特設サイト第3部 第8回 伊勢湾台風
八事校舎から南区へ
名古屋市発行の『伊勢湾台風災害誌』(1961年3月31日)によると、1959(昭和34)年9月26日に和歌山県潮岬に上陸した台風15号は、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって大きな被害を及ぼしました。台風は伊勢湾沿岸の愛知、三重県の被害が特に甚大であったことから「伊勢湾台風」と呼ばれることとなりました。駒方講堂の全焼に続く伊勢湾台風の直撃は名城大学にも大きな被害をもたらし、学生2人の尊い命が奪われました(以下、伊勢湾台風に関する記載は『伊勢湾台風災害誌』によります)。
名古屋市内は9月26日午後7時ごろ、暴風雨圏内に入りました。市内のほぼ全域が停電し、市電、市バスも完全にストップしました。名古屋地方気象台によると台風は午後7時に和歌山・奈良の県境、8時には奈良県中部、9時に三重県の鈴鹿峠付近にあり、10時には岐阜県の揖斐川上流に達していました。
薬学部3年生だった日比野正徳さん(1961年卒)は八事校舎での実習を終え、南区豊田の自宅に帰るため、午後6時前、金山から柴田行きの市バスに乗り込みました。自宅は名鉄常滑線で金山橋駅から3駅目の道徳駅の近くですが、電車はすでに運転を打ち切っていました。
青ざめる乗客たち
金山から南区内の内田橋、道徳駅、大江、大同町を経て柴田に向かうバスは満員でした。午後6時すぎ、バスは内田橋まで来て立ち往生しました。冠水した道路の水量はどんどん増えているようでした。「もうこれ以上は進めません」。運転士の言葉に、家路を急ぐ乗客たちからは悲痛な声が相次ぎました。「頼むから行ってくれよー」「何とか走ってもらえんだろうか」。哀願するように叫ぶ乗客たちの顔が青ざめていくのが日比野さんには分かりました。
「それなら行けるところまでいきます」。運転士はそう言ってバスを発車させました。内田橋付近では冠水は珍しいことではなかったこともありますが、日比野さんには、運転士が満員の乗客たちの声に背中を押されて腹をくくったようにも見えました。
日比野さんが道徳駅前バス停でバスから降りたとたん、膝までザブッと水につかりました。「こんな水の中、バスは本当に柴田までたどりつけるんだろうか」。日比野さんは立ち去るバスを振り返りながら北に歩き、午後7時ごろ自宅にたどり着きました。
自宅に戻って20分もしないうちに、「山崎川が決壊した」という知らせが飛び込んできました。南に向かった柴田行きのバスは山崎川を越えなければなりません。日比野さんは、満員だった乗客たちを案じながら、両親、7歳下の弟と一緒に1階にあった薬局店の商品を、次々に2階に運び上げました。
決壊した堤防
雨は一段と強まっていました。26日夜、名古屋では平均最大風速37.0m/s(毎秒)、瞬間最大風速45.7m/sを記録し、名古屋港一帯は5.31mもの高潮に襲われました。山崎川だけでなく、天白川、大江川、庄内川、新川、日光川、福田川の堤防が決壊し、市南部一帯に浸水、空前の水害が発生していました。午後9時。名古屋市は災害対策本部を設置し、救助用ボートを借り上げるなどして、救助活動を開始します。26日夜から27日朝にかけ、守山駐屯の自衛隊も市内の災害救助のため出動しました。
日比野さん方では家族4人が1階の商品を段ボールに入れては2階に運び続けました。買ったばかりのソファーを、3脚中2脚目を上げたところで、どっと水が流れ込んできました。水は階段が2階までもう1段半というところでやっと止まりました。
「子供が流されてきたぞ」。外で近所の人たちが騒いでいるのが聞こえました。日比野さんの家の前の電柱の前で、流れ着いた材木に挟まれるように、山崎川方面の南から北に向かって流れてきたオート三輪が引っ掛かり、幼い女の子がしがみついていました。日比野さんや隣家の人ら3人で助けあげました。女の子は家族と一緒に、学区の豊田小学校に避難する途中、つないでいた手が離れ、流されたといいます。
