特設サイト第1部 第7回 少年軍属と駒方キャンパス


  • 駒方町の生徒舎から各製造所に向かう少年工たち(『少年軍属の教育史~名古屋造兵廠技能者養成所』より)

新キャンパス探し

名城大学は1949年4月、待望の新制大学としてのスタートを切りました。商学部(第一部、第二部)のみでのスタートでしたが、さらに併存していた旧制名古屋専門学校の法政科、電気・機械・建設・数学の理工系各科の大学昇格、つまり新制大学としての学部増設の実現に全力を注ぎます。しかし、名古屋市中村区新富町の中村校舎だけでは増設に必要な設置基準を満たしませんでした。最小限の経費、できれば無償に近い条件での校地・校舎の取得に田中壽一理事長は奔走します。白羽の矢が立ったのが昭和区駒方町にあり、終戦まで1500人近い少年工員(軍属)たちを収容していた名古屋陸軍造兵廠の寮舎でした。敷地面積は1万坪(3万3000㎡)余。現在、薬学部がある八事キャパス(1万7553㎡)、2016年オープン予定のナゴヤドーム前キャンパス(1万7937㎡)の倍近い広さに加え、大学施設としても使える施設がそのまま残っていることは魅力でした。

全国8か所に「技能者養成所」

  • 卓球で優勝した「村上嬢」
  • 田園の中に寮舎が立ち並ぶ駒方町の八事生徒舎(『少年軍属の教育史~名古屋造兵廠技能者養成所』より)

愛知県刈谷市の深谷龍男さん(86)は地元の尋常高等小学校を卒業し、14歳だった1941(昭和16)年4月1日から、17歳の1944(昭和19)年8月10日までの3年5か月、名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所(名古屋市熱田区)で少年軍属として高射砲の弾丸など兵器製造に従事、昭和区駒方町の「八事生徒舎」で寮生活を送りました。

「軍属」とは軍人(武官または徴集された兵)以外の、軍隊に所属する人たちのことです。陸軍の主要軍事工場である造兵廠は名古屋を始め全国9か所にあり、工員である少年軍属たちの教育機関として8か所に「技能者養成所」が設けられていました。

日中戦争から太平洋戦争へと戦局の拡大に伴う兵器増産、応召されていく熟練工の穴を埋めるためにも、小学校高等科を卒業した少年たちを技術工員として養成することが緊急課題となったためです。技能者養成所では配属された各製造所内にある教育工場での実習や教科教育と、全寮制による生活面も含めた24時間教育が行われました。

深谷さんは名古屋陸軍造兵廠技能者養成所の2期生。八事生徒舎は入寮者たちからは「駒方町生徒舎」とも呼ばれました。1万坪を超える広大な敷地。1500人の収容が可能だった8棟の寮舎と大講堂、食堂、浴場、ボイラー室、広い運動場を備えた巨大施設でした。

戦意高揚と少年軍属

  • 戦意高揚と少年軍属
  • 新聞連載記事で紹介された入浴中の少年工たち
  • 戦意高揚と少年軍属
  • 「結ぶ夢は靖国へ」の見出しがついた就寝中の少年工たち

深谷さんの手元に、駒方町の生徒舎での少年軍属たちの日々を紹介した「中部日本新聞」(現在の「中日新聞」)の連載記事が残っていました。

名古屋市昭和区駒方町。南山中学のほとり。1万坪の広大な景勝の地に、清楚な2階建ての緑灰色の寮舎を並べて八ツ。そこには勝ち抜く意欲燃えて、若き日の闘魂を職場にみなぎらす少年たちが、国家の要請に応えて、けさも元気よく舎前に整列した。朝5時から夜9時まで、ラッパで飛び起き、ラッパで夢路に入る少年たちの姿は――。

記事は「名工廠の花~少年工の造成」(「名工廠」は名古屋陸軍造兵廠の改称前の名古屋工廠の略)のタイトルで5回連載されました。あどけない少年軍属たちの笑顔などの写真とともに、「朝の誓い『滅私奉公』 ラッパの音で職場へ進軍」「結ぶ夢は靖国へ すべて軍隊式の寮生活」など戦意高揚を煽る見出しが躍っています。生徒舎での生活ぶりは、当時の「ニュース・文化映画」でも取り上げられ、国策宣伝のため、全国の映画館でも上映されました。

