特設サイト第3部 第1回 ひた走る創立者
教授会の田中退陣決議
「教授会 田中(総長・理事長)の退陣を決議」「大学の私有化、教育の方針で正面衝突」――。1954(昭和29)年11月6日に発行された「名城大学新聞」号外に、新制大学として発足6年目を迎えていた名城大学に激震が走りました。号外は11月5日に開催された教授会の決議文を報じていました。「田中壽一先生及びその一家は、学校法人並びに大学を私物化し、幾多の弊害が生じている」「今や経営者並びに教育者としては勿論、人道的見地から見るも到底黙過し難きものがある」「茲(ここ)に至っては、我々教授は遺憾ながら田中先生を信頼し得ず即時退任を要求する」。決議文からは我慢の限界を超えたとばかりに、教授たちの憤りがほとばしっていました。
名城大学ではすでに前年の1953年後半から、大学組織や学則の明確化を求める声が強まっていました。老朽化した校舎、経理の不透明、学生や教授会の声が届かない田中理事長ワンマン体制。学生たちは学生大会などで改善を訴え続けてきましたが、田中理事長は逆に、学生2人を除籍処分に、学生の味方をしたとして教員3人を解職してしまったのです。
このため、学生側は1954年6月15日から「同盟休校」に入るとともに、ハンストや名古屋市内でのデモ、ビラ配布を行い、田中理事長の横暴を訴えていました。
無期限スト掲げた学生大会
1954年6月15日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)に掲載された記事(要旨)から、前日の学生大会を追ってみます。
「名古屋市昭和区駒方町の名城大学駒方学生会(法商学部と短期大学部学生約1200名)では14日午前10時40分から、講堂に学生約1000名が集まり、法科4年西脇守幸君を議長に推して、学生大会を開催。学生会長中村忠義君(商科3年)以下新役員の就任あいさつを行ったが、短大2年平間直吉君の緊急動議により、昨年末から問題化していた学園明朗化を議題に取り上げ、先ごろ退学処分された徳野隆(当時法科3年)、青松好三(同商科3年)両君の復帰要求など次の9項目からなる決議文を可決。学校当局と交渉して、15日午前9時までに解決しない場合は無期限ストに入ることになった。
学園明朗化問題は田中壽一学長の独裁的な運営に対する学生の不満が爆発したとみられ、学生たちはすでに昨年12月7日と同11日の2回にわたり学生大会を開いていた。決議9項目は次の通り。
▼青松、徳野両君の復籍=徳野君は授業料未納、青松君は学風に合わぬというので除籍処分を受けたものだが、徳野君は前学生会長、青松君は昨年12月の学生大会で議長を務め、大学当局からにらまれたものと学生たちは見ている。現在、いずれも愛知大学在学中▼両君の豊橋移転、入学経費などは大学で賠償すること▼復籍料は現在三千円となっているが、これは他校と比べ高すぎるので五百円ぐらいに下げること。
▼学長、学部長公選を明記した学則をつくること▼教授会を大学の最高機関とすること▼昨年11月、学生、教授会などの反対を押し切って行われた補欠募集の責任をとり、現事務局次長の田中卓郎氏(学長の長男)は退陣すること▼学生の集会を取り締まる昨年12月29日の学長告示および今年1月6日の大学新聞その他に対する取り締まり、同日付の寄宿舎の在り方について出された3告示を非民主的なものとして撤回要求▼現在学長夫人田中コトさんの手に握られている経理の実権を本部事務局に移す▼昨年12月解職された桜木俊一第一法商学部長(現在名誉教授)、河合逸治第二教養部長、吉田三郎太講師の復職要求。
「学歌の父」と「和製ヒトラー」
解職させられた教員3人の解職理由は、大学の在り方に不満を訴える学生たちを扇動したというものでした。桜木教授は間もなく名誉教授・講師として復帰しましたが、名城大学学歌の作詞者である河合教授ら2人は名城大学を去りました。法商学部商学科3期生の桂川澈三(てつぞう)さん(故人)は、商学部創立30周年記念誌『碑』に寄せた回想記「草創の門」の中で、このことに触れています。
