特設サイト第3部 第7回 駒方講堂炎上
強風下での出火
新制大学として開学10年が過ぎた名城大学は1959(昭和34)年9月、大きな試練に立ち向うことになりました。
9月17日午後6時半ごろ、名古屋は大型台風14号の接近で、風速10mを超す強風が吹き荒れていました。法商学部商学科1年生で、野球部員だった金田辰男さん(73)(愛知県春日井市)は名古屋市昭和区にある駒方校舎近くの食堂で仲間の部員たちと夕食を済ませ、野球部合宿所があった駒方寮に帰ってきたとき、講堂の2階から炎とともに煙が上がっているのを見つけました。「火事だ」。金田さんは、部員同士で慌てて叫んだことは覚えていますが、すでに消火作業は追いつかない状態でした。
やはり野球部OBで1957年卒の柴田守さん(79)(名古屋市千種区)も、野球部の後輩たちを激励しようと合宿所を訪ね、講堂東側の天窓から赤い炎が噴き出しているのに遭遇しました。「近くの鉄工所に、ちょっと見てよと叫んだ。これはいかんということで119番通報してもらいましたが、消防車が到着した時はすでに屋根が燃え上がっていました」。
木造モルタル塗り、スレート瓦屋根の2階建講堂の、2階東南すみから出火した火事は、強風にあおられてあっという間に燃え広がり、2階の講堂、1階の理工学部機械実験室、図書室など2178㎡(660坪)を全焼し午後7時25分に鎮火しました。駆けつけた消防車25台が懸命な消火活動にあたりましたが火の回りが早く、立ち並ぶ法商学部校舎やアルバイト学生用工作室などに飛び火するのを防ぐのが精いっぱいでした。風向きが幸いしたこともありましたが、他の校舎や付近民家への延焼を食い止めるのがやっとでした。
紛争さなかの衝撃
9月18日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)は社会面トップで「強風下 名城大で出火」の大きな見出しで記事を掲載しました。学園騒動で校内が対立している矢先の出火だけに、愛知県警捜査一課長、昭和署長も現場に急行、出火原因について漏電、失火、放火の面から慎重に捜査する方針であることも伝えるとともに、衝撃を隠せない日比野学長、田中理事長の話と、紛争について解説しています。
日比野信一学長の話 私や村井法商学部長ら4、5人が本部の学長室で教授会を開いていると、午後6時35分ごろ、急に部屋へ煙が入ってくるのでタキ火かと思って出てみた。もう火の海だった。火の出たあたりは火の気のない所で、原因は何も思い当たらない。学園内がごたごたしている時にこんなことになって何とも言えない気持ちだ。学生や教職員には気の毒でならない。対策はまだ先のことだ。
田中壽一理事長の話 金策に出ていて宿に帰ったら電話があり、続いて迎えの人が来たので駆けつけた。燃えた図書は私が毎年4、500万円ずつ買っていたから、良いものもたくさんあるはずだ。この校舎は鷹来(春日井市)に移さなければならぬもので、私は敗訴以来、ずっとそれを言ってきているが、誰も相手にせず、私の排斥運動などをやっているからどうにもならぬ。集会や研究にすぐ困るかどうかというようなことは諸教授に聞いてもらいたい。急場の間に合わせから適当なものを少しずつ買ってゆくほかないだろう。
名城大学騒動とは 名城大では田中壽一理事長と日比野信一学長以下教授会、教職員組合、校友会(卒業生の同窓会)が対立、騒動の最中であった。ことのおこりは去る7月17日、突然田中理事長が日比野学長を罷免したことから端を発し、その後も各学部長、教職員らを17日までに21人にわたり大量解雇。また、全教職員の8月分給与を“資金がない”との理由でストップ、最近では「名城大学」の看板まで持ち出したほか、駒方本部の電話なども売り払った。これに対して反理事長側では“学園を破壊する不当行為だ”と憤慨、対立中である。
田中理事長が語った「鷹来校舎に移転せざるを得ない」という理由とは、駒方校舎の土地所有者たちが、土地の明け渡し、建物の撤去、8年間の土地賃貸料の支払いを求めた訴訟での勝訴でした。田中理事長は、駒方を引き払って鷹来校舎への移転を決めたものの、鷹来校舎もまた国有財産であり、名城大学側の希望通りに、新校舎開設分の土地の払下げが認められるかどうかは予断を許さない状態にありました。