教育機関として

名古屋陸軍造兵廠の技能者養成所は1940(昭和15)年4月に開設されました。熱田区の高蔵製造所構内に校舎、昭和区駒方町に八事生徒舎が建設されたほか、工場敷地が広い春日井市の鳥居松製造所構内にも分所と生徒舎が置かれました。駒方町に生徒舎が置かれたのは、生徒たちが働く名古屋陸軍造兵廠の熱田製造所(熱田区六野2丁目)、高蔵製造所(同1丁目)、千種製造所(千種区若水1~2丁目)のほぼ中間地点にあるためでした。

陸軍諸学校をモデルにした技能者養成所では、寝食をともにした少年軍属教育が行われました。少年軍属たちはわずか3年前後の中等技術教育を受けて、各製造所(工場現場)に配属され、次々と応召されていく熟練工たちの職場と職務を引き継いでいきました。

深谷さんの実家は農家。父親が早く亡くなったことや経済的な事情もあり、中学進学は断念せざるを得ませんでした。このため、経済的な負担がないうえ、「中学校(旧制)卒業に準じた資格が得られる」と紹介された名古屋陸軍造兵廠技能者養成所の入所試験を受け合格、入学を決めました。

八事生徒舎の収容人員は1~3年生で1520人(1942年度)。深谷さんら2期生は650人が入寮しました。入所後2か月間の養成工員科から、選抜試験を経て見習工員科に進みました。見習工員科での3年間は、1週間6日のうち3日間は高蔵製造所工場で働き、残る3日間は製造所構内での授業を受けました。工業英語、金属材料学、電気工学といった工業科目、国語、歴史、数学、物理など普通科目に加え、修身や公民科の科目も行われました。もちろん柔剣道や銃を持った軍事教練も行われました。見習工員科に進めなかった半分以上は工場現場要員の養成工員科のままで、勉強の日数は大幅に減らされました。

太平洋戦争突入

深谷さんによると駒方町生徒舎では10畳間に11人が割り当てられました。廊下部分も含めてかろうじて1人1畳間が確保できた状態でした。1棟に20室あり約200人が収容できる棟が6棟、部屋数は少ない2棟を含めた計8棟。大食堂での食事では、アルミのふたがついた食器の前で、食事開始の号令を待ちました。「みんな食べ盛り。ふたを空けると怒られるので我慢したが、空けるのが待ちきれなかった。米が足らず、次第に固めのおかゆのようなブツブツの飯が多くなっていった。入所2年目だと支給される日給が1円。売店で1袋10銭で売っていたソラマメを買って毎日食べていました」と深谷さんは振り返ります。

入所した1941年12月8日には日本軍による真珠湾攻撃により、太平洋戦争に突入。戦局が一段と緊迫し、翌年からは、毎月1日の朝、駒方から競歩のような早足で、熱田神宮参拝も行われました。

八事生徒舎の1日
(市村常作著『少年軍属の教育史~名古屋造兵廠技能者養成所』より)

6:00    起床、面洗、日朝点呼、裸体操
6:20    清掃
6:30    朝礼、朝食
7:00    技能者養成所へ出発
7:40    技能者養成所に到着
8:00    始業(朝礼) 午前4時間授業
12:00   昼食 午後4時間授業
16:20   放課
17:00   1~2年帰寮、報告
17:30   3年帰寮、1~2年入浴、夕食
18:00   3年入浴、夕食
20:00   日夕点呼、皇国民錬成、終了後、予習・復習
21:30   消灯
22:00   見習工員科生徒(一部)消灯

八高教員による授業

  • 蒸気機関車での旅路
  • 深谷さんの卒業証書

見習工員科の3年間の学びを終えた深谷さんは技術員科に進みました。見習工員科が工業学校と同等以上を目指した教育内容だったのに対し、技術員科(普通科)は高等工業学校1年生の教育内容に相当する教育を目指しました。3年間の見習工員科に残ったのは約160人でしたが、予科練に志願して戦場に向かう生徒たちもいて、卒業したのは約140人。その中から成績順に上位30人が技術員科に選抜されたのです。

