期生の平岩達弥さん(名古屋市瑞穂区)でした。平岩さんは高理工では写真部のリーダーでした。伊藤さんの卒業アルバムの中には写真機の入った箱を持ち、写真部員たちに囲まれて記念写真に収まる平岩さんの若かりし日の姿がありました。平岩さん宅は伊藤さん宅から近いこともあり、伊藤さんはよく訪れていました。平岩さんにお会いして、卒業アルバム制作の経緯をお聞きしようと思い、伊藤さんに、「平岩さん宅を訪れる際は一緒に連れて行ってくれませんか」と頼んでみました。しかし残念ながら平岩さんとはお会いできませんでした。伊藤さんは後日、平岩さんから預かった手紙をわざわざ届けてくれました。体調が思わしくなく、直接会って話をすることは難しいという平岩さんが、アルバム制作時の記憶を手紙につづってくれたのです。

卒業66年後の手紙

平岩さんからいただいた手紙です。

早いもので、卒業してから60数年以上になります。思い起こせば色々な出来事がありました。さて、卒業写真ですが、一人ひとり撮るのは大変でした。その当時、まずフィルムが手に入らなかったことで苦労した思いがします。

栄町近くのヒダカカメラ店とエス商会カメラ店に、偶然友人がいたことが分かり、本当にラッキーでした。どちらかと迷いましたが、エス商会に卒業写真を頼み込みました。エス商会に東京写真専門学校を出た人で、この人なら信頼できると思い頼み込んだ思いがします。(撮影予定日に)学友の出席がそろわず、エス商会の人に迷惑をかけた思いがします。小生も数人、学友を撮ったような気がしますが。

当時、アルバム(表紙と台紙)をそろえるのには大変苦労しました。アルバムを学友全員に渡したかどうか、記憶がありません。アルバムを現在持っている人は少ないと思います。学校入学当時、(機械科は)50人前後だったと思いますが、現在、連絡がつくのは9人弱かも。驚きましたね。私たちは86、87歳です。どうか皆様方、お体を大切に。名城大学のよりよい発展に期待しています。

昭和弐捨弐年卒機械科
平岩達弥 平成弐捨五年四月二十五日

平山さんの手紙に出てくるヒダカカメラ店とエス商会をインターネットで検索したところ、両店とも名古屋市中区栄の松坂屋本店のすぐ近くにありました。大津通をはさんで松坂屋本店のほぼ真ん前にあるヒダカカメラ店に電話してみました。電話を受けてくれた山口さんという55歳の4代目店主に平岩さんの手紙の内容を伝え、1947年当時の様子を聞いていないか尋ねてみました。

山口さんによると、戦後の栄一帯にはカメラ店だけで10店くらいあったそうです。「私が小学生のころもまだにぎわっていて、プロカメラマンにあこがれる若者たちが出入りしていましたよ。写真家の浅井慎平さんも来ていました。エス商会さんは、うちからのれん分けした店ですが、20年くらい前に店をたたまれました」。

フィルムカメラの時代は過ぎ去り、デジカメを大型家電販売店で買うのが主流の時代。栄の街並みに平岩さんや、平岩さんより11歳年下で、瀬戸市生まれで大須育ちの浅井さんらカメラ好きな若者たちが繰り出した時代も遠い記憶の彼方に消えようとしています。

もう1冊のアルバム

  • もう1冊のアルバム
  • 卒業アルバムを手にする野末さん

 

  • もう1冊のアルバム
  • 野末さんのアルバムに書き込まれていた同期生たちの寄せ書き

1947年高理工卒業生たちのアルバム作りにかかわった人がもう1人いました。「学生たちのまとめ役をやっていた野末君ならもっと知っている可能性がありますよ」。伊藤さんの記憶を手掛かりに、伊藤さん、平岩さんらと同期の野末(旧姓堀尾)勇さんを静岡県浜松市北区の自宅に訪ねました。