豊田小学校2階に避難していた女の子の家族が現れたのは翌々日でした。駆けつけた両親はあふれる涙をぬぐおうともせずわが子を抱きしめました。「もう絶対に死んでいると思った」。絶望の淵からの歓喜の再会。日比野さん家族ももらい泣きしました。
2階に避難した日比野さん一家が疲れ切った体を横たえ、寝入ったのは27日午前2時すぎでした。名古屋市災害対策本部は午前2時、ラジオを通じて声明を発表し、市民に呼びかけました。「台風15号は名古屋市に甚大な損害を与えました。市はあらゆる方途を講じ、速やかな救助と復旧に全力を尽くす覚悟です。市民の皆様にも格別な協力をお願いします」。
隼人池のボートで
9月27日午前5時。愛知県下に出されていた暴風雨警報は強風注意報に切り替えられ、高潮警報も解除されました。午後0時15分には市電の栄町~星ヶ丘間も運転を再開します。
薬学部のある八事校舎では、学生や教職員たちが連絡の取れない学生や仲間の安否を気遣っていました。
「先生、日比野君の様子を見に行くので一緒に行ってください」。日比野さんら4期生たちが3年生の時のクラス担任で、助教授だった杉原久義名誉教授は男子学生から声をかけられました。伊勢湾台風での被害が最も大きかったのは南区です。南区の死者は1417人。愛知、三重、岐阜の3県の死者全体の3分の1にあたる人数です。
南区はほぼ全域が平たんな干拓地で、海抜0メートル地帯です。日比野さんの自宅がある豊田地区は、道徳、明治地区とともに山崎川と堀川に囲まれた地域です。山崎川右岸が数か所、200mにわたって破堤したことで浸水被害に見舞われていました。
杉原名誉教授と学生たちは駒方校舎に近い隼人池公園(現在の地下鉄鶴舞線いりなか駅から八事方面に徒歩5分)でボートを借り、車の屋根に載せて南区に向かいました。
9月28日の昼ごろ。日比野さんは家の前で「日比野君いるかー」と呼びかける声を聞きました。日比野さんが2階窓から顔を出すと、同級生の梶原信彦さん(東京都北区)が漕ぐボートが家の前にたどり着いていました。ボートには名前は思い出せませんがもう1人の男子学生と杉原名誉教授が乗っていました。2年前に名城大学に赴任したばかりで、まだ若く、兄貴分のような杉原名誉教授は「無事でよかった。大学に戻るのは落ち着いてからでいいから。単位なんか心配しないように」と声をかけてくれました。「内田橋あたりまで車でボートを運び、そこから漕いで来てくれたのだと思います。ありがたかったし勇気づけられました」。日比野さんは懐かしそうに振り返りました。
観音町に先輩が
「近所の観音町に1年先輩がいます。一緒に様子を見に行きましょう」。日比野さんは杉原名誉教授たちとボートに乗り込み、3期生の阿部晴美さん(結婚後は小出一恵さん。故人)の自宅でもある南区観音町の阿部薬局に向かいました。「阿部さん大丈夫か」。日比野さんの呼びかけに阿部さんは元気な笑顔を見せてくれました。
弟の阿部薫仁(しげひと)さんも名城大学の薬学部卒業生(1969年卒)で、伊勢湾台風の時は中学1年生でした。阿部さん宅には、阿部さんの所属していた山岳部の仲間たちも野外キャンプ用の炊事用具などを持って激励に現れたそうです。
やっと水が引いたのはほぼ10日後でした。日比野さんの自宅にはその後、クラスの仲間たちが毎回10人近く、1週間近くにわたり入れ替わり訪れ、泥出しや商品整理を手伝ってくれました。「ヘドロかきまでやってもらい、同級生たちには頭が上がらないと思いました」と日比野さんは語ります。