深谷さんたちが学んだ技術員科の授業は1944年4月から5か月の修了期間でスタートしました。授業は見習工員科の時に比べ途方もなく高いレベルでした。旧制中出身の生徒たちと一緒に学ぶ授業で、教えるのは、勤労動員で教える生徒が減った名古屋大学や八高の教員たち。工場には通わず、毎日が勉強漬けでしたが、深谷さんたちはついていけませんでした。2か月後、ついに自分の工場に戻り、兵器づくりに励むよう言い渡されました。

「恥ずかしい話です。見習工員科での成績は7番でしたが、技術員科の授業では全く通用しませんでした。それまでは駒方の生徒舎から高蔵の工場に向う行進の途中で、八高前を通るたびに、この学校で勉強できたらどんなに幸せだろうといつも思っていました。しかし、現実はあまりにも厳しかった。八高の生徒たちは勤労動員で熱田製造所に来て作業をしているのに、我々のような者が勉強なんかしていてはいかんということになったのでしょう」。

深谷さんら見習工員科出身の多くが技術員科で2か月間学んだ後、工場現場に戻るように命ぜられました。しかし、深谷さんは仲のよかった同級生で新潟県出身の若杉文吉さんと2人、工場ではなく養成所の教育工場への配属となりました。実際には“落第” だったにもかかわらず、技能者養成所は深谷さんたちに卒業証書を出していました。1944年8月10日付の「卒業證」には「右ノ者本所技術員科普通科ノ課程ヲ卒業シタルコトヲ證ス」と記されていました。

「2か月間、八高の先生の授業を受けさせてもらえ、うたかたの夢を見させてもらったのかも知れません」。すでに70年近くも前の遠い記憶とはいえ、深谷さんにとっては忘れることのない、ほろ苦い思い出でもあるようでした。

少年軍属たちの戦後史

  • 23年ぶりの母校
  • 思い出を語る深谷さん。手にしているのは生徒舎時代の同窓会旗

深谷さんは名城大学の前身である名古屋高等理工科講習所の創立と同じ1926(大正15)年11月生まれ。技術員科を卒業後は、刈谷市の自宅から高蔵製造所に通勤し、終戦を迎えました。戦後は14年間の農業生活を経て刈谷市のデンソーに定年まで28年勤務しました。妻スズヨさんと3人の子供を育てあげ現在は長男家族と同居しながら静かに年金生活を送っています。

「陸軍造兵廠技能者養成所卒業」の肩書は学歴としては通用しませんでした。深谷さんの周囲には地元の工業学校や商業学校を経て名城大学の前身である名古屋高等理工科学校に入学した同級生たちもいました。学制の変わり目の中、深谷さんは農業経営で手一杯でしたが、何とか文部省の実業学校卒業資格検定試験を受け、果たせなかった旧制中学卒業の夢を、新制の農業高校卒業資格を得ることでやっと果たしました。1949年の時です。

深谷さんと一緒に技術員科を卒業した若杉さんは旧制長岡中学校の編入試験を受けて4年生として入学。旧制新潟高校を経て新潟医科大学(現在の新潟大学医学部)に入学。痛み治療を専門とするペインクリニックの権威として活躍し、田中角栄首相の顔面神経痛治療にもあたりました。深谷さんとは親しい付き合いが続いた若杉さんでしたが、今年、届くはずの年賀状が届きませんでした。「ひょっとしたら」という深谷さんの心配どおり、若杉さんは多くの医療関係者たちに惜しまれながら先立っていました。

陸軍造兵廠の技能者養成所で教育を受けた少年軍属たちは全国で20数万人とも言われます。深谷さんの所在は、深谷さんの2年後輩で、鳥居松技能者養成所の卒業生として『名古屋陸軍造兵廠鳥居松技能者養成所の思い出』の著書がある千葉県柏市の小澤武明さん(85)から紹介していただきました。小澤さんが2013年4月17日付読売新聞に寄せていた「自分史をつづることで、戦争の悲惨さを伝え続けたい」という投書を目にしたのがきっかけでした。

名古屋陸軍造兵廠八事生徒舎は田中理事長の狙い通り、戦後、15年近くにわたり名城大学駒方キャンパスとして使われることになりました。春日井市にあった名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所の施設もまた名城大学農学部に引き継がれ、附属農場として今なお活用され続けています。


  • 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所の敷地、建物を引き継いだ名城大学農学部附属農場

(広報専門員 中村康生)

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