特設サイト第3部 第4回 神宮への光と影
野球部選手の転入学
愛知大学野球リーグの1953年春季リーグ戦で初優勝し、神宮大会出場を果たした名城大学野球部は、同年の秋季リーグ戦では2位に終わりました。二部リーグから昇格した愛知学院が、第1戦で名城に11-0で圧勝するなど5戦全勝で初優勝を飾ったのです。
神宮大会を指揮した森武雄監督に代わって、秋季大会からは1950年、51年にはプロ野球近鉄パールズ(近鉄バファローズの前身)選手だった永田隆次監督(旧制岡崎中学、日大出身)が就任していました。他大学生への転入学勧誘や高校球児のスカウトによる戦力強化も図られました。
名城大が優勝した1953年春のリーグ戦順位は①名城大②南山大③愛知学芸大(現在の愛知教育大)④愛知大⑤名古屋大⑥名市大でした。愛知学芸大のエースだった伴文夫さん(80)(千葉県市川市)は1954年4月に名城大法商学部商学科3年生に転入学しました。
小中学校教員養成の専門部に在籍した伴さんは、すでに名古屋市内の小学校で教育実習も終えていました。しかし、卒業後は社会人チームで活躍できる可能性にも夢を託し、名城大の池田禎作野球部長からの誘いを受け、転入学を決めました。自宅が鳴海町(現在の名古屋市緑区)にあり、岡崎市にあった愛知学芸大に通学するより、名古屋の名城大の方が通いやすかったこともありました。
伴さんとともに、東都大学リーグの中央大学から法商学部商学科3年生に転入学してきたのが近藤洋一さん(80)(愛知県知立市)です。近藤さんは5人兄弟。一番上の兄は、中日ドラゴンズを監督として1982(昭和57)年に8年ぶり3度目のリーグ優勝の導いた近藤貞雄さん(1925 ~2006)(旧制岡崎中学出身)です。伴さんと近藤さんは卒業後、ともに社会人軟式野球の名古屋製糖で活躍、1961年には全国優勝を果たしています。
近藤さんが転入学したのは経済的な理由で地元に帰らざるを得なかったからでしたが、近藤さんは、「名城大学の野球部史でみたら、我々のころが戦力的にもっとも充実し、最盛期だったのではないか」と話しています。
新聞会の合宿訪問記
名城大学野球部は1954年早々、三重県磯部町で合宿を行っています。「名城大学新聞」(1954年2月18日)には、新聞会記者の「合宿訪問」が掲載されていました。「目指すは神宮」という見出しですが、野球に詳しい学生記者なのか、「今一歩の実力」という見出しも加えられています。
近鉄沿線に沿って三重県磯部にて下車、ここに本学野球部の合宿練習所を訪れてみた。すでに部員十数名はその本領を発揮せんと冬季トレーニングに入ったわけで、今や今年度の優勝をば目の前にして、そして、有望新人を迎えるに当たって、その練習ぶりは見るものがあった。新人中で早くもトレーニングに参加して、その活躍は期待してよかろう。こうして旅館「中六」の一室にて池田部長をはじめ、各部員と一問一答をかわした。
記者 まず今年度の抱負といったところを池田部長、平野マネージャーに聞いてみた。
部長談 昨年度の東京神宮球場にての大学生王座決定戦に参加したことは決して忘れ得ず、春季リーグに立ち向かうわけで、ことに今年度は高校球界の有望新人を迎え得ることは誠に部としても力強く、ただその活躍を期待するわけである。
平野談(マネージャー) 部長さんの言われた言葉は、もちろん私にとっても同意で、愛知六大学はもちろん、中部各大学の王座を狙う。
記者 次に今年度の新入生の中から有望新人といったところを。
部長談 長野県下より来る選手は将来有望視されており、桑名高の荒川等は実に将来楽しめる。
記者 では各選手今後の決意を投手の林君から。
林談(投手) 今年度より2試合制のため、投手としても慎重を期さなければならない。昨年度秋季リーグ当時の不調を今年は一気に挽回します。
安藤談(捕手) 今年はただペナントを目指し、現在の弱点を力強くカバーするとともにファイトを持ってぶつかって行く。
