特設サイト第3部 第12回 天白の地へ
銀世界の引っ越し
1965(昭和40)年12月17日、名古屋市内は20年ぶりに20㎝の積雪を記録する大雪となりました。中日新聞夕刊には、雪化粧した名古屋城の写真とともに「ドカ雪に泣いた朝」の見出しで、前日から降り続いた雪でマヒした交通機関、名神高速道路で雪に閉じ込められ、車の中で不安な一夜を送った人々がやっと救出された記事などが紹介されています。
名古屋の街並みが予期せぬ銀世界に変わったこの日、名城大学では名古屋市昭和区駒方町の駒方キャンパスから、天白キャンパスへの引っ越しが行われました。「天白キャンパス」はこの当時の「昭和区天白町八事裏山」の地名に由来するものです。「天白区」が誕生するのは1975年になってからのことです。
引っ越したのは第一法商学部、大学院商学研究科、短期大学部商経科第一部。2年前(1963年)の8月に日比野信一学長からバトンを引き継いでいた三雲次郎学長は「名城大学新聞」(1966年1月28日)に寄せた「名城大学再建第1期事業完成に際して」という一文の中でその情景を記しています。
「昨年12月17日、予定の如く、この日に法商学部は、駒方町から天白町の新校舎に移転した。この時期には珍しく、夜来の雪が積もったので、移転には予期しない難渋もあったが、この日のことは印象的で、記憶に鮮やかである」。この日の名古屋は最低気温が氷点下2.8度という冷え込みでした。
1966年3月に法商学商学科を卒業した田中雅幸さん(愛知県日進市)も、この雪景色の中での引っ越しが大変だったことを覚えていました。駒方学生会役員をしていて、学生課にはよく出入りしていこともあり、引っ越しを手伝っていたからです。
「真新しい校舎への引っ越しと言っても、机とかロッカーなど、耐用年数で相当ガタが来ているものも、使えるものはどんどんトラックに積み込みました」。
天白キャンパスでは、法商学部、短期大学部の教室が入る1号館が完成していました。田中さんが手伝ったのは事務組織が入る本部館への引っ越しでした。本部館があったのは、現在の本部棟近く。2階建てで、現在の経営本部の部署にあたる庶務課、経理課や学生課などが駒方本部から引っ越しました。田中さんは荷物を運び込みながら、まだ主の姿は見えない学長室、理事長室の様子ものぞきこんで見たそうです。
統合の基礎できる
- 三雲次郎学長
1966年を迎えた1月12日、学校法人名城大学は「総合校地第1期工事完成」ということで、学外関係者を招待しての披露式典を挙行。翌13日には法商学部が内外関係者を招いて式典を行いました。そして14日、天白キャンパスはオープンしました。
慌ただしい師走の引っ越しから年明けにかけての新キャンパスオープンへの動き。三雲学長は「名城大学新聞」への寄稿の中で、その背景を次のように書き記しています。
振り返ってみると、2年半前、名城大学が再建に取りかかった直後、駒方校地一帯を短期間に、その所有者に返還しなければならない事情となった。この決定的事態によって、本学は早急に新しい用地を確保すると同時に、駒方所在の諸々の施設の新築を実施しなければならなくなった。
この駒方移転を決意した時、もう一つの基本方針を立てた。それは、分散している4学部を出来るだけ早く同一地域内に集結させて、総合大学としての機能を十分に発揮できる条件を整えることである。そこで、この天白校地を総合校地と指定した。前に記したように、現薬学部は、町名(天白町八事裏山)も同じで事実上、一足の距離にあるので、統合を考える必要は全くない。総合グラウンドは法人所有地で、今まで利用しなかった薬学部近隣所在の7000坪の土地を活用することにした。駒方寮は、新校地とは呼応の間の島田町に新築し、近く開設される。
三雲学長の寄稿文が掲載された「名城大学新聞」は、同じ紙面の「統合の基礎できる」の記事の中で、学生記者が喜びの筆を走らせています。「大学院、法商学部、短期大学部の学生が、新年早々から暖房のきいた講義室で受講している。学園紛争を解決し、大学再建を夢見ながら学園を去っていったOBに比べ、我々は何と幸せなことではないか」――。
国立大12校に入試会場