新幹線浜松駅から遠鉄バスで1時間。聖隷三方原病院を過ぎた「気賀四つ角」バス停で下車し、歩いて10分ほどの自宅で野末さんは待っていてくれました。野末さんが取り出したアルバムは、伊藤さんのアルバムと同じ表紙でした。

「物資が足りない時代で、表紙用の厚紙や写真を貼り付ける台紙をそろえるのが大変でした。苦労して業者さんを探し出して発注したのを覚えています。焼き増した写真をみんなに配り、思い思いに張ってもらったんですよ。だからアルバムの中身はばらばらです」 野末さんが言うように、野末さんと伊藤さんのアルバムは、表紙は同じでした。ただ、ページをめくっていくと、伊藤さん、野末さんのそれぞれでしか貼っていない写真もありますし、レイアウトも違っていました。野末さんのアルバムの最初のページには田中校長らの寄せ書きはなく名古屋城の写真でした。

野末さんのアルバムには、「卒業」という赤ペンで書かれた文字を中心、同期生たちの寄せ書きがはさまれていました。「冬来りなば春遠からず。此に再び春はめぐり来て我等は皆巣立つ。こころよく働く仕事よあれ。それを仕遂げて死なむ」「悠々たるかな天地、寒々たるかな古今。五尺の小躯を以てその大計をはからんとす」「魂を削るような恋をしたい」(原文のまま)。卒業生たちは熱い胸のうちを書き込んでいます。平岩さんも「諸兄?常ニ最全ノ準備ヲ怠ル勿レ?」と筆を走らせていました。

野末さんは、田中校長の二男で、機械科の授業を受講しに来ていた田中穂積氏と付き合いがありました。同年齢だった気さくさもあり、野末さんは穂積氏の自宅でもある田中校長宅にもよく出入りし、何かと田中家の手伝いもするようになったそうです。 伊藤さんが野末さんを「機械科のまとめ役」と語っていたことを野末さんに尋ねてみました。野末さんによると、高理工では戦争末期、志願して兵隊となった学生たちもいました。戦後、戦場から戻ってきて、兵隊生活でのうっぷんを晴らすかように、学生たちに暴力を振るう学生もいたそうです。

「バットで下級生を殴ったりして暴れるんです。兵隊に行って、自らがやられたことへの反動だったんでしょう。田中校長らも大変心配し、そういう連中たちを止めるために、私も大変苦労しました。そういう面では学生たちのまとめ役でした」と野末さんは振り返りました。野末さんが、卒業アルバムに使う表紙や台紙探しに奔走したのも、“まとめ役”としての責任感にかられてのことだったに違いないと思いました。

セピア色の校舎

  • セピア色の校舎
  • 名古屋高等理工科学校の窓ガラスが割れた木造校舎(伊藤さんのアルバムから)

 

  • セピア色の校舎
  • 校舎窓から顔を出す高理工生たち(野末さんのアルバムから)

 

  • セピア色の校舎
  • 守備練習に取り組む高理工の野球部(伊藤さんのアルバムから)

名古屋高等理工科学校では、伊藤さん、平岩さん、野末さんらが入学する2年前の1942年3月、名古屋市中村区新富町の名鉄東枇杷島町駅近くに待望の自前校地・校舎が誕生していました。約1万4850平方メートルの校地。木造2階建ての校舎1棟(普通教室9教室、校長室、事務室、教員室、宿直室)と木造平屋建て校舎1棟(普通教室4教室)です。しかし戦火は激しさを増していきました。伊藤さんらが入学後の1944年11月からはB29による東京大空襲が、12月からは名古屋大空襲が始まりました。1945年になると3月には名古屋駅が、5月には名古屋城が焼け落ちるなど名古屋の街並みは焦土と化していきました。