原田談 選手の豊富さは各チームを上回ると思う。それをもって新強愛知学院、愛大等を打倒し、進みたいと思う。
池田野球部長とともにインタビューを受けたのはマネジャーの中世古(旧姓平野)幸夫さん(1956年卒)、投手の林敬一郎さん(1957年卒)、捕手の安藤順夫さん(1956年卒)、外野手の原田嘉幸さん(1955年卒)で、いずれも法商学部の卒業生です。池田部長が紹介した「長野県下より来る選手」は、飯田高松高校出身の押田司選手らを指しています。
北海道遠征で9勝1敗1分
2度目の神宮大会を目指しての合宿をルポした新聞会記者は「今一歩の実力」の見出しもつけましたが、1954年の愛知大学野球リーグ戦での名城は春が3位、秋は2位に終わりました。愛知学院大が1953年秋から1955年秋まで5シーズン連続がリーグ制覇を果たしたのです。1955 年春はリーグ打撃成績で名城の加藤育孝が0.422で首位打者に輝き、林敬一郎が0.366で2位、近藤弘文が0.333で3位と、名城がベスト3位を独占したにも関わらず、チーム順位は愛知大に続き3位に終わりました。
名城大学野球部は1955年8月、北海道合宿と道内社会人チームと強化試合を行います。名城大学野球部にとって初の北海道遠征でした。岩内町にある岩内高校で10日間の合宿の後、小樽、帯広、釧路など25日間に及ぶ大遠征でした。3年生として参加した濱崎和郎さん(84)(名古屋市名東区)によると、強化試合は、岩内高校グラウンドでの小樽野球協会戦を皮切りに11試合が行われました。
初戦で戦った小樽野球協会は小樽市に本拠を置く、北海道を代表する社会人野球チームでしたが、名城は4-2で勝利。小樽野球協会を破ったことで、道内では「名城はなかなかやるではないか」という評価が広まりました。釧路鉄道管理局、三井美唄炭鉱、帯広鉄道管理局、富士製鉄室蘭など対戦した遠征先の球場は多くのファンで埋まりました。
硬式野球そのものがめずらしかったこともあり、帯広市内には「待望の硬式 大野球戦」の看板が登場するほどでした。濱崎さんの記憶によると、11試合を戦った名城の戦績は9勝1敗1引き分け。敗れたのは苫小牧の王子製紙、引き分けたのは富士製鉄室蘭でした。
遠征費用の多くが選手の実費負担ということで、経済的な理由で参加できない選手もいました。参加は16人にとどまりましたが、選手たちには秋のシーズンに向けて、明るい展望の持てる遠征となりました。濱崎さんは「対戦相手や試合日程は、社会人野球経験もある永田監督が段取りしてくれたのだと思いますが、名城大学にとっては貴重な体験でした」と話しています。
池田部長と10人近い退部者
北海道遠征から戻った名城大学野球部は1955年秋のリーグ戦でも外野手の小倉基が、0.441で首位打者を獲得したものの愛知大に次ぐ3位に終わりました。『愛知大学野球連盟35年史』のシーズンごとの「総評」で、春季は「ベストテンにクリーンアップトリオがそろって顔を出しているのに、愛大、愛学院の後塵を浴びた基因は試合運び荒さにあった」と書かれた名城は、秋季も「シーズン前優勝候補だった名城大は2校(愛学院、愛大)の後塵を拝したが、攻法の粗雑さに改善の跡が見られず、調子の起伏が大きかった」と、もろさが指摘されました。
そして名城大学野球部にとって、衝撃的な事件が起きました。1年生、2年生ら10人近い部員たちが、池田野球部長とともに名城大学を去ったのです。1954年に開校した中京短期大学の4年制大学移行に伴い、池田部長は教員として、野球部員たちは野球部入部のため中京へ集団移籍したのです。
影落とす紛争
中京短大は1956年4月に中京大学となり、準硬式野球部から硬式野球部が分離独立し、同年秋から愛知大学野球リーグ2部に加盟します。こうした時期に、池田部長が、自らが高校を回りスカウトした部員たちを引き連れての退部事件が起きたのです。