同級生たちの励ましもあって、日比野さんは比較的早く授業に復帰することができました。「単位なんか心配しなくてもいいから」と先生たちには声をかけてもらいましたが、やはり勉強の遅れは気になりました。幸い、薬学部では伊勢湾台風での犠牲者が出たという話は耳に入っては来ませんでした。ただ自分の薬局の再開を軌道に乗せようと懸命に動き回った父正清さんが翌年夏、疲労からくる肝臓がんのため亡くなりました。酒は全然飲まない、まだ働き盛りだった57歳の父。運転免許を取ったばかりの日比野さんは、正清さんを車に乗せ、病院と自宅を往復しながら回復を祈り続けましたが及びませんでした。日比野さんにとって、父親もまた伊勢湾台風の犠牲者でした。
犠牲の学生2人に合掌
伊勢湾台風が去った9月27日、窓ガラスが吹っ飛んだ駒方校舎で、学生たちが屋根に上がり、強風で破損した瓦を取り除いている写真が残されていました。写真には、老朽化した校舎のうち4教室が使用不能となるなど台風が残した爪痕の大きさが写し出されています。
伊勢湾台風の影響もあってか、「名城大学新聞」は、1959年9月1日の第53号に続く第54号が発行されたのは11月7日でした。第54号1面左下に「伊勢湾台風による尊い犠牲者に心からの冥福を祈ろう」という黒枠の見出しでその2人の名が刻まれていました。
鈴木光君 第一理工学部電気科四年 住所 名古屋市南区柴田西町 帰省地 静岡県
宮尾宗晴君 第二理工学部電気科三年 住所 名古屋市南区柴田町 帰省地 長野県 勤務先 愛知精工(株)
第54号の第2面は、施設面での被害の大きさを取り上げていました。風による学舎、その他の被害は甚大で、正式に発表された全学の被害額は、学部3520万円、短大26万円、附属高校500万円。「学内紛争により、大学の機能はほとんどストップしているため完全復旧には相当の日時がかかりそうだ」と書かれています。こうした中で、教職員や学生たちが中心となって復旧作業が行われました。
老朽校舎に痛手
「名城大学新聞」第54号で紹介されている各学部の被害状況と学生たちの救援活動の取り組みです。
法商学部 老朽学舎だけに各学部中最も被害は大きく、現在使用不可能の4教室をはじめとして天井、壁、ガラス900枚、瓦4500枚とあらゆるところを破壊され、その被害は甚大である。また、教職員、学生の被災者数は教職員家屋全半壊7、学生家屋全壊22、半壊28、床下浸水7である。
救援活動では10月5日から15日まで参加。その間の人数は延べ1027人。また学生会とは別にクラブ単独に参加したものにユネスコクラブの20日間延べ500人など。法商学部は校舎の被害が非常に大きいので学生も学校復旧作業と救援に分かれた。
理工学部 老朽にもかかわらず、法商学部に比べるとわりに少なく、応急修理に26万円を要した。教職員の全半壊家屋17と学生2名の尊い犠牲者を出した。救援活動では科別または個人で活動し、学部としては参加しなかった。
薬学部 新築なので校舎の被害は少ないが、屋根、窓、ドアなどの破壊により実験実習器具に相当な被害を受けた。応急対策費150万円。教職員は全壊家屋1、床下浸水1。救援活動では9月28日より10月16日まで19 日間参加し、10月5日まで毎日200人、6日より16日まで毎日15人と延べ1765人。また、薬学部独特の専門分野を活用して、市内の消毒に従事し、市民の好評を得ていた。
農学部 校舎の被害はガラスの破損、教室の雨漏り程度であったが、農機具倉庫、園芸用温室の全壊、塀の倒壊200m、松林の倒木150本、ブドウ園5全壊など実習面での被害が非常に大きい。被災者数は教職員6、学生8だが、農学部生はほとんどが入寮しているため、この寮生の被害は大きい。救援活動では、校舎が春日井市の遠距離にあり、農場、寮などの被害が非常に大きいので学部周辺の援助だけにとどまった。
続々とボランティア活動に
伊勢湾台風で被災した人たちを救援しようと、名城大学の学生たちは、さまざまな分野で救援活動やボランティア活動に取り組みました。薬学部では「調剤クラブ」に所属する学生たちが、学内にあった薬品を持って、南区など被害が大きかった地域で被災者の救援活動に奔走しました。当時、2年生だった伊藤義雄さん(1962年卒、元助教授、愛知県日進市)も「調剤クラブ」に所属していました。自身は足が不自由だったうえ、緑区にあった自宅が半壊状態だったため、授業再開まで大学には戻れませんでしたが、「調剤クラブ員は50人近くいて、3年生を中心にすばらしい活動をした様子を後から聞いて、誇らしく思いました」と話しています。