伊藤さんたちと同じ1944年4月に、中等科に入学した新谷啓治さん(愛知県愛西市)は入学当時の校舎について、「すきま風が遠慮なく吹き込む木造2階建て校舎で、国鉄東海道線の上り、下り貨物列車の騒音でとてもやかましい学校だった」と語ります。 伊藤さんのアルバムに貼ってあった2階建て木造校舎の写真を拡大して見てみました。校舎のあちこちの教室の窓ガラスが破損し、すきま風が遠慮なく吹き込んでいたことが容易に想像できます。校舎前で憩う学生たち。周囲の水田には稲の切り株が残っていることから、伊藤さんは「卒業を前にした1946年暮れから1947年春先に撮られたのでは」と推測します。

校舎の前でキャッチボールをしているような学生たちもいます。「そうかも知れません。私も野球が大好きで、クラス対抗戦ではキャッチャーをやっていましたから」。伊藤さんは、拡大された写真に浮かび上がったセピア色の校舎前の高理工生たちの姿に、遠い日の自分を重ねているようでした。

破れガラスと電気七輪

  • 破れガラスと電気七輪
  • 「電気七輪」の売り込みを報じた新聞記事(野末さんのアルバムから)

高理工の学生たちが、校舎の破れガラスの窓を修理するため、田中校長が発明したという「電気七輪」の売り込み活動をしていたことを報じた新聞記事が野末さんの卒業アルバムに貼られていました。取材を受け、記事にも名前が登場する野末さんによると新聞は「中部日本新聞」(現在の中日新聞)。1947年1月9日付で次のような記事が掲載されました。

校長発明の電気七輪いかが
街頭に立つ高等理工科学校生徒

「お持ちの電熱器が十分な効果はないとき、下焼けして火事の恐れがある場合などはこれをお使い下さい。必ず満足していただける無比の優秀品です」――。大道香具師の口上ではない。名古屋高等理工科学校機械科の生徒諸君が「先生の生活権擁護と学費ねん出」をスローガンに、田中校長発明、同校製作の「優美聚熱(しょうねつ)式電気七輪兼予熱こたつ」売り出し風景である。

機械科の生徒百名が、宣伝班と製作班に分かれ、中配電気百貨店、丸栄地下、笹島伊藤電気店などで、先生の宣伝、販売網とタイアップし一個百六十円也で売り出しているもの。売れ行きは学生諸君の熱と意気に共鳴してか、一日百個は楽々とはけるというから、「侍商法」といって馬鹿に出来ないが、利益はとりあえず校舎の破れガラスの修理、先生方の生活費に繰り入れるほか、厚生部資金として貧窮生徒の学資に回すことになっている。同校機械科三年の堀尾勇君は「休暇を利用しての資金稼ぎですが、始業後も授業の余暇には街頭進出するつもりです。みんな宣伝は上手になりましたが、田中校長が昭和7年来研究されていたものですから安心してお売りできますヨ」と如才ない宣伝ぶりであった。

写真には「電気七輪を売る名高理工生(柳橋にて)」の説明が付けられています。記事中に登場する「機械科三年の堀尾勇君」は、当時、堀尾姓だった野末さんのことです。学生たちの街頭セールスは珍しくもあり面白い話題であったのでしょう。揶揄を交えての記事からは、取材した記者も十分楽しみながら書いている様子が伝わってきます。

映画ニュースでも紹介

  • 映画ニュースでも紹介
  • 映画ニュースでも紹介
  • 「電熱器売ります」と上映された「日本ニュース」とニュースで紹介された電気コンロ

「電気七輪」の街頭販売の話題は、1947年2月から、全国の映画館で上映された「日本ニュース」でも、「電熱器売ります」というタイトルで紹介されました。上映時間はわずか18秒のニュースですが、「名古屋高等理工科学校の生徒たちは、働きながら勉強するのだと、校内で電熱器を製作、街でその商売を始めました」というナレーションとともに名古屋の街角で市民たちに電熱器を売り込む高理工生たちが映し出されています。