機械実験室、図書室も焼失
全焼した建物は1階が理工学部機械実験室、図書室・同事務室、食堂。2階には講堂兼体育館で、配電室、空手部、柔道部室もありました。1階の機械実験室には理工学部機械工学科の主力機械類が集められていました。理工学部は開設当初の1950、51年頃は実験、実習機材が全くないという状態でした。学科長の伊藤萬太郎教授が、小澤久之亟教授を伴い、大隈鉄工所(現在のオークマ)に工作機械を安価で譲ってくれるよう交渉し、中古でしたが駒方に持ち込まれました。その後も小澤教授らの奔走で機械、計測器具等の企業からの払い下げが実現し、駒方講堂1階の機械実験室は機械工学科の拠点施設となっていました。その“虎の子”とも言える施設が焼失してしまったのです。
図書館では1万8000冊が焼失しました。自宅が駒方校舎のすぐそばにあり、大学院商学研究科1期生(1956年修了)で、当時法商学部商学科の講師だった伊藤宗太郎さん(85)も火事を目撃しました。「図書館が燃えたせいでしょう。紙の火の粉が強風で夜空に舞いました」と振り返ります。翌朝、焼け跡に出勤した図書館職員たちは、警察や消防暑の現場検証をぼう然と見守るしかありませんでした。
出火原因が不明で放火の疑いもあったことから、大学側の要請で学生たち夜警団による夜間パトロールも始まりました。野球部員で火災発見者の一人でもあった金田さんによると、30人ほどの野球部員もパトロールに参加しました。「盗難などの心配もありましたし、駒方寮に合宿所を置いているからにはそれが当然といった雰囲気でした。握り飯1個が支給されました」。夜警団には野球部だけでなく一般学生も駆り出されました。
全学学生協議会の記録には「火災が発生する直前に、駒方校舎では什器の持ち出しや備品の売り払い事件が相次いでいたことから、学生会の重要書類等の紛失予防のため、各学部に夜警団を派遣。2週間行う」と記されています。
台風の前、学長室に急ぐ
9月26日午前11時15分。台風15号(伊勢湾台風)の接近に伴い、愛知県地方には暴風雨、高潮、波浪警報が発令されました。正午。台風は紀伊半島の南南西約300km、北緯30度50分、東経134度35分の海上を毎時35kmの速度で北に進んでいました。中心気圧は920mb(hPa)、中心付近の最大風速60m/s(毎秒)に達していました。当時の気圧単位は、現在のヘクトパスカル(hPa)ではなくミリバール(mb)でした。
名古屋地方気象台はすでに午前10時の段階で、災害対策にかかわる官公庁関係者や報道関係者を招き、台風15号についての説明会を開催し、警戒や報道にあたって万全の対応を要請していました。
1955(昭和30)年3月に法商学部商学科を卒業し、愛知県庁職員になっていた桂川澈三さん(当時27歳)は、駒方校舎の学長室に急いでいました。学長室で待っているのは日比野学長のほか、法商学部の柴山昇、加藤廉平、濱口秀夫、矢野勝久、橋本英三らの教授たちでした。桂川さんら3人の卒業生たちは、1期生で商友会会長の山田昭治さん(1953年卒)ら先輩の卒業生たちの要請で上京し、文部省、私大関係者、国会議員らに、名城大学の紛争解決への協力を求める陳情を行っていました。学長室に向かって急いでいたのは4日間に及ぶ陳情結果を報告するためでした。
桂川さんは陳情で、予想外の手応えをつかんでいました。愛知県選出の江崎真澄衆議院議員(1915~1996)に面会したのを皮切りに、やはり地元選出の衆参議員、文部政務次官、文部省管理局長と相次いで面談、そして文部大臣(現在の文部科学大臣)とも会い、大学が置かれている窮状を訴えることができたのです。
激励した文部大臣
桂川さんは文部省への陳情の様子を商学部創立30周年記念誌、『碑』への寄稿「草創の門」の最後に書き記しています。