田中さんの本籍地は三重県ですが、父親の代に北海道に渡り、1943年、樺太で生まれました。終戦時のソ連軍侵攻で北海道に戻り、炭鉱の町である現在の赤平(あかびら)市にある道立赤平高校を卒業しました。名城大学に入学したのは1962(昭和37)年4月。高校時代の担任から「名古屋に推薦入学制度がある大学があるから滑り止めに受けておくように」と勧められたのがきっかけでした。入学してみると学生は全国各地から集まっていました。名城大学の「昭和37年度学生募集要項」によると、入試会場は名古屋の2会場(八事校舎、中村校舎)のほか、北海道大、東北大、東京教育大、新潟大、金沢大、信州大、大阪外国語大、島根大、広島大、香川大、九州大、鹿児島大の国立12大学に設けられています。
「長い紛争が続き、地元では学生を集めにくかったことで全国から受験生を集める戦略だったのでしょうし、推薦制も私のように浪人を避けたい受験生には効果があったと思います」と田中さんは振り返ります。
田中さんたちが入学した駒方校舎は老朽化が激しく、新入生たちは「こんなの大学と言えるのか」と落胆したそうです。ただ、ボロ校舎とは言え、学年が進むにつれて母校への愛着が高まっていったのは、駒方校舎に通う法商学部の学生たちだけでなく、中村校舎に通う理工学部、鷹来校舎(春日井市)に通う農学部の学生たちも同じでした。校舎対抗のスポーツ大会では、学生たちが校舎ごとの旗をなびかせながら熱い応援を繰り広げました。
もやの中に現れた天白校舎
田中さんらが3年生、4年生になると天白キャンパスへの移転計画が具体化していきます。法商学部が入る1号館は、現在の共通講義棟北付近に建設された4階建てで、コンクリート箱のような構造ではなく、講義室が両翼を広げたようにのびる斬新なデザインの建物でした。新校舎を見てみたい。第一法商学部駒方学生会の副会長だった田中さんは学生会役員の仲間2人と一緒に、“偵察”に出かけました。
田中さんたちは、天白キャンパスの正確な位置もわからないまま、薬学部付近からお墓の中を通り、造成が進む天白台の中の1号館を探しました。やがて、たちこめるもやの中に1号館が姿を現しました。1号館付近は整地が進んでいましたが、その周辺はまだ丘陵が続いていて、ブルドーザーがうなりをあげて走り回っていました。「もやに包まれ、視界が遮られていたこともありますが、天白キャンパスがとてつもなく広大ではないのかと錯覚をしてしまいました」。田中さんはそう振り返りました。
サヨナラ駒方
1965年11月13日から始まった第16回名城大学祭は、法商学部の学生たちにとっては最後の駒方校舎での大学祭になりました。田中さんたちは学部祭として、住みなれ、世話になった駒方の地へ別れを告げ、新しい天白台への引っ越しのあいさつの思いを込めた「サヨナラ駒方祭」を実施しました。法商学部の入寮生が多い駒方寮、志尚館の寮生たちを中心に200人近くが、沿道の住民にお礼と別れの言葉を送りながら行進したのです。駒方から杁中、八事へ。そして塩釜口に向けて飯田街道を歩きました。坂を登りきると新たなキャンパスが広がっていました。
「駒方の地域の皆さんは、私たちを、“学生さん、そんなことをしてはいかんよ”などと、“さん”をつけて呼んでくれた。先輩たちが向き合った紛争時代には、地域の皆さんにもご迷惑をおかけしたと思いますが、ずっと温かい眼差しで見守っていただいたのだと思います。地域の皆さんに感謝の気持ちを伝えてから駒方を去らなければと思いました」。田中さんは「サヨナラ駒方祭」を企画した理由をそう語りました。
1時間半近く歩き続けた学生たちが塩釜口の坂を登りきり、天白キャンパスに到着したのは夕方近く。田中さんら4年生の学生たちは、各々の名前と思いを込めた一言を書き込んだ石を、新キャンパスの一角に埋めました。「我々こそが名城大学の礎(いしずえ)になろうという決意を込めて、マジックペンを握りました。私も、『礎』という文字を書き込みました」。田中さんの脳裏には、半世紀近くを経たその時の情景が、生涯、忘れることのない記憶として焼き付いているかのようでした。