池田部長が名城大学を去った理由について、当時野球部員だったOBたちの多くが、名城大学での紛争の高まりを指摘します。田中壽一理事長のワンマン経営に対する批判が高まる中、田中理事長は理事会決定を受けて退陣、1955年度入学式は総長不在のまま行われました。池田部長は田中理事長に近かったことが災いし、居づらくなったのではないかという見方です。マネジャーだった柴田守さんは、「多くの運動部が十分な活動費を工面することが出来ない中、池田部長の直談判で野球部が特別格扱いされた時もあった。入学、授業料免除など池田部長の裁量がほぼ認められる状態だった」と言います。
踏みとどまった部員
当時1年生だった中島良さん(77)(愛知県刈谷市)も、「一緒に中京に行かないか」と池田部長からの誘いを受けました。しかし、中島さんは「一晩考えさせてほしい」と答え、断りました。中島さんは長野県飯田高松高校(現在の飯田高校)出身。同校からは同期では中島さんら2人、2年生でも2人が池田部長の勧誘で名城大学野球部に入部。学生たちは駒方校舎に近い池田部長宅を寮代わりに一緒に暮らしていました。
東京商科大学(現在の一橋大学)出身だという池田部長は、厳格な硬骨漢でした。野球経験はありませでしたが、学生たちを厳しく指導しました。一方で「おじい」と慕う学生たちもいました。中島さんは池田部長の誘いに心が揺れたものの、「池田さんのために名城に来たのではない」と思い直し、誘いを断りました。しかし、1年上の2年生で野球部に留まったのは2人だけでした。その1人、伊予田等さん(78)(岡崎北高校出身)は、「中京には中学時代の同級生もいて、一緒にやるのはしゃくだったから」と言います。
池田部長の名城大学法商学部での担当科目は商業英語。教員としての在職期間は1953年4月から1956年3月まででした。中京大学に移ってからは1957年7月に発行された「中京大学論叢(ろんそう)」(中京大学商学会発行)に「日中貿易とその決済方式」という論稿を掲載しています。
「実力低下の名城大」の記事
中島さんによると、10人近い退部者のうち6人はレギュラークラスの選手でした。「もう一度神宮へ」を合言葉にしてきた名城大学野球部にとって、大量退部は大きなダメージでした。1956年4月18日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)運動面に掲載された春季リーグ開幕を前にした「愛知大学野球展望」。「学院大 六連勝成るか」「うるさい存在愛大」そして「実力低下の名城大」の見出しがつけられています。
○…ダークホースは名城だ。選手の移動でスケールが一回り小さくなっているし、加藤の卒業で攻守に大きな穴があいてしまった。伊予田、小倉がどのようにカバーするか。エース林の復調、速球を身上とする鈴木の進境とにらみ合わせ、どこまで波乱を巻き起こすか興味がある。
冬の時代を耐え
1956年リーグ戦での名城は、春季は3位でしたが、秋季は2位でした。ホームラン2本を放ち、本塁打賞を獲得した濱崎さんは「実力低下と新聞の書かれた悔しさもあって発奮しました」と振り返ります。
1957年春季リーグ戦に初登場した中京大はいきなり初優勝。1959年春から1964春まで11シーズン連続優勝という黄金時代を迎えます。中京、愛知学院、愛知のAクラス3強の下で、名城大学はBクラスでの冬の時代を耐えることになります。紛争の長期化は、部員集めにも大きな影を落とすことになりました。名城大野球部が2回目の神宮出場になるリーグ優勝は1975(昭和50)年春まで待つしかありませんでした。
名城大学の愛知大学野球リーグ戦順位 1949年~1976年
1949 昭和24 |
秋6位 | 1956 昭和31 |
春3位 | 1963 昭和38 |
春3位 | 1970 昭和45 |
春5位 |
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秋2位 | 秋5位 | 秋4位 | |||||