大臣の秘書室に入ったとき、驚いたことには田中壽一先生が付き添いの2、3名を伴って、面会を申し入れたらしく待っておられた。敵の大将を目前に、とは言ってもここは場所が違う。僕らも大人。「ご苦労さん」と言葉を交わした。秘書官の前へ行き、社会人としてはあまりにも重みのない名刺3葉を差し出し、「大臣にお会いしたいのですが」と申し上げた。勿論、名城の卒業生であることも伝えた。
「大臣、只今から会議があり出かけるところですが」と言いながら、秘書官は大臣室に入った。すると10秒もたたないうちに、大臣自らが顔を出されて、「私は11時まで卒業生諸君の話を聞こう」と入室を促された。11時まであと5、6分だと記憶する。田中一行の顔を見る間もなかったが、想像はできた。
あまりのことに、目も耳も疑いながらおそるおそる大臣室に入った。説明に入ろうとしたとき、大臣は、「諸君は卒業後何年になりますかな。まだお若いと存じますが、諸君が大学を愛する心に私はほかならぬ感慨を持って接することとしました。話は省内で聞いております。私はできる限りの努力をさせていただくことを誓いましょう。諸君もつらかろうが頑張って下さい」。
赤い幅広のネクタイを大きくゆらせるながら、力のこもった話は実にさわやかであった。只今ここで、「名城」は生まれ変わったような錯覚さえするほど嬉しかった。大臣の急ぎ足を追う田中壽一先生の後ろ姿を眺め、何ともいえぬ勝利感に浸った。
大臣は「テキサス無宿」
桂川さんら名城大学の若い卒業生たちを励ました文部大臣は松田竹千代(1888~1980)です。松田は大阪府泉南地方出身で、田中理事長より2歳年下でしたが、岸和田中学を中退して14歳7か月で単身渡米。皿洗い、ボーイ、子守りなどさまざまな職業を体験しながらアメリカ大陸を無銭旅行し、ニューヨーク大学夜学の商科で学びます。“テキサス無宿”のニックネームで呼ばれた米国時代、帰国前の欧州周遊体験を加えると外国生活は12年に及びました。帰国後は恵まれない子どもたちの教育を主眼とした社会事業に参加。第1回普通選挙で当選以来、衆院議員初当選12回。郵政相、文相を歴任し、1969年に衆院議長に就任しています。文相として入閣したのは第2次岸信介内閣(1959年6月18日~1960年7月19日)の時でした。政界引退後はベトナム戦争中で生じた孤児たちのために「ビエンホア孤児職業訓練センター」を設立しています。
桂川さんらが差し出した「社会人としてはあまりにも重みのない名刺」の肩書など、若者時代、肩書なしで人生を切り開いてきた松田にとっては関心がなかったのかも知れません。松田の二女で生涯学習開発財団(東京)理事長の松田妙子さんは、「父は“役人の秘書のような大臣にはならない”と言っていて、日本のために役立つと思った若者たちを大事にする人でした」と話しています。
伊勢湾台風の上陸
桂川さんが日比野学長らに松田文部大臣らへの陳情の報告をしていた9月26日午後3時ごろ、薬学部のある八事校舎では、3年生だった日比野正徳さん(1961年卒)が、土曜日に組まれている実習を終えて帰宅準備をしていました。日比野さんら薬学部の学生たちも、9月17日の駒方講堂の火災があってから、2年生たちが中心になって夜警団をつくり、八事校舎の夜間パトロールを続けていました。
日比野さんの自宅は南区豊田。八事から金山まで市バスで出て、金山橋駅から名鉄電車に乗り換えて3駅目の道徳駅で下車。自宅は駅から歩いて5分ほどです。午後4時ごろバスで八事から金山に着いたとき、風はまだそれほど強くはありませんでした。日比野さんは書店でしばらく時間をつぶしました。
夕方になって風雨は一段と強まっていました。午後6時過ぎ、台風15号は和歌山県潮岬西方約15kmの地点に上陸。上陸時の中心気圧は927.5mb、瞬間最大風速は48.5m/s(毎秒)を記録していました。午後6時15分、愛知県地方に洪水警報が発令され、国鉄(現在のJR)東海道線、近鉄、名鉄は運転休止もしくは不通となりました。日比野さんもやむを得ず、柴田行きのバスで帰ることにしました。
大型台風が迫る中を桂川さんは、日比野学長らへの報告を終えて家路を急いでいました。「嵐を目前にしたざわめきの中を、今日の報告が、名城のあけぼのを告げる“道標”となることができるならば」と秘かに願いながら――。
(広報専門員 中村康生)