中等科生だった新谷さんも販売に駆り出された1人でした。新谷さんによると、電気コンロ(電気七輪)の製造は学校にも近かった名古屋市西区枇杷島通1丁目の田中校長宅で行われました。「私ら学校近くに住んでいる生徒たちに呼び出しがかかりました。田中校長が発明した『電気加熱装置』(電気コンロ)ということで、値段は結構高かったと思います。中庭で、チクチクと指に痛い石綿をコンロに詰め、熱線を入れて作り上げ、完成品をリヤカーに積んで大須まで運びました。もちろんボランティアです。作った生徒たちも買わされました」。66年前の出来事を苦笑交じりに語る新谷さんも懐かしそうでした。

広報の立場から言えば、「電気七輪」販売の話題は、地元紙だけでなく全国の映画館で上映されたことで、宣伝費に換算したら販売収益以上の効果があったと言えるかも知れません。

被災地で先立った友

  • 被災地で先立った友
  • 東日本大震災から半年後に逝った鷲田さん(伊藤さんのアルバムから)

2013年3月19日の「スペシャルホームカミングデイ」の懇親交流会では、名古屋高等理工科学校卒業生として唯一参加した伊藤さんは司会者に指名されマイクに向かいました。伊藤さんは、高理工卒業後、名古屋市内でホンダの代理店として自動車整備業に打ち込んできたこと、世界の環境や平和について自分の肌で感じて見ようと、ピースボートが主催する船で、世界一周の旅を2回体験したことなどを話しました。

伊藤さんにはこの日、本来なら互いに元気に再会したかった仲間がたくさんいました。自ら幹事を務め、これまで何度も集まってきた高理工時代の仲間たちは健康上の理由などで参加者は減り続けています。仙台市若林区の同級生で、2011年3月11日の東日本大震災では、経営する金属加工会社が被災した鷲田廣さんも会いたかった1人でした。震災直後、名城大学校友会東北支部長だった野神修さん(1962年理工学部建設工学科土木分科卒)が行った卒業生たちの安否確認調査記録には、鷲田さんについて、「3.18迄、19電話。家族共々被害なし。家財・住宅に少し被害あり(高機S22)」の記載がありました。「高機S22」は高等理工科学校昭和22年卒の略です。

鷲田さんの自宅に電話をしてみました。電話に出たのは長男の博章さん(59)でした。「わざわざ電話いただきありがとうございます。実は父は震災から半年後の2011年9月13日に亡くなりました」。鷲田さんの会社を継いでいる博章さんによると、震災当時、鷲田さんは体の衰えで入院中だったそうです。

「親父にとって名城大学(名古屋高等理工科学校)時代の思い出は宝物だったと思います。勤労奉仕に明け暮れ、ろくに勉強は出来なかったそうですが、何人もの友達ができたことがとても誇らしそうでした。私も子供のころ、親父に連れられて名古屋まで行ったことがあります」。博章さんはていねいに亡き父親について語ってくれました。

伊藤さんも震災後、鷲田さんの消息を追っていました。博章さんと連絡が取れ、鷲田さんは入院中だったことが幸いし、大震災では難を逃れることができたことを知り、一時はほっとしていました。しかし、半年後、鷲田さんの訃報が届きました。伊藤さんにとって、かけがえのない高理工時代の“戦友”が、また一人、先に旅立ってしまいました。

野末さんも鷲田さんは、高理工卒業後も交流を続けていた1人でした。高理工時代の仲間6人で仙台に旅行に出かけた際、鷲田さんに出迎えてもらい、一緒に温泉に泊まったこともありました。 野末さんのもとには、最近は同期生たちの消息もなかなか届かなくなってきています。足腰の衰えで外出する機会が減ったこともありスペシャルホームカミングデイへの出席も見合わせました。 「鷲田が亡くなったんですか」。私から鷲田さんの訃報を聞いた野末さんは悲しそうに絶句しました。「この男です」。野末さんはセピア色のアルバムに収められた学生服姿の鷲田さんの写真を愛しそうに指でなぞりました。

(広報専門員 中村康生)

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