「それにしても、学生の中に過度なとけこみをしたという理由に、犠牲になられた河合逸治(名古屋商科大へ)、吉田三郎太(愛知学院大へ)両先生の名城復帰が望めなくなったことは残念、大なるものがあった。河合先生は校歌の父であり、吉田先生は演劇部の顧問として名をはせた、テアトル名城の礎となっていただいただけに寂しい限りであった」
河合教授の三男で元河合塾学長の河合恒人氏も著書『河合塾創立八十年 汝自らを求めよ~河合塾創立者 河合逸治の生涯』で、河合教授が当時語ってくれた話を紹介しています。(要旨)
「名城大学の中に色々難しい問題が起きてねえ。騒然とした紛争になってきたんだよ。田中さんはものすごく先見の明がある経営者だが、あまりにも強引で、ちょっと和製ヒトラーみたいだから、反対者も多いのだよ。今度もまだ教職員の給与体制が確立していないのに、東京に法学部をつくろうと言い出した。教授連や職員たちは、地元の大学内の経理、給与体制がしっかり確立していないのに、そんなに外部に暴走して!と反発しているが、反対する連中の中には『予備校をやっているのに教授をしている者がいる』なんて言うのがいる。『そんなことを言うなら、わしは直ぐにやめる。今すぐやめてやる』と言ってやったが」
卒業式で「東京法学部」構想
- 1954年8月に名古屋専門学校を卒業した清水さん(2013年3月のスペシャルホームカミングデイで)
教授会は田中理事長の退陣を決議した大きな理由として、田中理事長が独断で、東京に法学部の開設を計画。文部省に虚偽の申請書を提出するなどしたことを挙げています。1954年9月18日付で田中理事長から文部省に提出された書類では、8月8日に理事会及び評議員会が開かれ、法商学部の「商経学部」「法学部」への分離と「東京法学部」の増設が「満場一致で可決された」と、事実無根の内容が書かれていたことが明らかになったのです。
さらに、提出された学則も、田中理事長の独断で変更が加えられており、教授会の権限が縮小され、「不良なる学生の処分を学長は直ちに処断することがある」という改正まで行っていました。
田中理事長が東京に法学部を開設する計画は、1954年8月末に、中村校舎で行われた名古屋専門学校電気科の卒業式で公表されました。東京で有力な法学部を持つ早稲田、法政、中央大などにも近い都心に法学部を開設することで、名古屋よりは有利に優秀な教員が確保できる。名古屋で2年間の教養課程を学び、専門を東京で学べば就職にも有利のはず。田中理事長の東京進出計画にはそうした計算がありました。
卒業式の参列者の中には名古屋専門学校6回生である北海道帯広市の清水春雄さん(81)もいました。清水さんは2013年3月に行われたスペシャルホームカミングデイに参加するため名古屋を訪れています。しかし、卒業式での田中理事長の発言については記憶していませんでした。「もう、一日も早く北海道に帰りたい一心でしたから、田中さんのあいさつも上の空だったのだと思います。そんなことがあったんですかねえ」。清水さんはそう振り返りました。
しかし、卒業式の席上で、突然明らかにされた東京法学部構想は、学内関係者には大きな衝撃でした。強硬な姿勢で突き進む田中理事長に、自らの身分に不安を抱く教職員も続出し、10月16日、名城大学教職員組合が結成されました。初代委員長には近藤良男教授(農学部長事務取扱)が就任しました。
転用された薬学部寄付金
「名城大学新聞」号外が出され、騒然とする駒方校舎には12月下旬、4月に誕生したばかりの薬学部が春日井市の鷹来校舎から移ってきました。実験設備など施設の未整備に加え、農学部との施設共有では2年次以降の教育環境が保障されないとして、非常手段とも言える1年生128人の引っ越しでした。薬学部は法商学部の好意で、木造2階建ての駒方校舎1、2階計4室を使用できることができました。