1950 昭和25 |
春3位 | 1957 昭和32 |
春4位 | 1964 昭和39 |
春5位 | 1971 昭和46 |
春2位 |
秋4位 | 秋4位 | 秋5位 | 秋5位 | ||||
1951 昭和26 |
春4位 | 1958 昭和33 |
春4位 | 1965 昭和40 |
春6位 | 1972 昭和47 |
春5位 |
秋4位 | 秋4位 | 秋5位 | 秋4位 | ||||
1952 昭和27 |
春5位 | 1959 昭和34 |
春4位 | 1966 昭和41 |
春5位 | 1973 昭和48 |
春4位 |
秋3位 | 秋4位 | 秋5位 | 秋5位 | ||||
1953 昭和28 |
春1位 | 1960 昭和35 |
春5位 | 1967 昭和42 |
春5位 | 1974 昭和49 |
春3位 |
秋2位 | 秋5位 | 秋5位 | 秋2位 | ||||
1954 昭和29 |
春3位 | 1961 昭和36 |
春5位 | 1968 昭和43 |
春2位 | 1975 昭和50 |
春5位 |
秋2位 | 秋4位 | 秋5位 | 秋1位 | ||||
1955 昭和30 |
春3位 | 1962 昭和37 |
春5位 | 1969 昭和44 |
春4位 | 1976 昭和51 |
春3位 |
秋3位 | 秋5位 | 秋4位 | 秋3位 |
立教大学とのオープン戦
1957年3月16日、豊橋市の豊橋球場で名城大学対立教大学のオープン戦が行われました。当時2年生で、3年生からはマネジャーを務めた本間寛さん(77)(愛知県清須市)によると、名城対立教戦は、愛知大対立教戦とのダブルヘッダー第1試合として組まれました。愛知大学野球連盟の当番校打ち合わせで、懇意だった愛知大学マネジャーから、「立教と試合できるチャンスなので豊橋まで来てもらえないか」と要請があったといいます。
東京六大学リーグの立教は、名城が初出場した第2回大学野球選手権大会の優勝校。1954年には長嶋茂雄(卒業後は巨人)、杉浦忠(同南海)、本屋敷錦吾(同阪急)が入団、“三羽ガラス”として活躍、野球ファンを沸かせていました。1957年のシーズンは春、秋とも立教が東京六大学リーグを制覇、8月の第6回大学野球選手権大会で2度目の優勝を飾った年です。そして、長嶋は8本塁打の東京六大学新記録を、杉浦は早大戦でノーヒットノーランを達成しています。
長嶋がセンター前ヒット
長嶋人気に加え、杉浦が地元の挙母高校(現在の豊田西高校)出身とあって、地元新聞も事前にオープン戦開催を紹介、豊橋球場には多くの市民ファンが足を運びました。
岡崎北高校出身の伊予田さん、本間さんは高校時代、三河大会などで何度か杉浦と対戦していました。本間さんは、まだオーバースローだった杉浦から2塁打を打ったこともありました。サブマリン投法の杉浦との対決に胸を躍らせていた本間さんでしたが、杉浦は名城戦には当番せず、第2戦の愛知大戦に登板しました。
午後1時から始まった名城対立教の試合は、立教・森滝義巳、名城・鈴木房夫の両投手の投手戦となりました。森滝投手は立教を卒業後の1960年に国鉄スワローズに入団。2年目には中日戦で完全試合を達成しています。
「森滝の速球に名城の打者はバットがへし折られるほどだった。しかし、鈴木も負けていなかった」と岐阜県岩村高校出身の2年生として出場した市川雅章さん(77)(名古屋市緑区)は、鈴木の力投ぶりをたたえます。「試合後の鈴木は立教の監督に、すごいシュートだったと声をかけられていた」。長嶋は代打で登場。センターを守った伊予田さんは長嶋がセンター前にヒットした鋭いゴロをグローブに収めたときの感触をしかり覚えていました。
連盟内の移動認めず