理工学部機械工学科1年生だった津田廣明さん(1963年卒)は、9月26日夜、住んでいた清洲町(現在は清須市)のアパートが暴風にさらされました。瓦屋根が吹き飛ばされ、2階の部屋中に割れた窓ガラスが散らばりました。入居者6人で畳を窓に立てようとしましたが、あっと言う間に吹き飛ばされ、天井がグワッと持ち上がる瞬間、周囲にあったものが浮き上がる真空状態も体験しました。救助に来た消防団員が持参したロープを頼りに、必死の思いで避難所となった清洲小学校に避難しました。
津田さんは台風が去った後1週間、八事の火葬場での支援活動に没頭しました。5段、6段と積まれている犠牲者の遺体の入った棺を、火葬炉に入れていく作業。つらい作業が朝から晩まで続きました。
津田さんの出身地は宮城県石巻市。伊勢湾台風から52年後の2011年3月11日、石巻市で幼稚園の園長を務めていた津田さんは東日本第震災に遭遇。園舎の屋根の上に園児や職員らを避難させることで24人の命を救いました。
5大学の伊勢湾台風被害と取り組み
数字等のデータは愛知県内の大学自治会など編集の『伊勢湾台風』より抽出
大学(学生数) | 被害額 | 被災学生への救援 | 学生たちの支援活動 |
---|---|---|---|
愛知学院大学 (1200人) |
1080万円 | 学納金延期許可、寮開放 | 名古屋市に協力し物資運運搬など |
愛知大学 (800人) |
166万円 | 第2期分授業料66人(33.8万円)延納許可 | 救援物資運搬、土のう造り、救急品配布、通信連絡の支援、街頭カンパ |
中京大学 (865人) |
602万円 | 合宿所提供、授業料免除(全免4、半免20) | 愛知県、名古屋市に協力し9月27日~10月15日に1200人 |
南山大学 (1266人) |
101万円 | 食料衣料品を職員が持って慰問 | 街頭募金、土のう造り、炊き出し、罹災証明書発行、衣類整理、消毒、運搬。ドイツ義援金 |
名城大学 (6000人) |
4655万円 | 59人に見舞金(総額4万5000円) | 自動車で荷物や死体運搬、東山葬儀場で遺体処置、薬品持参で病人救援、資金カンパなど。計1055人 |
愛知大学野球リーグの再開
愛知大学野球の1959年秋季リーグ9月12日から熱田球場で始まっていました。名城大学は9月19日からの第2週の愛知学院大戦から登場しますが、1勝2敗で惜しくも負け越しました。17日に強風下の駒方講堂火災に遭遇した野球部1年生の金田辰男さん(1963年法商学部商学科卒)はこの愛知学院大戦で3回戦に代打で初出場し、一、二塁間を抜くライト前ヒットを放ちます。会心のリーグ戦デビューでした。
そして第3週が行われる予定だった9月26日、伊勢湾台風の襲来で、愛知大学野球連盟は緊急理事会を開催し、リーグ戦を1か月中断することを決定しました。金田さんら1年生部員は駒方グラウンドの整備に追われました。グラウンドは台風で、雨とともに、すさまじい東風で砂が舞い上がり、東側の砂が西側にあるバックネット付近に山のようにたまってしまったからです。
リーグ戦が再開されたのは10月30日の第3週から。球場は中日球場(現在のナゴヤ球場)が使われました。中川区にある同球場は、運河が近かったため水につかりましたが、水の引きが早かったからです。名城大学は中京大学と対戦しますが残念ながら連敗しました。金田さんは1回戦に途中から二塁の守備に入り、1打数1安打を記録。2回戦では初めてのスタメンで二塁の守備につきましたが1打数0安打で退いています。
(広報専門員 中村康生)