薬学部1回生たちにとっては驚くべき事実も明らかになりました。田中理事長の強い意向で、入学時に収めさせられた1人当たり10万円の寄付金が、東京法学部開設のための土地建物購入費に転用されていたのです。1回生でもある鈴木良雄名誉教授は「在学中は全然わかりませんでしたが、後に全部、転用されていることを知りました。田中壽一さんっていう人はどういう人だろうとみんな思いました」と苦々しそうに振り返ります。
1959年当時の10万円という額は学生の親たちにとっては簡単に出せる額ではありませんでした。しかも受験時の条件にはなかった徴収でした。寄付金を求められ、入学辞退を申し出る学生もいましたが、薬学科長であった近藤薫教授は合格者一人ひとりの親を訪ね、大学の厳しい財政事情をつぶさに話し、拝むように寄付を頼み込みました。近藤教授の行脚で、大半の親は4年間に分割払いを条件に払ってくれました。
そうした、寄付金転用について、当時の薬学部学生部委員でもあった田中哲之助教授は『薬学部20年史』の中で、集められた寄付金は、今日の貨幣価値にしたら大変な金額だったことを指摘。「私はこの理事長の教育者としてあるまじきやり方を聞いた時、無性に腹が立った。この上は理事長から馘首されることがあっても薬学部の教学権擁護のために立ち上がろうと固く決心した。そうすることが壽一先生と初対面の席で、約束した言葉を守る最善の道だと信じていたからです」と書いています。田中教授は薬学部開設にあたり、田中理事長から教授就任を懇請された際、「微力ながら薬学部発展のために尽くさせていただきます」と約束していたからです。
僕らは創立者の熱意を求めた
- 回想記に「僕らは創立者の熱意を求めた」と書いた桂川さん(1973年に天白キャンパスで開かれた商学部30周年記念式典で)
無期限ストを掲げ9項目の要求を決議した1954年6月14日の学生大会。学生会執行部役員の中には、文化局長として桂川澈三さん(商学科4年)の名前がありました。学生大会翌日から突入した同盟休校。桂川さんは「草創の門」の中で、学園の規模拡大にひたすら走り続ける創立者への怒りと葛藤を叫んでいました。
ここに至り、声を限りに叫んでも、もう止めることはできない。名優壽一節の効も薄れ、駒方の学生はついに昭和29年6月15日から8日間の同盟休校に入ってしまったのである。
差し出された報道陣のマイクに、「僕らは私学を求めたのであり、創立者の熱意を求めたのであって、裏切りは出来ない。なぜ闘争するのかの問いに至っては、学問の府が正しくあってほしいという願望であって、いわばアカデミズムを求めてやまないのである。壽一っつあんを抹殺することにはつながらない」と言い切った。
しかし、切なる願いは実らず、学生の抗議は、はかりきれないほど激しさを加えていった。いつの間にか踏み入れてしまった自分との闘いも始まった。克明にノートした初心の生活が一転してしまった現在の己に、「ええいっ、俺はこれでよいのだ。そう、よいのだ」と無理に言い聞かせながら寝苦しい夜を過ごしたものだった。
- 理工学部学生会の役員を務めた能仲さん(2013年10月3日に開催された同期会「3032会」で)
桂川さんと同様、理工学部学生会の1954年度役員に総務として加わった能仲茂さん(電気工学科2年)も、教養部時代は駒方校舎で過ごしたこともあり、田中理事長のワンマン体制には自然体で行動を起こしたと言います。「思想的な学生運動では全くなく純粋な気持ちでした。それが正義だと思ったからです」。81歳の能仲さんは、名古屋市瑞穂区の自宅で、60年前の学生時代の遠い記憶をたどりながら静かに語ってくれました。その時の信念、行動が、輝いていた青春時代の誇りであったかのように。
(広報専門員 中村康生)