名城大学と立教大学のオープン戦は2-0で立教が勝ちました。池田野球部長の誘いを断り名城大学に残った中島さんは2年生でした。中島さんは補欠だったため、スタンドから観戦しました。試合前、長嶋ら立教のシートノックや守備練習を見た時は、「これはすごい」と愛知大学リーグとのレベルの差を痛感しました。しかし、試合後は「予想以上に名城が強く立教も驚いたのではないか」と思ったそうです。
中島さんは、中京に移った10人近いかつての野球部の仲間たちについて、「かわいそうだったのは彼らが連盟の規約改正でリーグ戦に出場できなかったこと。硬式野球を続けられたのは1人もいませんでした」と言います。
愛知大学野球連盟は学生野球規約改正に動き出していました。名城大から中京への集団移動後、初めて迎えるリーグ戦を前にした1956年4月17日「中部日本新聞」運動面に、「連盟内の移動認めず」という記事が掲載されました。
愛知大学野球連盟では16日午後2時から愛知学院大分校で理事会を開き、さる11日、東京で開かれた全日本大学野球地区連盟会議に中部地区代表として出席した狩野勉氏(学院大監督)が新たに中部地区評議員兼理事に任命されたあいさつがあった後、春季リーグ日程、協議事項の追加、中京大加盟問題などを協議した。中京大の加盟については二部リーグ(南山大、名工大、名商大、東海同朋大)が承認すれば春季リーグ戦から、認めなければ秋季リーグ戦から出場を求めることとなった。なお、追加協議事項は次の通り。
一、 連盟内の転入学生選手は認めない。
一、 社会人野球協会に登録されたことのある者が入学した場合はその年度内の出場資格は認めない。
引き抜きに厳しい目
中京大野球部の初代野球部長・監督だった滝正男さん(2012年4月2日、90歳で死去)は自著『白球に乾杯』(中央公論新社、2007年)の中で、中京大野球部の愛知大学野球連盟への加盟がもめたことについて触れています。「そもそもの発端は、連盟に所属する名古屋市内の大学から中京大に移籍した教授が、野球部員3人も中京大に編入させようとしたことにあった。3人は高校時代、この教授に誘われて入学したいきさつがあり、教授を慕ってきたのだが、周囲はそう受け取らなかった。戦力目当ての引き抜きと映ったのである」と書いています。
実際に名城大から中京大に移ったのは10人近くですが、当時の名城大野球部員である濱崎さんは「滝さんが書いているのは硬式野球部員として迎えられた3人。他は準硬式野球部に入部している」と指摘します。
滝さんは「こうした経緯もあって、登録選手が同一連盟の他大学に移った場合、『いかなる理由があっても選手として認めない』という規約が正式に加えられた。このため3人を救済することが出来ず、1人は準硬式野球部に転部した。あとの2人は『中京大野球部員であったことを誇りにする』と、そのままとどまり、卒業したが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」と書いています。
甲子園優勝監督逝く
中島さんは2010年12月21日の新聞で、長野県飯田高松高校野球部の先輩で、中島さんより1年先に名城大学野球部に入部し、池田部長とともに中京に移った押田司(おしだ・つかさ)さんが74歳で亡くなった記事を目にしました。「元中京商野球部監督の押田司さん死去 選抜で優勝」(朝日新聞)などの見出しで、各紙は、押田さんが、中京商業高校(現在中京大中京高校)の野球部監督として1959年の選抜高校野球での優勝したこと、1960年から西濃運輸硬式野球部の初代監督を務め、都市対抗野球大会に2回出場した手腕を紹介していました。
押田さんがかつて、名城大学野球部に所属していたこと、その人生を変えるきっかけつくったのが池田野球部長であったこと、そして、名城大学の紛争も影を落としていたことを知るのは今は中島さんを始め、草創期の名城大学野球部員だけかも知れません。
「池田先生はその後、私の就職先の職場に、元気にやっているかと訪ねてきてくれたことがありました」。中島さんは遠い日の思い出を懐かしそうに語ってくれました。
(広報専門員 中村康生)