田中さんら学生たちが記念の石を埋め込んだのは、現在の共通講義棟南の西側付近でした。開学75周年(2001年)に向けてのキャンパス再開発で、現在の共通講義棟北、南やタワー75が建設される際、大学側は田中さんたちが埋めた石の回収を試みましたが石は見つかりませんでした。当時、施設部勤務で、現在は経営本部長(常勤理事)の小瀬輝夫さん(1975年商学部卒)は「一帯が石だらけの地盤だったことや、マジックペンで書かれた字が消えていたこともあり、田中さんたちが埋めたという石は発見できませでした」と残念そうに振り返ります。
階段教室の誇り
田中さんたち法商学部の4年生にとって、天白キャンパスでの学生生活は2か月ほどの短いものでした。田中さんの同期生である松浦照雄さん(大阪府貝塚市)も卒業までの残された時間を惜しむように、授業はしっかり受けました。オンボロの駒方校舎に比べたら天白1号館は夢のような建物でした。「駒方校舎は、割れたガラスの代わりに段ボールを画びょうで張り付けていたほど。1号館には寒風が吹き込むことみなく暖房がきいて快適でした。何もかもが輝いて見えましたし、階段式の講義室のいすから、講義する先生を見下ろしていると誇らしく感じました」。
松浦さんは鹿児島市立商業高校を卒業。商業高校からの大学進学がめずらしい時代でしたが、名城大学に入学し、昭和区山里町にあった学生寮「寿松苑」に入寮しました。寮周辺には食事ができる店はありませんでしたが、天白キャンパスの学生食堂を利用すれば朝、昼、晩の食事の心配はありませんでした。松浦さんが寿松苑からお墓を通りぬけ天白キャンパスに通った時期はごくわずかでしたが、「名城大学生であることの誇りに胸を張って通うことができた日々だった」と言います。
新校舎での講義は教授たちも活気づかせていたようです。「名城大学新聞」(1966年1月28日)のコラム「休火山」には、新校舎に移ってからの講義前の教授の口癖を紹介しています。「校舎だけが立派になってはだめだ。中の学生の質を向上させなくては。駒方のボロ校舎にいるつもりで勉強してちゃ困る」。
名城大学の礎として
田中さんは卒業後、名城大学に職員として1966年4月から2009年3月まで43年間勤務、経営本部長も務めました。田中さんは商学部創立30周年記念誌『碑』(いしぶみ)(1978年9月23日発行)に、「新たなキャンパスへ」という一文を寄せ、新キャンパスへの移転が、名城大学が過去から未来へ向かう大きな節目となったと記しています。
名城大学歴史の中で考えると、私達が過ごした大学生活は意義深いものがあった。なぜなら、大学紛争という重大時の渦中にあって、先輩諸兄が学生としての責任と義務を果たすという、当たり前ではあるが、しかし、大きな意味と価値ある歩跡を残してくれたことによって、それまでの泥沼の状態から、真に大学としての責務と役割を持って、将来に向かって力強く踏み出した時期に、ちょうど学生として名城大学の門をくぐったのだから。
このことは、先輩諸兄が味わえなかった一つの満足を私たちは得たことになる。すなわち、長年にわたった学園紛争が時限立法によって終止符を打ち、昭和38(1963)年の新理事会による大学再建、それに伴う昭和40(1965)年12月の法商学部の現天白台への移転という、大学の一大事業に在学生として参画し、また、駒方校舎での最後の4年生として過ごしたからである。
永年住み慣れた駒方の地を去ることは、言外の惜別の情があった。駒方に対する感情は、先輩諸兄が、また一人ひとりがそれぞれの気持ちの中で同じものをいだき続け、それは今も変わることなく続いているだろう。
私たちは、先輩諸兄が体験した苦悩や血涙はなかったが、話としてよく聞かされ、また現実に社会が名城に対する期待と、反面、世間の冷ややかな見方を知った中で、紛争が解決し、新理事会が動き始めた時、いいしれぬ感情の高ぶりを覚えたのである。それは過去から将来に向かう一つの大きな節をくぐったものであろう――。
1964年5月に着工された名城大学総合校舎建設での第1期工事は1965年12月に完成。紛争という風雪の10年を経て、法商学部(大学院、短大を含む)、本部本館が天白キャンパスに移り、名城大学は天白の地に根を下ろすことになりました。第3部「風雪の10年」を終わります。
(広報専門員 中村康生)